18.一か月の出来事(5)
数日雨が降り続いていた。
サーッという雨の音に、萌香は言いようのない不安を覚える。
どんよりとした黒い雲を見るのが怖くて、「窓にカーテンがあればいいのに」と独り言ちる。
――この部屋は、あまり生活感がないよね……。
きっかけは何だっただろう。
「エリカ。私はあなたが思うように生きてくれたらいいの。だからもう二度と……お願い、二度とイチジョー・エリカは消えるなんて言わないで」
「えっ? 消える、ですか?」
突然のイナからの懇願に、萌香はギョッとする。
「ええ。あなたが言ったのよ。思いだすことはできない?」
普段落ち着いて堂々としているイナが、突然初めて会ったときのような不安そうな顔でそういうので、萌香は慌てた。
「あ、あの、わからないです、ごめんなさい」
――いったいどうしたんだろう?
「ああ、いいのよ、あやまらないで。ごめんなさい、わからないわよね。……私も時々、エリカの言う事はわからなかったもの。突然変なことを言ってごめんなさいね」
エリカは学校でも常にトップという優秀な学生だったらしい。
ただ時折まわりと会話がかみ合わないこともあったようで、エリカがポロッと何かおかしなことを言っても、大して周りが気に留めないのはそのせいだと分かった。
色々考えた萌香は、もしかしたらエリカは頭が良すぎてついてまわりがいけなかったのか、発想が突飛すぎて、周りには理解できなかったのかのどちらかだったのかもしれないと見当を付ける。
だが消えるとは、どういう意味なのだろう?
「いいの。全部忘れててもいいの。お母さまって呼んでくれなくてもかまわない。あなたが生きてここにいてくれるだけでいいのよ」
赤ん坊に言ってるような、甘く柔らかいイナの声。なのにどこか諦めの色を萌香は聞き取った。
「イナさん、あの……」
「なに?」
「今聞くのは変かもしれないんですけど、妹さんが亡くなった時に何かあったんですか?」
十五歳という若さで亡くなったイナの妹。その死を看取ったのはイナだという。
萌香がその妹に似てるのはわかった。だが時々、イナは萌香の向こうに何かを見ているような気がするのだ。もしかしたら聞いている以上の何かがある気がしてならない。
「そうね――エマが亡くなる少し前、不思議なことがあったって話はしたかしら」
少し考え込んだ後、イナはゆっくりとそう話し始めた。
「いえ」
「そう。あの日は不思議なくらいエマが元気でね……。あの子、『エマはもうすぐ消えるわ。でも大丈夫よ』――そう言ったの」
ここでも「消える」?
「普段自分のことは私っていう子だったし、不思議なことを言うなぁと思っていたんだけど、その後すぐに高熱を出してね。あの子が息絶える直前、誰かがあの子に重なって見えたの。……でもそれは、ほかの誰にも見えなかったって。私が錯乱してて幻を見たんだって言われたわ。……そのあとロデアで流行り病が猛威を振るってね……たくさんの人が亡くなった。あなたのおじい様もばあ様もその時亡くなったのよ」
そんな経験をしているイナに、娘までが「消える」なんて言ったら、それはショックだっただろうと思う。
ロデアでは性別に関係なく長子が家を継ぐのだそうだ。
今の私と同じ二十歳で、両親や兄弟、ほかにも知ってる人がバタバタと亡くなっていく――そんな光景を思い浮かべ、萌香は愕然とする。想像もしたくない悪夢だと思った。
「あの日のあなたにも、何かが重なって見えたの……」
「えっ!?」
予想もしてなかった言葉に、萌香はゾゾっと鳥肌が立って、思わず手で二の腕をさする。
「な、なにが見えたんですか」
「最初はエマだと思ったのよ。でも違った。だって、エマに見えたのはあなた自身だったから」
それは、エリカと雰囲気の違う萌香のほうがエマに似ていたという意味だろう。
では一体何が重なって見えたというのか。
「だから、冷静になってみたら、あれは気のせいだったのよ」
そう言って、萌香を安心させるようにイナはニッコリと笑った。
「そ、そうですよね」
高いところとお化けは苦手なので、気のせいだったというイナに萌香は一も二もなく賛同したのだった。
◆
言葉が通じるのは、自分がイチジョー・エリカ本人だからかもしれない。
あるいは、萌香が覚えていないだけで、何か契約のようなファンタジー展開があったのかもしれない。
何があったにせよ、とにかく落ち込むことをやめ、萌香は表向きエリカとして生きることを受け入れる決意をした。
すべての人が私をエリカだと言うなら、抵抗し続けても意味がないように思うのだ。萌香が萌香だと証明できるものは何も見つからない。でもここでこのまま足踏みしていても、なにも進まないし解決もしない。
なによりも、今はイナを悲しませたくはないと思った。
日本ではきっと萌香の母が悲しんでいるはず。でもここでもエリカの母が悲しんでいる。その片方だけでも慰められるのならそうしたかった。今できるのはそれだけだと思うから。
「イナさん。私はエリカという記憶がまったくありません。何を見ても何も思い出せないし。それでも私はあなたの娘だと思いますか?」
そう尋ねた萌香にイナは
「あなたは私の娘エリカだわ。もう一度生まれてきてくれて嬉しい」
そう言って笑った。
ここの人たちは、エリカが生まれ直したものと考えることにしたようだ。
ここでの生活が、居心地が悪いといったら嘘になる。
優しくされて嬉しくないはずはない。
でも心細い。
すごく不安で心もとない。
自分が何者かわからないというのは、まるで大海原にポツンと漂う小舟に乗った気分だ。そこに港を見つけたなら、生きるために船を寄せるだろう。水や食料や、生きるために必要なものを得るために。
そして私は、本物のイチジョー・エリカをさがそう。
万が一私がエリカなら、私の中に何かエリカという証拠が残ってるはず。だけど、今の私は萌香なのだ。
もちろん帰れる方法は探し続ける。
どうにもならないことで立ち止まるのは性分ではないのだ。ならば演じよう。
「さあ仮面をかぶろう。ここは台本のない舞台。――私は……イチジョー・エリカ」
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