第四章 インターハイ予選 二十五 メッセージ

 自宅に帰った洋はいつも通り居間にリュックを置くと、信子から先に風呂に入るよううながされた。汗まみれのまま食卓に着くよりはさっぱりして夕飯を摂る方がやはり気分がいいだろう。


 正昭は洋が風呂に入っている時に帰宅した。ふすまを開けて居間に入ると、ただいまも言わずに、


「今日はどうだった?」


 と信子に尋ねた。


「二試合とも100点ゲームだったそうよ」


「そうか」


 口では淡々とただ一言そう言ったものの、自分の青春を捧げた柔道に対する思いと何か重なるものがあるのか、正昭は胸にぐっと湧き上がってくる感涙かんるいを覚えた。しかし、大の大人がはしゃぐ姿はみっとも良いものではない。そう思っているのか、その思いを表情に出すことはしなかった。


「それより、どうします?」


「何が?」


「ビール」


「ああっ、そうだったな。下越大会の時はちょっと気が緩んだからな。やっぱりめとくよ」


「そうですか」


「何で、お前が不満そうな顔をするんだ?」


「案外、もう大丈夫なんじゃないかって、そう思ったものですから」


「回りがそう思っても、本人はそうじゃないかもしれない。心も体も、まだまだ固まる時期じゃない」


「あなたがそう言うのなら……」


 と言うと、信子は台所に戻った。


 夕飯は豚ロースを使った野菜たっぷりポン酢の冷しゃぶだった。


 風呂から上がった正昭は、火照ほてった体からまだ出て来る汗を拭くために、首にタオルを巻いて台所に入ってくると、冷蔵庫からノンアルコールビールを取り出して食卓に置いた。


 既に座卓に着いていた洋はそれを見ると、一瞬おやっと思ったが、気分転換に違うビールを飲むのだろうと深くは考えなかった。


 プシュッと音を立てて、正昭が缶の蓋を開けると、


「じゃあ、頂こうかしら」


 と信子が言った。


 洋も、


「頂きます」


 と言うと、早速冷しゃぶに箸を付けた。



 ひとしきり今日の試合について話し終えたところで、洋はちょうど夕飯を食べ終えた。


 一旦自室に戻り、目覚まし時計に目を遣ると、時計の針は七時半を回っていた。


 昼間の暑さがまだ部屋に残っているようだ。


 洋は窓を開けた。ひんやりとした空気を体に受けて、しばらく涼んでから畳の上に寝転がった。


「あと三つ」


 そうつぶやくと、洋はぼうっと天井を見つめた。


 明日の準々決勝、準決勝は果たしてどんな戦いになるのだろうか。


 練習の成果をきちんと出せば勝てると先生は言っていたが、初めて対戦する相手はどうしても手探りとなる。凄い選手は本当にいないのか、速攻が得意なのかセットオフェンスが得意なのか、試合のペースは握れるのか……不安が尽きることはない。

 体育館が二カ所に別れるのも、洋を残念がらせた。


 中越平安対立志北翔は別の体育館で行われる。ビデオで中越の戦いは見たものの、実際に見た方がやはり実戦の感覚をイメージし易い。また、立志が中越とどう戦うのかにも大きな関心がある。下越地区大会では立志に勝つには勝ったが、洋には確かな実力差があるとは思えなかった。先生を始め、先輩も塚原先生は何をしてくるか分からないと言っていた。その証拠がボックスワンでありゾーンプレスである。あれは間違いなく対中越平安戦を考えた戦略である。となれば、立志が中越とどのように戦うのか、山並の中越対策を万全にするためにも是が非でも見ておきたい一戦であるが、現実は都合良く進んではくれない。もっとも、仮に同じ体育館であったとしても、同じ時間帯に準決勝の二試合が行われるであろうから、観戦するのはまず無理と思われる。


 塚原の戦略通り事が運べば、決勝の対戦相手は立志北翔となる。そうなれば、対中越戦の練習は無駄になるどころか、大幅な軌道修正が山並を窮地きゅうちおとしいれてしまうかもしれない。これまで行ってきた練習で身に付けた動きと思考を完全にリセットして立志に対する戦略に切り替えるのはどう考えても厳しすぎる。塚原という存在が山並に目に見えないくさびを打ち込んでくる。


「どっちが来ても……」


 洋は大きく溜息をくと、


「それにしても、今日は参ったなあ……」


 とつぶやいて、全く違うことを考え始めた。


 駅と自宅の往復は洋一人であれば自転車を使うのだが、下越大会や勉強会の時を考えれば、すんなりとそうはならないのは最早もはや明白であった。由美の置かれている状況を信子はよく分かっているので、洋の予想通り寮と駅の送迎を信子が買って出ると言い出した。まあ、これに関しては仕方無いと洋は思っていたが、洋にとっての気掛かりは二人が一時いっときの間車の中で一緒になるということであった。


 歳の差があってもやはり女同士だからだろう、二人とも本当によくしゃべる。それもただ話すだけならまだしも、信子が要所要所で学校での自分のことや夏帆のことなどを尋ねるものだから洋は気が気でならなかった。


 勿論もちろん悪いことは何もしていないが、痛くもない腹を探られるのはやはり落ち着かない。


 洋は不意に起き上がると、充電中のスマホを手にした。


 スマホを使って初めて夏帆に電話をしたのはそれを買った当日である。ラインの設定もその日に行った。その次の日から『すいとっと』の録音をした日までは、数回程度ラインで遣り取りをしただけで、電話はしなかった。


 スマホを購入したのは、中間考査の期間中である。


 夏帆との連絡に浮かれて勉強がおろそかになってしまうと、赤点を取ってしまいかねない。そうなると、補修や追試に時間を奪われてしまう。それは練習時間を削られることを意味する。


 お互い、それを分かっているからラインの遣り取りもちょっとした気晴らし程度で済ませていた。


 しかし、スマホを使っての連絡は練習再開以降、夏帆から電話が一度あったきりで、そのはお互い連絡を取り合っていない。


 理由はインターハイ予選に集中したいと洋が言ったからであった。


 洋がレギュラーの一人としてチームを牽引しなければならない以上、ただ声が聞きたいからと言って電話をするのは洋の足を引っ張るようではばかられる。ラインは声が文字に変わっただけだ。


 加えて、夏帆には由美の言った言葉が今も心に重くのし掛かっている。


 練習に集中させて!


 同じことを洋から駄目押しされると、夏帆としてもさすがに受け入れざるを得なかった。


 夏帆は今頃洋の『すいとっと』を聞いているのだろうか。


 しかし、実を言うと、連絡を控えたいと洋が言った本当の理由はそれではなかった。


 あの時『すいとっと』という言葉がどう言う意味なのか、洋は深く考えず言われたままに自分の声を録音した。


 あの日も、いつもの厳しい練習が終わって自宅に帰り、さあ寝ようかと言う時にその事をふと思い出した。


 スマホの画面に映し出された検索結果は洋を慌てさせた。


 好き!


 それが『すいとっと』の意味であった。


 多感な十代にとって、この言葉はドキドキ以外の何物でもない。しかし、その想いがひとたび固まれば、女は男よりも大胆になれる。


 夏帆はこの事を由美に話したのだろうか。あの二人は仲が良いし、しかも同じ寮に住んでいる。


まさか、幾ら何でも信子の耳には届いていないと思うが……


 洋が手にしているスマホの画面はラインのそれになっている。


「怒ってるかな?」


 洋はそうつぶやくと、何かを入力し始めた。


 送信ボタンを押すと、洋はスマホを置いた。


 スマホを管理人に預ける時間にはまだ早い。


 夏帆は洋からのメッセージをどんな想いで受け止めているのであろうか。

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