11.エリカの事②(フィンセント視点)

 イナは三人姉妹の長女だった。

 二つ年下の妹がニコル、五つ年下の妹がエマ。

 病弱だが、控えめで優しく美しいエマを、イナとニコルは心から愛し可愛がっていた。だがエマは、イナの結婚式を見届けると、十五歳という若さでこの世を去った。

 ――絶対に姉たちの花嫁姿を見る。

 その思いだけが彼女をこの世にとどめていたのかもしれない。

 亡くなったエマは、生きているときよりも穏やかで安らかな顔をしていた。


 イナの落ち込みは激しかった。

 その後、流行り病で立て続けに両親を亡くしたイナは、元々の気丈な性格がうそのように沈みこんだ。外の人間に、その落ち込んだ姿を見せまいと気を張っていたようだが、シモンがいなければ立っていることもできなかっただろう――。のちにロッテがフィンセントにそう話していたことがある。


 フィンセントも、当時のイナは、まるで別人のようだと思っていた。

 元々のイナは、幼いころから男勝りでしっかりしていて、常に快活で朗らかな女の子だった。

 だが、エマが亡くなり、両親が次々と病に倒れた。イナは長子の責任と義務を一身に負って、家と、ただ一人残された妹ニコルを守ろうと奮闘していた。婚姻後であったことが不幸中の幸いだっただろう。シモンに支えられ、イナはイチジョーを気丈に運営した。先祖が残したものを自分が壊すわけにはいかないと必死だったと思う。シモンも結婚後の数年は、外部から何を言われても、ただイナを守ることだけに専念していた。その姿を、フィンセントは深く胸に刻み込んでいる。


 二年後、上の妹のニコルを無事嫁ぎ、その翌年にイナは長男のトムを出産した。

 さらに六年後にエリカが生まれ、その頃には、イナは完全に回復をしたように見えた。エリカは、面立ちがどことなくエマに似ていたのだ。

 エリカは健康にすくすくと成長した。溌溂としたエリカは、顔はエマに似ているが中身は全く違う。エマを知るものはみなそう話していた。



「イナは、エマが出来なかったこと、持つことができなかったもの、そのすべてをエリカに与えようとしていたな……」

「そうですね」


 フィンセントは遠い昔に思いをはせる。


 エマは、大人になるまでは生きられないだろうと言われていた。

 事実そうなったわけだが、せめて人並みに形だけでも婚約をと望んだ当時のイチジョーの当主たちに、フィンセントは「エマと婚約を」と言われたことがあったのだ。


 三歳年下の従妹であったエマは可愛いかった。

 できることなら願いを叶え、形だけでも花嫁にという気持ちがなかったわけではない。――だが彼女に対する愛情は、あくまで「妹」に対するものだった。

 またフィンセントは、幼いころからロッテと将来を誓い合っていた。たとえ形だけでも、彼女を裏切ることなどできない。


 この話を知ったエマは、珍しく怒りをあらわにした。


「フィンス兄さまにはロッテがいるのよ。私との婚約なんてありえないわ! 兄さま、はっきり断ってくださいね! 私、兄さまがロッテ以外と並んでるところなんて考えたくもないわ」


 青白い頬を怒りで桃色に染めたエマの様子は、不謹慎ではあるが生き生きとしてて、とても愛らしかった。


 そして、いつもなら穏やかにニコニコしているエマの、かつてない怒りに大人たちは根負けし、婚約の話はなくなったのだ。



「昨日のイナさんの取り乱し方は、エマが亡くなった時以上でした」

「……混乱したと言っていたよ。エリカにうっすらエマが重なって見え、娘のはずなのに、どちらなのかわからなくなるぐらい混乱したと。一瞬、エマが帰ってきたと喜んでしまったそうだ……それをとても恥じていた。自分がどこにいるのか、現実に見ているものが何なのかわからなくなったと」

 シモンはそこで、何か考え込むようにしばらく黙り込んだ。


 昨日のイナは、まるで違う誰か・・・・が乗り移ってたかのようだった。

 あんな風に感情的に泣く姿を、少なくともフィンセントは知らない。ましてやメイドのいる前で見せたことなど一度もないはずだ。

 昨日の午後、彼女と少し話しをしたとき、イナは何度も不安そうに「あれはエリカよね?」と聞いていたことが気にかかる。エマを失くした傷は、まだ癒えきってはいなかったのかもしれない。


 やがてシモンはゆっくりと首を振ると、少し笑って

「――自分はマチルダ大叔母の血を引いてることを実感したと、落ち込んでもいたよ」

 と言った。その言葉に、フィンセントもついニヤリと笑ってしまう。


 フィンセントとイナの大叔母マチルダは、生涯独身を貫いた女性だ。

 矍鑠かくしゃくとした女性で、少々口うるさく、ときに感情的になり、よく泣いたり笑ったりしていた。

 子どもの頃は、いたずらをして散々叱られた後、

『本当にバカな子だね、全く。ほれ、叱られ疲れてお腹が減ったろ。たんとお食べ』

 と言っては、いつもおいしいおやつをふるまってくれたものだ。

 陰では、口うるさい女性という意味でめんどり・・・・と呼んではいたが、裏表がないマチルダはいい人だったし、子どもの頃はおやつ目当てによく遊びに行ったものだった。

 三年前に亡くなったのだが、今でもひょっこり顔を出すのではないかと思うことがある。


 昨日のイナは、泣いたりヒステリックになったりして普段の様子とあまりに違うため、内心(マチルダ大叔母が乗り移ったか?)と思っていたのだが、どうやらイナ本人もそう思っていたらしい。


「マチルダ大叔母は、エリカを大変可愛がってましたからね。心配して、イナさんの口を借りてたのかもしれませんよ」


 昨日の午後には落ち着きを取り戻していたイナだが、エリカが高熱を出したと聞き、また少し不安そうだった。娘が、もっと何かを失くすのではないかと考えているようだ。もしかしたらエマのようにこのまま……そう考えているのかもしれない。エマも息を引き取る少し前、不思議なことを言っていたと聞いたことがある。


「だがエリカは健康そのものです。記憶こそ失くしたが。……そうですね、いっそのこと新しく生まれ変わっている最中だと思えばいい」

「それは、いささか乱暴ではないか?」

 あえて気楽な言葉を投げたフィンセントに、シモンはわざと呆れたように目を見開いて見せた。

「……とはいえ、そう考えたほうがエリカのためかもしれないな。だが今後、あの子の記憶が戻るということはないのか?」

「あるかもしれないし、ないかもしれない。こればかりは何とも言えない領域です。もし彼女の記憶が戻るとして、それは明日かもしれないし、数十年後かもしれない。そのとき、記憶を失くしていた間のことを忘れてしまうこともあるそうです」

「なるほど……。難しいものだな」

 そう言って、シモンはふっと息をついておもむろに立ち上がると、

「事故現場や、その自動車のようなものを見せてくれないか」

 と言った。

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