6.まさかの事態
メイド(
その問診が終わるころ、クラシカルな
「ハロウィーン?」
思わず呟いた萌香は、次の瞬間その女性に力一杯抱き締められ、なぜかボロボロと泣かれてしまった。ますます訳がわからず途方にくれてしまう。
――本当に、一体全体どうなってるの? 質問攻めにはするくせに、誰もこちらの質問には答えてくれないし。
不安と苛立ちの中、もしやこれは一般人にいたずらを仕掛けるどっきりか? と思ったが、さすがにこのケガではシャレにならないのでは? と思い直す。
病院の面会は普通午後だが、お母さん早く来てーと、萌香は心の中でSOSを出した。
しかし、やっと泣き止んだその中年女性と医師の説明を受け、萌香は愕然とした。
「あなたがご自分の記憶だと思っているものは、すべて夢です」
「夢、ですか?」
まさかそんなことを医者から言われる日が来るとは夢にも思わず、萌香はしばし呆然とする。
その様子を見て、医師は「おや?」と言った感じで両の眉を少し上げたが、いつものセリフを口にするように
「ええ、夢です」
と繰り返す。
「あなたは婚約破棄のあたりから、自分は違う世界に生きているような発言を繰り返してますね? 夢の中で生きることが精神安定につながったのでしょう。やっと外に出るようになったにもかかわらず、あのような事故にあって……。夢の世界に逃げたいことは私にも理解できます。しかし、あなたもまもなく十九歳だ。そろそろ現実に戻ってくるべきですよ」
諭すように、優しい口調で医師はそう言い、当たり前のこととばかりに萌香が誰であるのかを説明し始める。
まず萌香はこの屋敷の娘、一条絵梨花だという。
よりにもよって、ここで彼の名字を聞くなんて……と、萌香は顔をしかめた。
それに
どうりで名前を聞かれたとき「えり……」まで言って、「そうですね」と遮られたはずだ。名前は覚えてると判断されたのだろう。
しかも、ここが病院ではなく個人宅だったことに、萌香は驚くよりもなぜか呆れてしまった。家族構成は父母と兄が一人の四人家族。メイドは本当にメイドだとかで、本当にここは日本かな? と、再びドッキリ番組であることを疑い出した。
萌香の失恋を知った友人が、私の事故(正直全く覚えてはいないが)を利用していたずらを仕掛けているのでは?、と。医師と絵梨花の母親という二人の話を聞きながら、萌香は密かにカメラを探し始める。
もしかしたらモニターの向こうで、友人の木之元麻衣が見ているかもしれない。
彼女のバラエティーの仕事だとしたら、勝手にぶち壊すのは忍びない。とはいえ、どこからか見られていると思うのと、気分のいいものではない。
絵梨花の母親たちの話によると、絵梨花には幼少のころから許嫁がいたらしい。
だが十八歳になったある日、突然婚約を破棄をされたそうだ。そして、そのショックから絵梨花は部屋に引きこもってしまったのだという。
この辺りでは女は二十歳までに嫁ぐのが普通で、通常十六歳までに婚約を整え、花嫁修業を経て二十歳までに結婚する。十八歳で婚約破棄となると結婚相手を見つけるのが難しくなり、二十歳までに家庭を持たない女性はまた違う道を選ばざるをえない。
その絵梨花が六日前、周りの勧めでやっと外に出るようになった。だがその矢先、事故にあったのだそうだ。
婚約破棄と事故のショックで、現実逃避の夢を現実だと思い込んだ。――それが医師の説明だった。
たしかに怪我をしたのが六日前というのは、傷の状態を見ても納得できる。だが事故のことも、そこから今日までの記憶もない。しかし萌香は昨日まではふさぎ込んでいても、この六日間普通に会話はしていたらしい。
記憶喪失。
そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
でも萌香には、絵梨花としての記憶はないが、萌香としての二十年間の記憶はある。
とにかく家族に連絡したいと訴えてみたが、自分が母親だと再び中年女性に泣かれてしまった。
父親と兄は仕事で都市に行っているから、今ここにいる家族は自分だけだ、と。
そして彼女は、紅とは違うメイドにアルバムを持ってこさせ、萌香に差し出した。たくさんの写真は白黒写真ではあったが、写っているのは確かに萌香に見える。奥二重の目も癖のない髪も、長年見慣れたものだ。だが一緒に写る人も場所も全く見覚えがない。ただ、自分や友人らしき少女達が着ている、着物や袴をアレンジしたような普段着風の可愛らしいドレスを見て心が浮き立った。
――なにこれ可愛い! これよ! これならエターナルガーデンの衣装にぴったり!
