腕とか胴体とか脚とか……それぞれ名前は知らないけど、骨が体のなかでへし折れているのは何となくわかった。痛みとかは感じないけど、眠たい体が、何となく異物感を覚えている。

 真っ暗なようであり、真っ白なようでもある。

 自分の体がどうなっているのか……寝ているのか立っているのかすらわからない。

 じわりと、暖かくなってきた……気がする。春の日差しに包まれたような、休日の朝、布団に包まれたような、ほっとする暖かみだ。

 僕は、死ぬんだろうか。

 そんな文字列が、僕の脳裏を駆け抜けた。

 いつものように職場でなじられて、

 そしたらいきなり、わけのわからない巨人が襲ってきて、

 気付いたら僕は魔法使いになっていて、

 巨人に殴られて死んだ。

 あまりにも、脈絡がない。

 僕の人生、少しずつ磨耗して、弱って、寂しく終わるものだと思っていた。

 世界は、ここまで理不尽か。

 そして、


 そして、僕の意識は、ぱっと現実に引き戻された。

 見慣れた街の、変わり果てた姿。

 獣肉とゴムを一緒くたに焦がしたような毒臭。うつぶせに横たわる、トロールの巨体。四方から、誰かしらの泣き叫んだり怒鳴ったりする声が響き渡る。

 地上の惨状とは不釣り合いな、六月の空。夢は、まだ終わってくれていないらしい。

 いや、僕は確かに殴られ――もはや轢かれて、と言うべきだけど――飛ばされて、死んだはずだ。

「ひ……」

 自分の体を見て、血の気が引いた。

 元は象牙色だった作業服が、血の池にでも浸けたような有り様だ。

 濃淡様々な赤・茶・黒が、こびりついている。

 慌てて自分の全身をまさぐる……どこも痛くないし、血が流れてる感覚もない。

 それ以前に、あれだけバキバキに折れていた全身が、元気に動いている。

 おかしい。意味がわからない。

 夢だと思ったら夢ではなくて、けれど怪我をしたのは夢だった?

「あの、神尾くん、大丈夫?」

 女の子がすぐ横から声をかけてきた。

 この声、誰だっけ、ああ、春花さんだ、無事だったんだ、よかった、

「ねえ、答えて」

 春花さんは焦ったように催促してきた。

「ぁ、ぅん……」

 咄嗟に言葉がでない。

「どこも痛くない? 違和感は?」

「ない……です」

 ぼそぼそと、どうにか応じる。

 ただでさえ、彼女と話すのには勇気が要る事だ。野仲さん達とは別の意味で、神経を使う相手だから。ちょっと、猶予と言うか、心の準備を万全にさせてほしい。

 一方、春花さんは、脱力したように肩の力を抜いた。

「本当に、できたんだ……よかった……」

 ?

 何かを安堵しているように言う。

 できたって、何の事――、

 おどおどと、彼女に問おうとしたけど。

 目の前がチカチカ光った。

 それから、塊のような暴風が、横殴りに僕らを打った。

「う、あいつ、まだ生きて!?」

 慌てて、トロールに目を向けた。けれどあいつは、指先ひとつ、動いていない。

「神尾くん、う、上っ! 上にっ!」

 にわかに取り乱した春花さんが、僕の肩を強く揺さぶって、頭上を指差した。

「えっ、何――」

 絶句した。

 空に何か浮いてる。

 そいつらは、人間に見える。

 真っ白な、バスローブのようなものを纏っている。

 今度は、僕らと大差ない、普通の体格だ。

 けれど、背中から、白い鳥のような翼が広がっている。

 鳥人間。もしくは、天使。

 数は……そ、そんな、五人も居る……。

 顔は、わからない。どいつも覆面……と言うか、死刑囚が被せられるような袋で頭を覆っているからだ。あんなので前が見えるのだろうか?

