13.すっきりした朝
「うわぁ、すごい。体が軽い!」
あまりにも寝込みすぎて少しふらっとするものの、久々に心身ともにすっきりと起きられた朝。萌香はさっそく窓際に行き、錠を二か所手早く解除すると窓を大きく開け、朝の新鮮な空気を深く吸い込んだ。
この部屋で目覚め、何が何やらわけがわからず、調べようと決意してから早くも一か月がたっていた。
あの日の午後から何日も高熱が続き、少し回復したかと思ってもすぐに発熱する日々。
心細さに何度も泣きたくなったが、どうにかこうにか、ようやく体調が整ったようである。
痛みというものは、自分で思っている以上に体力を消耗する。
そのことを、病と闘う父を見て萌香自身わかっていたはずだった。しかし、いざ自分がそうなってみると、体力以上に心までゴリゴリと削られるような感じがして仕方がない。家に帰ることもできないまま、このまま二度と健康にはなれないのではないかと怖かったのだ。
◆
熱を出した日の夜、診察に来た医師の見立ては
「知恵熱のようなものでしょう」
だった。
「色々忘れいても、知恵熱、なんですか?」
本気で記憶喪失だと信じている医師に、萌香は苦笑いをしながらそう言うと、
「空っぽにした頭に、新たに知識を詰め込もうとしてるのでしょう」
と、穏やかに返される。
空っぽになった頭の中のバケツに、バシャバシャと熱いお湯が汲まれている様子が思い浮かんだ萌香は、せめて日向水程度にしてほしいとぐったりした。高熱のせいで、頭がガンガンしてつらすぎる。
そんな萌香に、医師は優しく笑いかけ
「今はゆっくり休むしかないでしょう。今の状態は、あなたにとっては相当負担だと思いますよ。言葉が分かるだけの、生まれたての赤ん坊のようなものですからね。おそらく発熱もそれが一因でしょう。特に悪い病気というわけではないですから、心配しないで大丈夫」
と言うと、まるで小さな子供にするようにスルリと萌香の頭をなでた。
「え?」
突然の親密な行為に萌香は目をぱちくりする。
その様子に、医師は再び微笑むと
「僕のことも、全くわからないですか?」
と、口調も親しげなものに変わった。それは、萌香を赤ん坊のころから可愛がってくれている近所のおじいちゃんや、親戚のおじさんを彷彿させたため、一応記憶を探りつつ、まじまじと医師の顔を見つめる。すると不意に、彼が思っていたよりも若いことに萌香は気がついた。白髪で堂々とした感じからかなりの年配だと思っていたが、よく見ると目の色は灰色で、どうやら髪の色は白ではなく銀のようだ。異性の年齢などよくわからないが、自分の父親くらいか、もう少し若いかもしれない。
――日本語が上手だけど、外国の方かしら。
とはいえ、もちろん彼が誰かはわかるわけもなく
「すみません。だれ、ですか?」
と、素直に聞いてみた。
「僕はあなたの母親、イナの従弟です」
ということは、絵梨花の親戚?
「イナさんとは幼いころから一緒に育ったようなものでしてね、エリカのことは赤ん坊の時から知っているんですよ。ああ、そうそう。僕の名前は、キト・フィンセントといいます」
「フィン……セント……さん」
――やっぱり外国の方なのね。ということは、絵梨花のお母さんもそうなのかしら?
そう思い、イナの姿を思いだそうとするが、残念ながら彼女のドレスと泣いている姿しか思いだせなかった。
キトが名字で、フィンセントのほうが名前だと教えられ、萌香は少し意外な気がする。日本と同じ順番は珍しいなと思ったのだ。しかし、高校のときハンガリー出身の同級生がいたが、彼の話ではハンガリーも名字が先らしい。萌香が知らないだけで、世界にはそういう国も意外とあるのだろうか……?
そんなことを考えながら、再びウトウトとまどろみ始めた。
翌日昼過ぎには、都市から急きょ帰ってきたという絵梨花の父親のシモンも見舞いに訪れた。
ちょうど萌香がウトウトしていたところだったのでまともに会話はしていないが、思っていたよりも大きな男性だったことに驚く。
萌香の父親は中肉中背の優しい面立ちの男性だが、絵梨花の父親は、その姿や低く響く声と相まって、まるで海外のアクション俳優のような人だった。
服装も、ヴィクトリア朝? それともエドワード朝? そんな十九世紀から二十世紀初等の英国、もしくはヨーロッパを思わせるような、クラシカルな感じの服装がとても似合っているのが余計に俳優っぽくて、とても非現実な感じが増す。
「ゆっくりお休み」
シモンもそう言って、やはり萌香の頭をすっと撫でていく。
萌香は戸惑いつつも、もしかしたら、ここにはそういう風習があるのかもしれないと思うことにした。実際それは正解だったのだが、幼稚園以来、男性から頭を撫でられる経験がなかった萌香はどうにもその行為に慣れず、毎回戸惑ってしまうのだった。
◆
窓から見える庭は相変わらず広くて美しかった。
だがすでにバラの時期は終わってしまったし、残念ながらアジサイも見に行けなかった。
萌香はこの一か月何度も発熱を繰り返し、食事もまともにできなかったため、かなり体重は落ちた実感がある。
もともと太ってはいなかったが、丸顔のうえ、顔に少々肉が付きやすい体質の萌香は、実際よりもぽっちゃりして見えるのがコンプレックスの一つだった。だが頬についていた肉が落ち、少しやせた体とのバランスがよくなった気がするので、あとで鏡を見るのが少し楽しみに思う。
目の上もガーゼがとれ、まだ触ると傷あとが分かるが痛みはない。
瞼の腫れが引いたので、視界も広くなったと思うのは、萌香の気のせいではないだろう。
口の中の傷も治ったが、下唇中央にはしこりができている。これも時間が経てば無くなるとのことだが、
「やっぱり、もうしばらくは鏡を見るのはやめようかなぁ」
ついついそう思ってしまう。
毎日最低限チラリと鏡は見るのだが、髪のハネや顔に汚れがあっても紅が見逃さないだろうから、なんとなく鏡を見るのはやめているのだ。
熱で弱気になっているときは、もしそこに違う顔が映っていたらと考えてしまい、なんとも怖くて仕方がなかったのだ。代わりに絵梨花の写真や動画はたくさん見たのだが……。
とはいえ、今朝のスッキリした頭なら、大抵のことはどーんと受け止められそうな気がする。
「それにしても病弱なお嬢様って、想像以上に大変なのね」
窓辺に置いてもらった椅子に腰かけ、頬杖を突きながら独り言つ。
あまりに続く体調不良に何度かくじけそうになったが、途中から密かに「体の弱い、深窓のご令嬢ごっこ」をしていたとは誰にも言えない。
それは、どうにもならないことに直面したときにする、萌香のくせのようなものだった。
萌香の座右の銘は、「どんな時でも、良いことや楽しいことを見つけたほうが、絶対にいい」だ。
何かあっても、これが萌香ではなく、〇〇ならどうする?
そんな感じで、心の中では架空のお姫様になったり、屈強な女戦士になったりしてきた。それが高じて演劇が好きになったというのもあるかもしれないが、あくまで自分がベースなので、演じることを仕事にしようとは一度も考えたことがなかった。
それにしても、絵梨花は、一条絵梨花ではなくイチジョー・エリカだったのが不思議な感じがする。
萌香がフィンセントから最初にこの名前を聞いたとき、無意識にしっかり漢字で思い浮かんだものはそうではなかったのだ。
恵里萌香の字を取った
なぜあの字が自然に思い浮かんだのか、自分でもよく分からない。
萌香は遠くに見えるラピュータを見つめながら、この一か月に思いをはせた。
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