3.事故
唐突に思いもしなかったことをヘレンに言われ、今度は萌香が大きく目を見開く番だ。
――色気? 駄々洩れ? 誰の事?
自分のこととは思えず、思わずキョロキョロする萌香に、ヘレンはうっとりとした表情を向ける。
――ヘレンがまたトリップし始めた!
ヘレンの目にどう映っているのかわからないが、時々崇拝しているかのように彼女は萌香を見る。その不思議な目で、もしかしたら異次元の何かでも見ているのかもしれない。半ば本気で萌香はそう考えた。
「エリカ先輩、今朝は入ってきたときから、なんかこう、濡れた瞳にさらに磨きがかかってて、女の私でもクラクラしたんですよ! ほら、なんか守ってあげたいっていうか! 気づきませんでした? 佐久間君とか森本先輩が、ずっと先輩を見て赤くなってそわそわしてたの!」
「いやいや、それは気のせいよ」
色気などあったらこんなにあっさりフラれてないだろうと、萌香は間髪入れずにつっこむ。言ってはなんだが、生まれて昨日で二十年、仮にもモテたのは一条にだけなのだ。モテるのがデフォのヘレンには、もてないのが当たり前ということが理解できないのかもしれない。
少しだけ落ち込みつつ萌香がそんなことを考えていると、ヘレンは舞台に立ってるときのような、大げさで悩まし気な溜息をつく。
「そっかぁ。失恋は女をきれいにするのかぁ」
「…………いえ、あのね、ヘレン。それはないから、ね?」
どこまで本気なのかわからず萌香が否定し続けると、ヘレンはやれやれといった顔で笑った。
「ま、先輩ですからね。そのままのエリカ先輩が私は大好きですよ」
「ありがとう。私もヘレンが大好きよ」
素直に愛情を伝えてくる姿が可愛いなあ、と思いながら萌香が笑いかける。すると、ヘレンはポッと頬を染めてだらしなく笑うので、ますます可愛いと思い和む。ヘレンのどこがクールビューティー? と思う瞬間だが、こんな表情は萌香の前以外ではめったに見せないことも知っていた。
「先輩を振るなんて、そもそもそんな男、先輩には似合わなかったんですよ!」
そう力強くヘレンに言われ萌香は微笑んだが、私が男だったら立候補すると言ってるのは、いつもの冗談なので
「彼氏はどうするのよ」
と笑って流す。
ヘレンには中学時代からラブラブの彼氏がいるのだ。萌香は二人が付き合うまでのひと騒動にも付き合っているし、彼のほうからは今も萌香は「恩人」と言われている。
「えー、どちらも選べないぃ」
ヘレンは頭を抱えて悩むふりをして見せ、その様子に萌香が噴き出すと、二人でしばらくクスクスと笑い転げた。
そのあとは、女優になった中学時代の部活仲間、木之元麻衣が出ているドラマの話などをしつつ、部員たちがお弁当を食べている部室に行く。お弁当後のおやつタイムだった後輩たちに、また夏休みに顔を出すねと約束をして、萌香は学校をでた。
なぜか少し若返ったような気分になりながら。
◆
高校に駐車スペースはないため、少し離れたコインパーキングから車を出す。
萌香が普段瀬川高校に行くときは鉄道を使うのだが、今日は帰りに弟を迎えに行く約束をしているので車で来たのだ。
弟の信也は中学三年生だ。今日は模試を受けている。
信也が模試のあと学校に行って午後の部活に出るというので、試験会場から近い瀬川高校から迎えに行く約束をしていた。試験会場が位置的に電車の乗り継ぎが悪いため、車のほうが早く中学に行けるからだ。
信也は高校でもテニスを続けたいと、あこがれの先輩選手が通う高校を目指している。私立でそこそこレベルも高いため、部活も勉強も手が抜けない。
弟が行きたい高校を目指せることが、萌香は嬉しかった。
萌香たちの父親は、萌香が中学三年生になってすぐに原因不明の難病におかされた。入退院を繰り返す父の代わりに働く母を支え、萌香は家事をし、まだ小学生の弟の面倒をみる。そして急遽進路を、元々目指していた進学校から商業系の瀬川に代えた。
瀬川は資格がとれ就職しやすいが、進学にも強い高校であるため九割以上の生徒が進学する。なので、生活が元に戻れば推薦で元々志望していた大学も狙えるというのも、瀬川を選んだ大きな理由の一つだった。だが萌香が高校在学中、父は何度も生死のはざまをさまよった。それが萌香が卒業し、まもなく使われた新薬が劇的に効き、父は奇跡的に回復。たった半年で病気だったことがウソのように元気になった。
「今からでも進学を目指さないか?」
高卒で就職した萌香に両親はそう言ったが、職場の人間関係にも恵まれているし、学びたいことができれば、いずれ何らかの形で学ぶこともできるだろうと、萌香は笑って断る。父親が元気になったからと言って、うちの経済状況が劇的に好転したわけではないことはきちんと理解していた。その分、弟の信也が自分の望む道に行ければいい。
萌香が小学校から頑張ってきた演劇には、就職をしてしまえば係る機会はないと思っていたが、今でも何かと後輩から相談を受けるし、他校の友達も舞台に誘ってくれる。もともとその道に進みたいというわけではなく、あくまで演劇は趣味の範疇だったので、萌香としてはそれで十分楽しい。
試験会場まであと少しで着くというところで、一瞬目の端に稲妻が見え、ほどなく雷鳴が聞こえた。さっきまで晴れてた空にはいつのまにか黒い雲が立ちこめ、空気がひんやりしている。
雲の中を切り裂くように、今度は正面に横一文字に稲妻が走るのが見えた。
ポツ、ポツ……と大粒の雨がフロントガラスを濡らす。雨が入らないよう少しだけ開けていた窓を閉める。うちのほうも雨が降るだろうかと考えつつ、弟を迎えに来たのは正解だったなと思った。
再び雲の中を切り裂くように稲妻が走る。
「すごい。昔の人がこれを見たら竜だと思うかもね」
と萌香が妙な納得をした瞬間、いきなり目の前に黒いものが飛び出した!
歩道に人影がいないことを瞬時に見て取り、ハンドルを切りながらブレーキを踏み込んだ瞬間、強い衝撃が走る。
車のフロントガラス、リアガラス、運転席側のガラスが粉々に砕け散り、なぜかエアバッグのでなかったハンドルに顔を強く打ち付けた萌香は、そのまま意識を手放した――。
◆
事故現場を目撃した人々は大騒ぎだった。
何か黒い大きなものが突然現れ、一台の赤い軽自動車が事故にあったのだ。
だが、大騒ぎになった理由は事故そのものではない。
事故の直後、その車も謎の影も、現場から忽然と姿を消したのだ。
一瞬夢でも見てたのかと、お互いに顔を見合わせる通行人たち。
付近にいた人の証言や、後続車や反対車線にいた車のドライブレコーダーの映像を見ても、黒い何かの影と、その影が大きな手のように車を握りこむように起こった事故の映像がはっきり残っている。そして、何かのトリック映像のように車も謎の影も消えている。影にしか見えないものが何なのか、なぜ車が忽然と消えたのか。科学的に検証しても原因はつかめなかった。
事故現場に残ったブレーキ痕と、粉々に砕けたガラスだけが、それが夢ではなかったことを示していた。
このニュースが報道されると、ネットではこの怪奇現象に、やれ異世界転移だの神隠しだのと騒然となった。しかも近郊で数件、同じような事件事故が発生したからだ。だが原因究明に関しては特に進展もないまま新しいニュースにながされ、この事故はまもなく人々からは忘れ去られた。
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