イタズラの設定に付き合うのに疲れた萌香は、このことを早くヘレンに教えてあげたくてウズウズした。だが、話はまだ終わらない。
絵梨花の元婚約者の写真は、絵梨花自身が捨ててしまったそうで、アルバムには一枚も残っていなかった。一瞬、萌香の脳裏に一条の顔がチラつき微かに胸に痛みが走る。とはいえ、顔も知らない、まったく記憶にない元婚約者より可愛いドレスに夢中だったので、相手の顔についてはあまり気にならなかった。
どこかの俳優の写真を使われても白けるだけだろう。
――この和風のドレスは、古着屋で着物を仕入れてアレンジすればできるかしら? 和風のロリータファッションかしらね?
食い入るように少女たちの写真を見る萌香に、医師は首を傾げる。そして、再び質問をしたり、目や頭などを触ったりし始め何やら考え始めたのか、顎を撫でながら黙り込んでしまう。
そろそろネタばらしを考えているのだろうか。
「あの、お手洗いに行ってもいいですか?」
沈黙がいい区切りだと判断した萌香は二人に断りをを入れ、紅の手を借りながらトイレに向かった。
さすがにトイレまではカメラはないだろう。萌香としては、この茶番にどこまで付き合えばいいのかわからないし、絵梨花の母親に泣かれるのにも疲れてしまった。
「そろそろネタ晴らしのタレントさんが出てくるよね?」
――これは「突然お屋敷のお嬢様だと言われたらどうする?」的ないたずらかしら。
トイレのドアを閉めつつ独り言ち、中を見た萌香は、思わず「え?」と声を上げかたまった。
六畳はありそうなトイレの個室にも驚いた。というか、ここは本当にトイレなのか? と思った。
アンティーク家具のような美しい洗面台と、なぜか窓の下にあるエレガントなベンチ。中央に青い花模様のある大きな陶器のようなものがある。どこかの夢の国的テーマパークのトイレを、さらに豪華にしたようなものだろうか。だが、見慣れたトイレがない。
萌香はドアを開け、羞恥で真っ赤になりながら、紅にトイレの仕方が分からないと訴えると、紅もどうしたらよいものかとオロオロし始める。
ちょうどそこへ清掃のメイドがやってきて事情を知ると、目をまん丸にして、
「はああ、そんなこともあるんですね!」
と細かに使い方を教えてくれた。彼女には孫もいるとかで、トイレを教えるのは慣れているのだと豪快に笑われる。
基本の使い方は和式トイレだった。
形が見慣れたものとは全く違う上、萌香は膝の痛みに苦労した。
どうにか済ますことができたときには、脂汗が浮かんできて、大きく息をつく。
まるで大仕事をしたかのようだ。
ふと最近マンガで読んだ、「水洗トイレでよかった」というセリフが脳裏に浮かぶ。あれは、女子高生が遠い過去に行ってしまった話だった。川が下に流れるトイレをそう呼んだのを見て印象に残っていたのだ。萌香はトイレが心配で海外旅行に行きたくないと思っているくらいなので、友達からは年寄扱いされることもある。
一瞬言い知れぬ感覚にゾクっとして、萌香は頭がクラリとした。
「……考えてみたら、朝から紅茶しか飲んでないわ」
空腹だから奇妙なことを考えてしまうに違いない。
そして再び部屋に戻ると、紅から話を聞いた医師が「やはり」と呟いた。
そして、萌香と絵梨花の母親を見て
「これは、本当に記憶障害のようです」
と言った。
――それって、私が記憶喪失ってこと?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます