第四章 インターハイ予選 十七 波瀾の胎動

 スポーツショップで働いている者の多くは何かしらの競技を経験している。お客から用具の選定や用具の使い方に関してアドバイスを求められることの多い特定競技の専門店や専門フロアで働くスタッフは、その競技経験を生かす場面に接することが多い。その相手が初心者ともなれば、彼等の経験はより生きてくる。


 現在シューズ売り場の販売責任者である鈴木孝彦もまたバスケットの経験を生かして、お客の要望に見合ったバスケットシューズの選定をすることがよくある。洋と鷹取が訪れた時の対応が良い一例だ。またシューズ全般のみならず、バスケットに関する商品の仕入れにも大きく関与している。


 接客においては、説明が分かりやすいと評判は上々のようだ。もともとがスポーツ好きなので、バスケットに限らずテニスシューズやジョギングシューズなど、販売している商品の勉強には余念がない。


 完全週休二日制ではあるが、ショップの定休日は水曜日の一日だけである。残りの一日はスタッフ一同シフトを組んでの休みとなる。


 遅番の今日は、インターハイ予選の初日である。


 山並が負けることはないだろうが、やはり結果は気になる。藤本に電話をしようかとも思ったが、夜ももう遅い。運良く明日(あした)は休みだし、山並の一戦を見に行こうか。


 孝彦はそんなことを思いながら、警備室の前を通り、通用門を出て行った。


 一戸建ての自宅に帰ると、夜の九時には寝かしつけている子供達の寝顔をまず見てから、孝彦は脱衣所へと向かった。


 風呂上がりはビール、と言いたいところだが、今日のように夜遅い帰宅の日は、ビールではなくカロリーが低く糖質が含まれていないハイボールを飲むようにしている。


 孝彦はいつものように自分で冷蔵庫からハイボールを取り出すと、ノートパソコンの電源を入れてから妻のひろ子が用意してくれた軽めの食事を摂り出した。ご飯は小さなお茶碗に一杯、おかずは魚肉ソーセージと野菜をオリーブオイルで炒めたもの、それにお味噌汁である。


 スポーツショップに勤務している以上、腹が出ていると商品説明に説得力を欠くと考えている孝彦は食事には思いの外(ほか)気を遣(つか)っている。


 隣では、風呂上がりのフェイスパックをしているパジャマ着のひろ子がテレビのドキュメント番組を見ている。


「……そう言えば」


 ひろ子がテレビを見ながら、ふと孝彦に話し掛けた。


 孝彦はパソコンを見ながらハイボールを飲んでいる。


「藤本さんって、仕事辞めてバスケの監督に就任したんだよね」


「辞めてないよ」


「えっ、そうなの?」


「スポーツクラブには今も勤務している」


「そうなんだ。でも、それはそれで大変でしょうね」


「何で急にそんなことを言い出したんだ?」


「これよ。プロスポーツ選手が引退した後の人生を追っているドキュメント」


「先輩はプロの選手じゃないよ」


「でも、高校のバスケの監督に就任するって、やっぱり凄い決断があったんだと思う。これを見てると、つくづくそう思った」


「まあ、確かにそうだな。こんなチャンスなんて一生に一度あるかないかだけど、俺には無理だな」


「どうして」


「理論や実践を指導するのは出来ると思う。でも、チームを作り上げるためには、それだけじゃ駄目なんだよ。ひろ子だって部活の体操をしていたとき、そう思わなかった?」


「思い出なんて、練習が厳しかったくらいしかないわね」


「あれ、いつだったかなあ……リトルリーグの監督でさ、常にガミガミ怒鳴ってる奴がいたんだよ。本人は指導のつもりだったのかもしれないけど、それは指導じゃないんだよ。ただ踏(ふ)ん反(ぞ)り返っていたいだけなんだよ……だってさあ、ノックの打球も凄い速くて、あんなの捕れねえよって思っていたら『子供に向かって何てノックしてんだ。そんなもん、プロでも捕れやしねえよ』って怒鳴った人がいて……その人、元プロ野球選手だったんだよ」


「ほんとに?」


「そう……あれ、誰だったかなあ。結構太ってた人だったんだけど……ドラえもんでさ」


「ドラえもん?」


「驚かなくてもいいだろ」


「この流れでドラえもんはおかしいでしょ」


「話は最後まで聞けよ。どんな話だったのかは忘れたけど、ある日、のび太のお父さんががっかりしてたんだよ。すると、そこにドラえもんがやって来て、どうしたのかって尋ねると、お父さんはのび太に将来の夢について尋ねたって言ったんだよ。総理大臣とかパイロットとか、子供らしい夢を期待していたら、のび太は何て言ったと思う?」


「さあ?」


「僕は断然ガキ大将になる」


 それを聞くと、ひろ子は声を上げて笑った。


「笑うけどさ、これが現実なんだよ」


「ああっ……そのリトルリーグの監督は大人相手に偉そうに出来ないから、子供相手に偉そうにしてたってこと?」


「そう言うこと」


「分からなくは無いけど……」


「でも、藤本先輩は違う。人としての深みって言うのかな……指導者で一番必要なのは信頼だと思う」


「それは分かる」


「今年はチャンスなんだよ。山並が日本一になれる……」


「下越大会優勝の時は喜んでたものね」


「だから、こうして敵情視察を……」


 と言って、孝彦はマウスをクリックすると、箸を手にした。ご飯とおかずをそれぞれ一抓(ひとつま)みして口に運ぶと画面に目を戻した。


 すると、途端に孝彦の噛む口が止まった。


「どうしたの」


「……福岡一南(ふくおかいちなん)が負けた」


「そこって強いの?」


「インターハイ、ウインターカップ共に三年連続準優勝」


「ああっ、確か、神代が三年連続優勝したんだよね」


「ああ、そうだ」


 と、孝彦は答えたが、その声はどこか上の空であり、その目は画面に釘付けになっていた。


 インターハイ予選に関する情報は、各都道府県のバスケットボール協会ホームページあるいは個人のブログやツイッターなどインターネット上で得ることが出来る。


 孝彦は趣味と実益を兼ねて、各都道府県のインターハイ予選の情報を入手するためによくインターネットを使っているが、この情報はまさに衝撃の一言であった。


 孝彦は画面をずっと見つめながら、ハイボールを一口飲んだ。マウスを手にしたまま、少し視線を落として何やら考える素振りを見せた。驚きの衝撃を自分に納得させようとしているのだろうか。


 孝彦は大きな溜息をひとつ突くと、それが呼び水となったかのように、無意識裏(むいしきり)にその複雑な心情を口にしていた。


「今年は荒れるかもしれない」

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