10.エリカの事①(フィンセント視点)

 あの事故から七日。

 エリカは、昨日の午後から高熱を出して寝込んでいる。


 医師のキト・フィンセントは、おそらくストレス性の発熱だろうと考えた。

 消化のいいものを食べさせてゆっくり休ませるようにと、ベニに指示を出しておく。

 昨日、まるで夢から醒めたといった様子のエリカだったが、実際は醒めるどころか言葉以外のすべてを忘れていた。彼女が新しい世界に生まれたようなものだと考えると、この熱も知恵熱のようなものかもしれない。


 事故の怪我は、けっして命にかかわるものではなかった。

 なのでフィンセントは、エリカの父親であるイチジョー・シモンには当初、次の休暇まで帰らなくても問題ないと伝えていたのだ。しかし、昨日エリカの記憶障害が判明したため、シモンは当面の仕事を執務長と長男のトムに後を任せ、今日の午後屋敷に戻ってきた。


 イチジョー家は普段、シモンの妻であり、フィンセントの従姉いとこでもあるイナが切り盛りしている。

 フィンセントの妻のキト・ロッテが執事としてイナを支えているため、イチジョーの運営には普段は何の心配もいらなかった。


 イチジョーは、伝統ある人材育成学院だ。

 各地にある初等教育学校を卒業したものの中から、推薦された人材が集まる。

 ここでは主に、家の中を切り盛りするスペシャリストを育成している。より優秀なものは、ここで学んだあとに、ラピュータでシモンが経営している上級学院に上がることもできる。

 能力が重視されるラピュータでは、中流階級の人間が上流階級に行くことも可能であり、より優秀な人材が育成されるイチジョーの評価は高い。


 屋敷に着いて早々にエリカを見舞い、遅い昼食をイナととったシモンは、そこでイナから話を聞いたようだ。食事が終わったころを見計らい、フィンセントはシモンと共に彼の書斎に移った。

 シモンは、くつろいだ服装に着替えていた。にもかかわらず、背が高くがっちりしたその風貌はひとを圧倒する。フィンセントは子どもころから、ロッテの兄でもあるシモンを、王のような風格だと崇拝にも似た気持ちを持って見ていた。しかし今日のシモンは、いつもとは違う疲れを微かに見せていた。身内でも、ごく身近な男にしか見せない姿だろう。白髪の混じり始めたとび色の短い髪をスッとかき上げ、ふうっと息をついたシモンを、フィンセントは同情を込めて見つめた。


「――エリカの様子は?」


 シモンには逐一報告はしてあるし、先ほど実際に会っているが、フィンセントは改めて順を追って話を始めた。


  ◆


 七日前の、あの事故の日の朝。

 その日、エリカの元婚約者であるフリッツの婚約が発表された。

 二人の婚約解消から半年余り。あまりの早さに世間はざわめいたが、同時に、その婚約がフリッツ本人やフリッツの家に利益をもたらすものとあって、仕方ないという意見が大半であった。


 だがフリッツは、エリカが十年も婚約していた相手である。

 今は他人である――そうは言ってもショックだろうと、誰もがその知らせをエリカの耳に入れないようにしていた。

 部屋にエリカがいないと大騒ぎになったのは、その日の昼過ぎだ。



「お嬢様が! お嬢様が死んでしまう!」


 外まで探しに行っていたメイドの一人が、泣きじゃくりながら屋敷に駆け込んできた。

 大けがをしてエリカが倒れていると。

 真っ白な顔で、「お嬢様がもう息をしていない」と、半狂乱になりながら叫んでいるメイドを落ち着かせ、どうにか場所を聞いたフィンセントたちが駆け付けると、そこには見たこともないものがあった。


