25.迷子の少年
萌香が一人で声をかけたのがよかったのか、少年はホッとしたように息をつくと
「ぼくはゲイル」
と、名前を教えてくれた。
名字を名乗らないのはまだ萌香を警戒してとのことと思い、あえて追及はしない。
「では、ゲイルさん。ゲイルさんは一人? 連れの方はいらっしゃらないの? もし困っていることがあれば、手助けをしますよ」
萌香は小首をかしげ、優しい声を心がける。
この子が迷子だったら相当心細いはずだ。対応を間違えて怯えさせたりしてはいけない。もし怯えて逃げ出したりして、その先で事故にあったりしたら大変だ。
「えっと、姉さまたちと来ていたんだけど、いつのまにか見えなくなっちゃって……」
もじもじと答える少年、迷子決定である。
「もしもの時の、待ち合わせ場所などは決めてませんか?」
携帯電話や園内……ではなかった、町内放送のようなものはないはずだ。それならはぐれた場合、どうしたらよいかの話はしてあるだろう。
「えっと、その……」
――ふむ。これは聞いたけど忘れたわね?
少年の姿に、萌香はそう確信する。
五歳年下の弟がいる萌香は、子どものころから年下の子どもと接する機会が多かった。そして、この少年のような姿にはとても見覚えがある。これは、注意事項を聞いてるふりをしていたがために実際に困ったことになってしまい、途方に暮れているパターンだ。
とはいえ、イチジョーが広いとはいえ子どもの足で歩ける距離などたかが知れている。下手に動くよりもじっとしていたほうが見つけてもらいやすいだろう。
「では、お姉さんたちがいらっしゃるまで、ここで一緒に待ってましょうか」
「えっ? あ、はい!」
少年が同意してくれたので、萌香は二人の様子をうかがっていたベニとハンスを呼び、ハンスには喫茶店で氷水を買ってくるよう頼んだ。本当はアイスティーやレモネードがほしいところだが、初対面の子どもに勝手に飲ませるのはよくないだろう。ついでに迷子を保護した場合どうしたらいいか聞くと、どこかの店から保安所に連絡してもらえばいいということで、それも頼んでおいた。
「一杯は、あなたがお店で飲んでから来てね」
一緒に飲めないなら先に飲んでしまえばいいと思って萌香がそう言うと、ハンスは面白そうに眼を輝かせ、
「承知しました」
と喫茶店へと向かった。
「じゃあ、ゲイルさん。道から見えやすいところに座りましょうか。保安所にも連絡をしてもらいますから、すぐにお迎えが来てくれると思いますよ」
◆
探している人からゲイルが見えやすいよう考え、萌香たちは道路わきのベンチに腰を下ろした。ひさしの陰になっていて、風のおかげでかなり気持ちがいい。まもなくハンスがピッチャーに入った氷水とグラスを持って戻ってきた。
これは外に持ち出せるピクニックセットで食器類は後で返すのだが、テイクアウトとイートインの間くらいのシステムだ。当日中に返却するならば、自宅に持って帰っても構わないのである。小説で読んで知った知識だ。はじめて実際に利用したことにワクワクしている萌香は、さも当たり前のことですよという態度を崩さず、ハンスからグラスを受け取ると、隣に座るゲイルに差しだした。
「のどが渇いているでしょう。氷水ですよ、どうぞ」
「あちがとう。えっと、エリカ……さん」
「いいえ、どういたしまして」
人を探している人がいないか周囲をうかがいつつ、萌香も氷水を飲む。
砕いた氷がたっぷり入った水は、乾いた喉にほんのり甘くおいしい。
水を一気に飲んだゲイルはその一杯で元気を取り戻したらしく、なぜここにいるのかを元気よく話し始めた。
本当は来週イチジョーに来る予定だったのを、夏休みなのだからと無理を言って早く連れてきてもらったこと。本当はホテルに先に行く予定だったのに、どうしても町を探検したくなって姉と侍女と一緒にこっそりマーケットに来たこと。でもお店の中に見えた汽車のおもちゃに夢中になり、気付いたら姉たちとはぐれたこと。
そんなことを身振り手振りで説明してくれるゲイルの様子が微笑ましく、萌香はニコニコしながら話を聞いていた。小さいころの弟・信也を見ているみたいだと思った。
その時だ。
「ゲイル!!」
甲高い声がしたかと思うと、ピンク色の塊がギュッとゲイルに抱き着いた。
「どこに行ってたの! 姉さま心配したのよ!」
「姉さま!」
それは、汗だくで髪を振り乱し、泣きながら怒っている少女だった。信也よりも少し年下くらいに見えるので、中学生くらいだろうか。萌香がハンスに目で合図をしてから少女に声をかけると、少女はそこではじめて萌香の姿に気づいたらしい。ハッとしたように口をつぐみ、「あ、あの……」と言いながら、見る見るうちに真っ赤になってしまった。
「ゲイルのお姉さん? たくさん走ったのね。大変だったでしょう? 冷たい氷水よ。どうぞ」
少女の可愛らしい様子に笑いをこらえながら、ハンスから新たにもらったグラスを萌香が差し出すと、少女は萌香を見つめたまま無意識と言った様子でそれを受け取り、一気にあおった。そして、ハッとしたように氷しか残っていないグラスをまじまじと見つめ、もう一度萌香を凝視する。
「あ、あの、ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
なぜか穴のあくほど自分を見ている少女に戸惑いつつ、萌香は空になったグラスを受け取り、もう一杯いるか尋ねてみる。
「いえ、大丈夫です。あの、エリカ様!」
――ん?
「イチジョー・エリカ様ですよね!」
「え、ええ。どこかでお会いしたことが?」
萌香は名前を呼ばれて、慌てて頭の中のアルバムをめくる。年齢的に学校の後輩だろうか?
「いえ、勝手にお慕いしているだけです! こんなに早くお目にかかれるなんて夢みたい!」
両手を組んで、まるで宝塚の女優さんにでもあったかのような顔をして萌香を見つめる少女は、ハッと気づいたように萌香に背中を向けるとあわてて手鏡をのぞいて髪を整えはじめた。ほんの数秒で振り返ると、まるで別人のような淑女の笑顔になり、
「突然不躾に申し訳ないことをいたしました。お初にお目にかかります。わたくし、ゲイルの姉でフテン・ミアと申します。このたびは弟がお世話になり、ありがとうございました」
と、丁寧に一礼した。そして、ニッコリと大きな笑みを浮かべると、
「わたくし、エリカ様の大ファンなんです!」
と言った。
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