37.西に見えたもの

 バイクは静かなモーター音をたて、スムーズに上がってきた。それは萌香が知っている単車よりもずっと大きくて、なんとなく水上バイクに似ていると思う。

 少年たちのすぐ横にバイクをつけた青年は、

「ロベルト、ゲイル。ずいぶん奇妙なところで会うな」

 と言って、少し笑った。

 青年の声は低く落ち着いていて、心地よく萌香の鼓膜を打つ。

 ――いい声だな。

 舞台俳優かベテランの声優を思わせる声だと思った。


 当の青年はといえば、ヘルメットをかぶっていないせいか、少し長めの黒髪は風にかき回されたようにボサボサだし、皮肉気な表情が少し意地悪くも見える。よくよく見れば割と整った顔立ちにも関わらず、この髪と表情でそうと感じさせないのが残念だ。きちんと身なりを整えて甘い笑顔の一つも浮かべれば、そのへんの女の子たちがうっとりするくらいの男ぶりになるだろうに。なんとももったいない。

 だが彼の目には子どもたちをからかうような光があり、髪もまあ、それが彼のスタイルに見えないこともない。

 今まできちんとしたヘアスタイルの男性ばかり見ていたが、仕事を離れればこの国で無造作ヘアが流行ってるのかもしれないし、着崩したような彼のスタイルも、もしかしたら流行りを押さえてるのかもしれない。


 でも、少しばかり手を入れてみたい。ついつい萌香は、部員の役を整えるような気分でその男性を観察していたことに気づき、久々の感覚に心の中でニヤリとした。

 年は萌香よりも少し上だろう。二十代前半、いっても半ばくらいに見える。


 じっと観察しつつも気配を消していたせいだろうか。青年は萌香に気づくと一瞬ギョッとしたような表情をし、ついで目を大きく見開いて萌香を数秒間凝視する。最後にはなぜか天を仰いで、何か「あー」とも「うー」ともつかないようなうめき声を発した。


「――エリカ、おまえ自分で登ったのか?」

 どうやらこの青年はエリカとも知り合いだったらしい。兄……ではないはずだ。兄同様彼もそこそこの男前ではあるが、系統がまるで違う。

「貴方は?」

 萌香が頷いた後に、ついついそう尋ねると青年は、

「記憶をなくしたってのは本当だったんだな」

 とぼそりと言い、まずは子どもたちを下ろすのが先だと言った。それに否やはないので、小さいゲイルからバイクに移し下ろしてもらう。

 次にロベルトがバイクに移ると、

「おまえは自力で下りられるのか?」

 と青年に訊かれ、萌香は眉を寄せて情けない顔になった。

「髪と裾が枝に絡まってて動けないんだ。その子を置いたら解くのを手伝ってくれないか?」

「あ、ああ。わかった、待ってろ」

 萌香の男っぽい口調に驚いたような顔をしつつも、彼はロベルトを速やかに下に降ろした。


 萌香は絡まった髪を片手でどうにかほどこうと試みたが、一房だけどうしても取れない。これは、最悪切らないといけないかもしれないが、彼は刃物を持っているだろうか? 引きちぎるのは禿げそうで、さすがに躊躇する。


 ――萌香は成人式のために伸ばしてたけど、もう必要ないかもしれないんだよなぁ。


 そう思った途端、萌香の心がふっと戻りかけ、胸の奥がズキズキと痛んだ。

 突然襲ってきたホームシックにずっと我慢していた涙があふれそうになり、萌香は慌ててそれをねじ伏せる。

「これがガリバー旅行記なら、日本はラピュータの西にあるのに」

 気を紛らわすため独りごち、西のほうを見た。

 遠くに山々が見える。東京で生まれ育った萌香には、それが少しだけ不思議な光景に見えた。

 ロデアは山が多いな。そう思った瞬間、萌香はその先に信じられないものを見つけた。

「え? うそ。あれ、東京タワー?」

 山々の奥に、空に浮かぶように赤い塔が小さく見えた。その左奥には富士山のようなものも見え、ひゅっと息を飲む。


 日本だ。

 向こうに見えるのは日本だ!


 思わず身を乗り出した瞬間、枝を踏み外した。フワッと胃が浮いたような嫌な感じがした瞬間ブチブチッと髪が切れ、スカートが裂けた音が聞こえた。一瞬枝をつかんだものの勢いに腕が耐え切れず、萌香は宙に投げ出される。ミアたちが悲鳴を上げるのが聞こえ、次の瞬間ガシッと抱き止められたことがわかった。

 それはまるでスローモーションのような出来事で、萌香は心臓がバクバクしながらも妙に冷静な気持ちのまま、抱き止めてくれた青年を見上げた。


 心臓がドッドッドッドッと激しく脈打ち、それを落ち着かせるように青年の胸に額を付けると、同じように激しい鼓動が伝わってきた。荒い呼吸に肩が上下する。

「ありが……」

「このバカが。今度は怪我だけじゃすまないだろう」

 地の底を這うような声で静かに叱られ、萌香は思わず首をすくめる。なまじいい声だけに迫力満点すぎるのだ。怒鳴られるよりも怖い。

 青年は右手でハンドルを握ってバランスをとりつつ、左腕で萌香を支えるように胸に抱いたまま大きく息をついた。


「あの、ごめんなさい。助けてくれて、ありがとうございます」


 落ちたショックで、萌香が被っていた仮面は完全に取れてしまった。だが今見えた東京タワーが幻でないことを確かめたくて、萌香は身動ぎして西に目をやる。

 ――やっぱり見える!


「エリカ、降りるからじっとしてるんだ」

「あの、あれ見えますか? 東京タワーと富士山です。見えますよね!」

 震える声で青年の服を掴んだまま西を指差すと、青年はちらりとそちらに目をやり、

「蜃気楼だな」

 と、なんでもないことのように言った。

「ただの幻だ。時々現れるけど、どこにもない」


「嘘だわ……」

「エリカ?」

「あれは実際にある塔だし、山もある。赤いのは東京タワーで東京にあるし、富士山は山梨と静岡にまたがってる。どっちも実際に日本にある。ないはずがない。貴方にも見えるんでしょう?」


 いつのまにかバイクは地面についていた。ミアたちが心配そうに見ているが、混乱した萌香は青年に幻ではないと訴え続け、いつのまにかボロボロと涙をこぼしていた。


「ユリア、子どもたちを連れて先に戻ってろ」

 萌香の泣いてる顔が子どもたちに見えないよう体で隠しながら、青年は子どもたちにそう指示した。

「でも」

「エリカは、落ちたショックで混乱してる。落ち着かせてから送っていくから、向こうにはそう伝えてくれ」

「わかった。アル、エリカ様をお願いします」

「ああ」


 人の気配が遠くになるのを感じながら、萌香は必死に涙を止めようとした。実際混乱していたが、泣くなど自分が許せなかった。

「エリカ」

「私は萌香だわ!」

 青年の気遣うような声に反射的に叫び返す。

 無性に腹が立っていた。自分を押しとどめていたものが、突然決壊してしまったのだ。

「日本はあるじゃない。ちゃんと見えたもの! 私はエリカじゃないって言ってるのに! 帰りたい。私は日本に、東京のうちに帰りたいのよー!」

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