 コロンとした赤いボディに四つの車輪がついているそれは、どうやら自動車のようだった。

 だが、自動車にしては小さい。しかも、機械式の乗り物であることは確かなのに、昔の自動車のように車輪がついているのが奇異だ。

 クラシックカーというには形が全然違う。美しく曲線を描く艶やかな車体は、けっして古いものには見えないが、見慣れないデザインである。

 そのタイヤでさえ、クラシックカーとは違うものだ。


 一瞬フィンセントたちには、真っ赤なそれが何かはわからなかった。だが近づくにつれ、その中にエリカがぐったりとしているのを見つけ、慌てて外に抱え出した。

 窓に使っていたであろうガラスが粉々に砕け、エリカに降り注ぎ、顔中が血で真っ赤になっていた。

 頭を打った衝撃で気を失っているようだが、脈はしっかりしている。


「下手に動かすのは危険だ。ストレッチャーを出してくれ。できるだけ頭を動かさないよう、気をつけて」

 フィンセントの指示を受け、助手が携帯救急デッキからストレッチャーを引き出す。スイッチを入れ、用意が整ったそれに細心の注意を払ってエリカを乗せ、医務室まで運んだ。


 おそらくエリカは、あの不思議な自動車でどこかに行こうとしていたのだろう。

 隠れてこれを作っていたのは間違いない、とフィンセントは考えた。

 まるで、イースデストの男がはくようなデニムのズボンをはいていたから、そちらに向かうつもりだったのかもしれない。


 芝居の中でもあるまいし、女の子がズボンをはくとは。

 髪は長いままだが、もしかしたらどこかで切って男のふりをするつもりだったのだろうか。――そう考えて、フィンセントは胸を痛めた。


 屋敷に戻った後、エリカはなかなか意識が戻らなかった。何度も血を吐いたのでまわりは肝を冷やしたようが、肺や内臓にダメージがなかったため、それは口を切った時に飲んでしまった血液だとフィンセントは周りに説明する。念のため頭部の検査をしたが、特に心配なさそうだとその時は考えたのだ。

 膝に刺さった細かく砕けたガラスを抜くのに苦労はしたが、それもひと月もすれば治るだろう。


「しかし、本当に記憶を書き換えてしまうとは思いもしませんでした……」


 昨日エリカに名前を聞いたとき、彼女が「エリカ」と答えようとするのをフィンセントは遮った。

 彼女は幼いころ、童話のまねをして名字を省略し、名前だけを名乗る癖があったからだ。

 またその癖が出たと、フィンセントは瞬時に思ってしまった。

 だが今は、エリカが「イチジョー・エリカ」であることを本当に忘れてしまっていたのが分かる。


「言葉以外の知識や記憶が、ごっそり抜け落ちています」

 そう言っていったん言葉を切ったフィンセントに、シモンは続けるよう促した。

 ベニの報告によると、エリカはトイレの使い方ひとつわからない、都市が空にあることにも驚いている。

 エリカが夢に描いていたものだけを、とうとう現実だと思ってしまったのが哀れだった。

 住んでる場所は「トキオ」だと言っていた。

 昨日のエリカは、間違いなく本気でそう思い込んでいた。


「トキオか……」

「ええ。アウトランダーの世界ですね」


 エムーアには、時折アウトランダーと呼ばれるものが現れると言われている。

 彼らは不思議な力や知識、才覚で歴史を動かす稀有な存在だ。


 彼らは遠い海の果て、失われた大陸の先にある幻の国からやってくる。「トキオ」はそのなかのひとつだ。――秀でた人間を、時に災厄を揶揄するおとぎ話。


「エリカは、昔からアウトランダーに惹かれていたな。子どもの頃だけだと思っていたが……」

「現実は、エリカには重すぎたのでしょうか?」


 エリカは太陽のような娘だった。

 美しく、人々を惹きつけ、いつも彼女の周りには人が集まった。誰もが彼女の関心を引こうとしてたと言っても、決して大げさではなかっただろう。

 婚約者がいるとはいえ、イチジョーの大きさに魅力があるのは間違いない。

 彼女に取り入ろうとする人間がいるのは当然だった。


 だがその実、彼女自身はどこか孤独な瞳をしていた。それでも、フリッツといるときは幸せそうに見えていたのだ。フリッツ自身もエリカに惹かれていたように見えた。だから、あの突然の婚約解消は、社交界に衝撃をもたらした。


「エリカ自身が納得し、自らフリッツに勧めた婚約解消だと聞いていたよ」

「そうですね。たしかに」


 その選択が、フリッツの利になったのは確かだ。

 そのことでエリカを悪く言うものなどいなかった。

 そんな、自ら身を引いたエリカを伴侶にと望む男は、老若を問わず多かったそうだ。


「求婚者が後を絶たないと聞いてますよ」

 フィンセントがそう言うと、シモンは肩をひょいとすくめる。

「エリカが望むまで教えるつもりも、話を進めるつもりもなかったよ。だが、こうなると話が変わってくるな……」


 エリカはそのすべてを遮断し、傷心で引きこもっている。それがイチジョーが対外的に使う断り文句だった。半分本当で半分嘘だ。


 彼女は、どこか遠くを見ていたのだ。

 それがどこかはわからない。

 誰が聞いても、いつのまにかはぐらかされている。

 イナは不安だっただろう。いつか、娘が消えるかもしれないと怯えていたのは確かだ。


 昨日のエリカは、以前の太陽のような見た目はそのままに、月の光のようなひっそりとした印象の少女に変わっていた。

 まるで――、


「さっき、エリカを見て驚いたよ。エマがそこにいるのかと思った。――あのイナが取り乱したのも、無理はないと思ったね」

 シモンが弱々しく笑ってそう言った。


 記憶を失くしたエリカは、イナの末の妹――若くして亡くなったエマにそっくりだったのだ。

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