 暴風の出所は、あの翼が羽ばたく事による、吹き下ろし気流ダウンウォッシュのようだ。

 どうせあいつらも、街とか僕らを襲うんだ。

 もう、もう許してくれ……。どうして、こんな事に。

「高度を、落としている……」

 春花さんが、僕の腕にしがみついて、呟く。

 どうにか平静を保とうとしている彼女だが、僕の腕を掴む手は、痛いほどに強い。

 とに、とにかく、春花さんに掴まれてない方の手を、天使達に向ける。

 今のうちに照準を定めておいて、あいつらが少しでもおかしな素振りを見せたら、撃つんだ、やるぞ、絶対にやるぞ、

 天使の姿が、消えた。

 真っ直ぐ、水平に、僕らのそばをすれ違って背後に、速い、見えなかった、何の予備動作も無しになんであんな速、

 まずい、振り返らなきゃ、なんとか、何とかしないと!?

「あ、ひィ!?」

 上擦った悲鳴は、僕のものでも春花さんのものでもない。

 ようやく僕は、後ろを振り向けた。

 天使達は背後、三〇メートルほど彼方に居た……けど……あ、あれは、

「野仲さん! 沖村さん!」

「東山さん! み、水野くん!」

 見慣れた人達が、それぞれ天使に羽交い締めにされていた。

「やめろ、お前ら、何を!」

 辛うじて日本語を叫べたのは、水野君だけだった。

「離せ、離せよ、畜生!」

 けれど、天使達は微動だにしない。

 ただ、

「貴方達は、供物くもつです」

 一人だけ、誰も捕まえていない天使が、覆面にくぐもった声で宣告した。

 人語だ。しかも、滑らかな日本語だ!

 そんな馬鹿な!?

「全ては、我らが主の望み」

 何の情感もない抑揚で、その天使は言う。

 それを合図としたように、

「ひっ!?」

 今度は、耳元の春花さんが、押し殺しきれずに悲鳴を漏らした。

 僕も、声が出ない。

 野仲さん達を捕まえていた天使達が、突然、開きだか三枚おろしだかにされた魚のように裂けた。 僕たちと同じ色の、血液を撒き散らして、あいつらの体が展開されてゆく。

 そして。

 内側の肉が、イソギンチャクのように、無数の尾を蠢かせ始めて、

 野仲さん、東山さん、沖村さん、水野君を、絡めとり、包んだ。

「―――――――――――ッ!!」

 二七年間生きてきて、ここまで切羽詰まった悲鳴を、僕は聞いたことがない。

 天使だった不定形のものに包み込まれた会社の人達が、それぞれに叫んでいる。

「なに、何を!」

咀嚼そしゃくです」

 僕の、やっとやっとの抗議に答えたのは、まだ一人だけ人の形を保っている天使だ。

「滞りなく栄養を吸収する為には、食物を咀嚼しなければ。そうでしょう?」

 事務的に応えてくるが、そんなのを見過ごしたら、何か、ダメだ。

「やめ、やめろ!」

 生きたまま胴体を噛み破られ、砕かれている野仲さん。

 それでも死ねないみたいで、天使の胸から出ている顔面は、元の顔立ちがわからないほど、表情を歪ませていた。

「やめないと撃つぞ!」

「駄目、彼らまで死んでしまう!」

 春花さんが、僕を引き掴んで止めに入る。彼女にぶつかられたせいで、かざした掌が、大きくブレた。

「でも、でも、あのまま放っておいても……食われるんだぞ!?」

「っ……!」

 多分、倉沢春花さんに対して、僕がこんな剣幕で迫ったのは、生まれて初めてだろう。だからか、春花さんは身を縮めて、言葉を失った。

 ごめん、こんな時に脅かすなんて……。

 けど、彼女への罪悪感と後悔より先に、処理すべき事柄がある。

「……頭だけを消し飛ばしてやれば」

 今一度、野仲さんを踊り食いにしている天使に掌をかざす。

 身体の面積が少ない分、先のトロールよりは脆いはずだ。(頼むから、そうであってくれ)

 だから、短い“思考”で頭をぶっ壊してやれば、野仲さん達に被害を与えずに天使だけを殺すことも出来ないか。

 しかし、今にして気付いた。

 あれだけ俊敏に僕の横をすり抜けた天使達が、今度は動く気配を見せない。

 そして、ぞっとした。

 手(腹?)の空いた天使が一人居るという事は……僕や春花さんが、食われる可能性がまだ残っていたのだ。

 いや、あいつがその気になれば、次の瞬間にでも――、

「止めて置きなさい」

 リーダー格らしき天使が、慇懃な態度で僕に語り掛ける。

「彼らの神経や主要器官は、既に我が同胞達と融合されて居ます。

 首から下を潰されれば、普通は死ぬのに、彼等は生きて居るでしょう?

 通常で考えれば、おかしい事だ」

 ぐうの音が出ないほどの正論だが、こいつが言って良い事ではないとも思う。

「どうして、こんな事を」「全ては、我が主の為に」

 食い気味に言われて、つい僕は、背筋をびくりとさせてしまった。

 相手に勢いよく出られると、身体が怯えてしまう。

 すると。

 天使の三枚おろしに首から下を食われた沖村さんの顔面に、異変が。

「あなただって、神尾だって、

 私に、俺に、虐げられてきたはずだ」

 それまで泣き喚いていた沖村さんの顔は、表情筋を無理やり抑え込んで、無表情を作ろうとしていた。

「本音では、俺が、こいつに、私に、喰われて、喜んでいるはずだ、です」

 二人分の喋りが混在している。

 とうとう、脳まで侵され始めたのだろうか。

「ち、違う……そんな事、無い……」

 僕は、弱々しく反駁する。

 彼ら、会社の人達が食われて嬉しいか。

 それは、違うと言いたい。

 偽善のつもりは、無い。

 むしろ、そんな風に人を憎いだとか、ざまあみろだとか、

 そんな事を実感する機能も、僕の頭からは摩耗してしまっていたのだ。

 二七年間、誰かしらから後ろ指をさされ続けた結果。

 憎むとか恨むとか僻むとか、どうやれば出来るのか……僕はわからなかったのだ。 

 でも僕は馬鹿だ。

 表向きだけでもこいつらに同調しておけば、生き延びる目が出たかもしれない。

 そんな簡単な事に、答えてから、気付いたんだから。

「神尾、くん、助けて……たすけ……」

 少しずつ、眠たげになってゆく声で僕に乞うのは、東山さんの顔面だった。

「わたし……神尾くん……いじめてな……神尾くん、わたしだけでも……助け……」

「東山さんッ!」

 そうだ、彼女や、他の何人かの事務員さんは、僕につらく当たらなかった。

 なのに、どうして彼女がこんな目に……!

 何か、何か方法は無いのか、僕は、何でもできる魔法使いに覚醒したはずだ!

 なにか……。

「たす……、……、…………、…………」

 東山さんの顔は、糸が切れたように黙り込んで、

「摂食完了」

 そう、冷たく告げた天使の胸の中へ、完全に埋もれてしまった。

 野仲さんも、沖村さんも、水野君も、皆。

 わかっていたさ。

 何か方法は無いのか、と、必死に考えて、打開策を見い出す事なんて……アニメや映画のヒーローでしかあり得ない。

 まして僕の頭だと、なおさら、ありはしないんだと。

 そして。

 野仲さん達が完全に食われてしまったらしい今、次に矛先が向くのは僕と春花さんだ。

 僕でどうにか出来るのか、五対一で――、


 まばたき一回したら、天使のリーダー格がすぐ鼻先に居た。


「ぁ……ひぃっ!」

 僕は情けなくしりもちをつき、その、袋詰めの顔を見上げるしか出来ない。

 ダメだ、動きが全く見えない。

 戦おうなんて考える方がおこがましい。

 それを知った時にはもう、人を踊り食いする天使は、僕の至近距離に居て、

「……供物は、捧げられました」

 そんな、わけのわからない事を言った。

 そして。

 五人の天使達は、ゆっくりと両翼を上下させはじめた。

 それは次第に勢いを強くして、また台風を巻き起こし始めた。

 地についていた素足を浮かせ、次第に高度を上げてゆき。

 天使達は、また、空へと舞いあがる。

「さようなら。また逢う時まで」

 リーダー格がそう言うと、

 凄まじい大気の破裂音と、衝撃波が、僕達の立つ地上を乱暴に浚った。

 僕が辛うじて目を開けた時、

 空に立つ五人の天使は、忽然と姿を消していた。

 ――見逃された?

 ――それとも、腹が膨れた?

 ただ、呆然と見上げる僕の顔に、

 一枚の羽毛が舞い降りただけだ。 

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