当たり前のように職場で叱責されていた日常。

 それが、巨大な何かが街を蹂躙する異常へと。

 スイッチをON・OFFするかのような気軽さで、

 世界が一瞬にして切り替わってしまった。

 工場内から、それの全容は見えない。灰褐色の、巨大な両脚が、地団太を踏んでいる事だけはわかる。(今ようやく、それが何かの“脚”だと気づいた)

 大樹の幹よりも太くて、膨大な筋肉の束に鎧われた、巨人の脚だ。

 つま先で、駐車場が薙ぎ払われた。軽自動車も普通車もトラックも、おもちゃをひっくり返すようにして、さらわれた。フレーム、ガラス、タイヤ……車を構成する何もかもが一緒くたに曲がり、潰れ、砕ける音が、野放図に鳴り響く。

 従業員も客も、パニックに陥っている。

 泣いたり、叫んだり、右往左往したり、テーブルの下に慌てて隠れたり、その場にへたり込んだり、どうすれば良いのかわからずに立ち尽くしたり。

 野仲さんは、言葉として成立して居ない音声を無秩序に発しながら、一目散に裏口へと駆け込んで行った。それにつられて、水野君とか沖村さんが、我先にと続く。

 僕はどうすればいいのか、わからない。何で、人の事ばかりこんなに冷静に分析できているのだろう。

 でも、でも、どうすれば――、

「何してるの!? 早く逃げてッ!」

 女性の、悲鳴じみた怒声。

 それを発しているのは、倉沢春花さんだ。

「ぇ……ぇ……?」

「バカッ! 早くして! みんな、早くッ!」

 春花さんは、僕の手をひったくるように掴むと、そのまま裏口へ向かって走り出した。

 痛い、強い。上背で言えば、僕よりもずっと小柄なはずの女の子が、とんでもない腕力で僕を引っ張る。

 彼女にされるがまま、僕は、走る。

 巨人が、一歩踏み出した。

 ちょうど、五番機のある辺りがいとも簡単に踏みつぶされた。何億円もするらしい金属加工マシンは、一瞬でスクラップになった。

 この工場は、解体される事になったのだろうか。そんな馬鹿な。あり得ない。

 けど、あんなデカブツが脈絡も無く現れて、そこらじゅうを踏み荒らしているこの現実の方を、僕は否定したい。

 アルミのドアが力任せに開け放たれ、外の空気が頬を撫でる。僕を引っ張る春花さんは、どうやら裏口の駐車場に出たようだ。

「急いでッ! もっと、もっと早く走れないの!?」

「そ、そ、そ……」

 何も言葉が出ない。

 巨人が、タワークレーンじみた腕を、半壊した工場に落とした。ガラスとコンクリと鉄筋の悲鳴が、不協和音を上げる。何らかの細かい破片が、暴風雨のように、僕たちを襲う。

 巨人が叩く度、建物はコマ送りのように姿を変えてゆく。

 夢だ。

 これは、絶対に夢だ。

 明晰夢めいせきむというやつを、ネットで聞いたことがある。夢の中でも意識がはっきりとしていて、好きなように動ける状態の事だ。そうでもなければ説明がつかない。

 いつの間にか、巨人の全容が見上げられるくらいには距離が離れていた。

 灰褐色で全裸、どこにも体毛が生えていない。サイズにさえ目をつむれば、人間の男に見えなくもない。

 中世ファンタジーの話に出てくる、あいつだ。学生の頃、映画で見た。

 あの、城壁とか破壊する巨人――トロールにとても良く似ている。

 もう、工場の形は見る影も無くなっていた。

 目下、壊す物を見失ったトロールは、キョロキョロ――むしろブォンブォン――と首を左右に旋回させる。

 四車線の――あいつにとっては一、二歩背後の――不動産ビルに、その目が留まった。

 ああっ、やっぱりだ! トロールは、その中腹に拳を突き入れた。ビルは、内側に空気を吹き込まれたように膨張したかと思うと、破片を放射状にまき散らして破砕した。基部の歪んだ建物が、それだけで冗談のように傾きかける。

 ダメ押しにもう一撃。周囲の道路や信号を巻き込んで、とうとうビルは、崩落した。人や車が、いくつも、瓦礫の中へ消えてゆく。あの人達がどうなったか見えないので、リアルな立体映像というか、CG合成にしか見えない。

 ああ、トロールがこっちを向いた。

 そんな気がする。

 大きさで言えば、僕たち人間なんて蟻んこかそれ以下にしか見えないはずだ。的が小さい分、春花さんと僕を、特別視するなんてことは滅多にないはずで……。

 ――本当に、一〇〇パーセント、そう言い切れるのか?

 その考えに行き当たった。

 それで、僕は、今ようやく、自主的に自分の身体を動かした。

 僕を見捨てず逃げてくれている、春花さんの手を、少しだけ強く、握り返したのだ。

 ――あんな、嘘みたいな巨人が居るのなら。

 ――あいつを倒す魔法とか、必殺技だって存在すればいいのに。

 無いものねだりだと、僕の理性が、脳の片隅で訴えている。

 けど、それ以上に。

 どうしてだろう。

「ちょっと!? 何、立ち止まってるの! もっと、もっと、走らなきゃ!」

 僕には何故か、確証があった。

 僕をなおも引っ張ろうとする春花さんの力に抗い、その場で足を踏みしめて。

 僕は、トロールに向けて掌をかざした。

 銃口を向けて、狙いを定めるように。

 ――そうだ、こう“意識”すれば、実際に――。

 ――知らない事なのに、思い出した。

「光を」

 僕がそう呟いた瞬間、

 世界が真っ白に染まった。

 凄まじい量の光が突如現れて、僕の目を麻痺させてしまったのだ。

 気温が一気に跳ね上がる。

 突然サウナに叩き込まれたようだ。

 何か、金切り声のような爆音が轟く。耳も、満足に聴こえなくなった。

 その爆音に負けじと、野獣めいた叫びが放射された。トロールの悲鳴だろう。

 僕は何が起きたかを、なぜか知っていた。


 僕が“魔法”によって呼び起こした、膨大な光学的エネルギーが、トロールめがけて迸ったのだ。


 イノシシとか鹿とか、あの辺りのジビエ肉を何倍にも獣臭くして、焼けたゴムを混ぜたかのような、悪臭が鼻を毒した。

 僕が“想像”した分の光波が消え去ると、徐々に視界が戻ってきた。

 トロールは……、

 依然、そこに立っていた。

 右半身を二割ほど削られている。

 断面が、くすぶる溶岩のように赤熱している。

 トロールの目は、冷静かつ無機質に、僕を見ていた。

 けれど、何とかなりそうだ。


 僕は今、魔法に覚醒した。


 理由はわからない。

 僕は魔法を使える、と言う、表面上の事実だけが僕の脳に無理やり刻み込まれた感じだ。

 それは、ネットで上辺だけの知識を得た時の感じに似ていた。

 トロールが、足を上げた。

 明らかに、僕の頭上に向けて。

 春花さんは放心し、もう目の前の現実を受け入れられないようだ。

 ――けれど、たぶんやれる。

 もう一度同じ要領で、僕はトロールめがけて掌をかざした。

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