1
当たり前のように職場で叱責されていた日常。
それが、巨大な何かが街を蹂躙する異常へと。
スイッチをON・OFFするかのような気軽さで、
世界が一瞬にして切り替わってしまった。
工場内から、それの全容は見えない。灰褐色の、巨大な両脚が、地団太を踏んでいる事だけはわかる。(今ようやく、それが何かの“脚”だと気づいた)
大樹の幹よりも太くて、膨大な筋肉の束に鎧われた、巨人の脚だ。
つま先で、駐車場が薙ぎ払われた。軽自動車も普通車もトラックも、おもちゃをひっくり返すようにして、さらわれた。フレーム、ガラス、タイヤ……車を構成する何もかもが一緒くたに曲がり、潰れ、砕ける音が、野放図に鳴り響く。
従業員も客も、パニックに陥っている。
泣いたり、叫んだり、右往左往したり、テーブルの下に慌てて隠れたり、その場にへたり込んだり、どうすれば良いのかわからずに立ち尽くしたり。
野仲さんは、言葉として成立して居ない音声を無秩序に発しながら、一目散に裏口へと駆け込んで行った。それにつられて、水野君とか沖村さんが、我先にと続く。
僕はどうすればいいのか、わからない。何で、人の事ばかりこんなに冷静に分析できているのだろう。
でも、でも、どうすれば――、
「何してるの!? 早く逃げてッ!」
女性の、悲鳴じみた怒声。
それを発しているのは、倉沢春花さんだ。
「ぇ……ぇ……?」
「バカッ! 早くして! みんな、早くッ!」
春花さんは、僕の手をひったくるように掴むと、そのまま裏口へ向かって走り出した。
痛い、強い。上背で言えば、僕よりもずっと小柄なはずの女の子が、とんでもない腕力で僕を引っ張る。
彼女にされるがまま、僕は、走る。
巨人が、一歩踏み出した。
ちょうど、五番機のある辺りがいとも簡単に踏みつぶされた。何億円もするらしい金属加工マシンは、一瞬でスクラップになった。
この工場は、解体される事になったのだろうか。そんな馬鹿な。あり得ない。
けど、あんなデカブツが脈絡も無く現れて、そこらじゅうを踏み荒らしているこの現実の方を、僕は否定したい。
アルミのドアが力任せに開け放たれ、外の空気が頬を撫でる。僕を引っ張る春花さんは、どうやら裏口の駐車場に出たようだ。
「急いでッ! もっと、もっと早く走れないの!?」
「そ、そ、そ……」
何も言葉が出ない。
巨人が、タワークレーンじみた腕を、半壊した工場に落とした。ガラスとコンクリと鉄筋の悲鳴が、不協和音を上げる。何らかの細かい破片が、暴風雨のように、僕たちを襲う。
巨人が叩く度、建物はコマ送りのように姿を変えてゆく。
夢だ。
これは、絶対に夢だ。
いつの間にか、巨人の全容が見上げられるくらいには距離が離れていた。
灰褐色で全裸、どこにも体毛が生えていない。サイズにさえ目をつむれば、人間の男に見えなくもない。
中世ファンタジーの話に出てくる、あいつだ。学生の頃、映画で見た。
あの、城壁とか破壊する巨人――トロールにとても良く似ている。
もう、工場の形は見る影も無くなっていた。
目下、壊す物を見失ったトロールは、キョロキョロ――むしろブォンブォン――と首を左右に旋回させる。
四車線の――あいつにとっては一、二歩背後の――不動産ビルに、その目が留まった。
ああっ、やっぱりだ! トロールは、その中腹に拳を突き入れた。ビルは、内側に空気を吹き込まれたように膨張したかと思うと、破片を放射状にまき散らして破砕した。基部の歪んだ建物が、それだけで冗談のように傾きかける。
ダメ押しにもう一撃。周囲の道路や信号を巻き込んで、とうとうビルは、崩落した。人や車が、いくつも、瓦礫の中へ消えてゆく。あの人達がどうなったか見えないので、リアルな立体映像というか、CG合成にしか見えない。
ああ、トロールがこっちを向いた。
そんな気がする。
大きさで言えば、僕たち人間なんて蟻んこかそれ以下にしか見えないはずだ。的が小さい分、春花さんと僕を、特別視するなんてことは滅多にないはずで……。
――本当に、一〇〇パーセント、そう言い切れるのか?
その考えに行き当たった。
それで、僕は、今ようやく、自主的に自分の身体を動かした。
僕を見捨てず逃げてくれている、春花さんの手を、少しだけ強く、握り返したのだ。
――あんな、嘘みたいな巨人が居るのなら。
――あいつを倒す魔法とか、必殺技だって存在すればいいのに。
無いものねだりだと、僕の理性が、脳の片隅で訴えている。
けど、それ以上に。
どうしてだろう。
「ちょっと!? 何、立ち止まってるの! もっと、もっと、走らなきゃ!」
僕には何故か、確証があった。
僕をなおも引っ張ろうとする春花さんの力に抗い、その場で足を踏みしめて。
僕は、トロールに向けて掌をかざした。
銃口を向けて、狙いを定めるように。
――そうだ、こう“意識”すれば、実際に――。
――知らない事なのに、思い出した。
「光を」
僕がそう呟いた瞬間、
世界が真っ白に染まった。
凄まじい量の光が突如現れて、僕の目を麻痺させてしまったのだ。
気温が一気に跳ね上がる。
突然サウナに叩き込まれたようだ。
何か、金切り声のような爆音が轟く。耳も、満足に聴こえなくなった。
その爆音に負けじと、野獣めいた叫びが放射された。トロールの悲鳴だろう。
僕は何が起きたかを、なぜか知っていた。
僕が“魔法”によって呼び起こした、膨大な光学的エネルギーが、トロールめがけて迸ったのだ。
イノシシとか鹿とか、あの辺りのジビエ肉を何倍にも獣臭くして、焼けたゴムを混ぜたかのような、悪臭が鼻を毒した。
僕が“想像”した分の光波が消え去ると、徐々に視界が戻ってきた。
トロールは……、
依然、そこに立っていた。
右半身を二割ほど削られている。
断面が、くすぶる溶岩のように赤熱している。
トロールの目は、冷静かつ無機質に、僕を見ていた。
けれど、何とかなりそうだ。
僕は今、魔法に覚醒した。
理由はわからない。
僕は魔法を使える、と言う、表面上の事実だけが僕の脳に無理やり刻み込まれた感じだ。
それは、ネットで上辺だけの知識を得た時の感じに似ていた。
トロールが、足を上げた。
明らかに、僕の頭上に向けて。
春花さんは放心し、もう目の前の現実を受け入れられないようだ。
――けれど、たぶんやれる。
もう一度同じ要領で、僕はトロールめがけて掌をかざした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます