第四章 インターハイ予選 十一 試合前
薄曇りの空は雨の予感を感じさせるが、天気予報では降水確率10パーセントとなっている。
洋はそんな空模様を自分の部屋から眺めていた。
大会初日の今日、洋はどんな思いでこの空を見ているのであろうか。
ジャージ姿で一階に降りてくると、正昭が既に朝食を摂(と)っていた。
「おはようございます」
正昭はちょうど味噌汁を飲んでいたので、それを飲み終えてから、
「おはよう」
と言った。
「おばさんは?」
「台所じゃないのか?」
と言ったところへ、信子が襖(ふすま)を開けて入ってきた。
「あっ、洋さん」
「おはようございます」
「おはよう。ちょっと待ってね、お味噌汁、温(あたた)めるから」
と言うと、信子はキッチンへと向かった。
洋はいつも座る所に腰を落とすと、正昭が、
「いよいよだな」
と話し掛けてきた。
「はい」
「今日は午後からの試合だったかな?」
「そうです。午前中は授業を受けて、昼過ぎにバスで……試合が始まるのは16時くらいです」
「あれは使うのか?」
「分かりません。先々のことを考えると、出来れば使いたくはありませんが……多分、今日は使うことはないと思います」
「まあ、あれがどんなふうに生かされるのかは私には分からんが、特訓の成果が出れば……」
「でも、あれは僕一人でどうにか出来ることではないので……昨日、みんなの前でやってみたんですよ」
「どうだった?」
「先生は呆(あき)れてました」
それを聞くと、正昭は少し笑って、
「そうか」
と言った。
それから少しして、信子が味噌汁の入った鍋を持ってきた。台所ではオーブントースターがじりじりとタイマー音を鳴らしている。温められているのは、どうやら目刺しのようだ。
「洋さん、生卵食べる?」
「はい、頂きます」
「お弁当はいつも通りに作ったけど、それで良かったわよね」
「はい。試合までには時間がありますので」
そんな会話をしながら、信子はご飯とお味噌汁を洋に渡した。
朝食を食べ終えた正昭は自室に戻った。着替えを終えて、ワイシャツとスラックス姿で現れると、まだ朝食を食べている洋と信子に、
「じゃあ、行ってくる」
と言って、玄関側の襖(ふすま)を閉めた。
「お父さん、何も言わずに……頑張れよの一言があっても良さそうなものだけど」
と言った後、信子はご飯を一口運んだ。
洋は、
「そうですね」
と相槌(あいづち)を打って、そのままご飯を食べ続けた。
二人はいつも通りの会話をしたつもりであった。が、信子が正昭のことを『おじさん』ではなく『お父さん』と言ったことに、洋も信子自身も全く気がついていなかった。
洋が服を着替えて二階から降りてくると、信子が待っていた。
靴を履いてる洋を見ながら、
「頑張ってね」
と言うと、下を向いていた顔を上げて、
「はい」
と返事をした。その顔はとてもにこやかであった。
「じゃあ、行ってきます」
と言って、洋が玄関に手を掛けると、
「あっ、洋さん」
と、不意に信子が呼び止めた。
「何ですか」
「爪、ちゃんと切った?」
「はい、大丈夫です」
と言うと、学生服のポケットから取り出して、
「おばさんがくれた爪切り、いつも持ってます」
と言って、それを見せた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
信子は玄関が音を立てて閉められた後も、しばらくその場に立っていた。
母親らしいことがこれで少しは出来ただろうか。まだ足りないものがありはしないだろうか。不安に身を寄せれば不安ばかりが身に募る。信子はさっき見せた洋の笑顔を思い起こした。ここに来た頃と比べると、随分明るくなった。そう思うと、自己満足であるかもしれないが、信子は情愛の温(ぬく)もりが胸に染み入るのを感じずにはいられなかった。
チャーターしたバスが定刻通り山並高校に到着すると、バスの周囲は見る見るうちに在校生で埋め尽くされていった。ざっと見渡した感じでは、女子の方が多かった。先生の顔も数人窺(うかが)えた。
事前に藤本の指示を受けていたメンバーはまず職員室前に集まることになっていた。
今日は学校から試合会場へ向かうので、統一ジャージではなく全員学生服を着用しての出陣である。
藤本は点呼(てんこ)を取り、全員揃っているのを確認すると、日下部を先頭にバスへと向かわせた。
校舎からメンバーが出て来た。
女子生徒の歓声が沸き起こった。
校舎の上から、誰かが、
「立志に勝てたんだ。中越にも勝てるぞ」
と大声で叫んだ。
すると、それに呼応(こおう)したかのように山並コールが地鳴りの如く沸き起こった。
「急いでバスに乗れ」
最後尾にいた藤本が大声で言った。
三年生と二年生は既に乗り込み、ちょうどその時乗り込んでいたのは一年の先頭にいた目(さっか)であった。目は振り返ることなく足早に乗ると、後続のメンバーも急いで乗った。
藤本の背中が人波に押された。藤本はそれで倒れそうになったが、前には由美がいたのでドアの側面に両手を当ててぐっと踏ん張った。
藤本も乗り込みようやくドアが閉まると、バスはクラクションを鳴らし、ゆっくりと動き出した。
何とか正門を出て、やっと順調に走り出すと、
「いやあ、危なかったな」
と藤本が笑いながら言った。
「私、ちょっと怖かったです」
「校舎の所までバスが来てなかったらと思うと、ゾッとするな」
「ほんとですよ」
藤本と由美がそんな会話をしていた頃、後方では菅谷と笛吹が、
「なんか凄かったな。俺、卵ぶつけられるんじゃないかって思ったよ」
「何で?」
「何でって、ああ言うのを集団ヒステリーって言うんだろ」
「試合はこれからだろ」
「そうだけどさあ……」
「要は勝てばいいんだろ」
山添がボソッと言った。
菅谷は、
《そうだけどさあ》
と思いつつも、何となくばつが悪そうで、黙り込んでしまった。
山並が向かっている先の施設はこれから試合に使用する体育館のみならず、野球場、サッカー場、テニスコートなどを有するスポーツ総合施設である。築年数は下越大会のそれよりも古いが、管理の行き届いた綺麗な体育館である。場所は下越大会のそれよりも近いところにある。高速は使わず下道で約一時間。現地に到着したのは十四時過ぎであった。
午前中はずっと薄曇りであったが、今は雲の合間から日差しが漏れている。
体育館に入ると、藤本はメンバーを待機させて関係者控え室に向かった。しばらくして戻ってくると、
「今日は更衣室が使えるので、そこで着替えるように」
と言って、その場所を説明した。
ロッカーが使えるので、今日は貴重品の回収は無かったが、ロッカーの鍵は由美が預かることになった。
由美も含め全員ジャージに着替えると、メンバーは観客席に向かった。試合の熱気を肌に感じるからだろう、あの菅谷でさえ話をしなくなり、全員他校の試合をじっと観戦していた。
由美のスマホが鳴った。
全員が由美を注視した。
「あっ、はい分かりました」
由美はそうしてスマホを切ると、日下部に向かってこう言った。
「日下部さん、今日は白のユニフォームです」
それを聞くと、日下部の指示を待つことなく、全員が立ち上がった。
そんなに気合いを入れなくても、今の山並なら難なく勝てる相手と思われるが、逸(はや)る気持ちはどうも抑えられないようだ。
この体育館の一階には、多目的用途として使われるホールがある。
山並メンバーはユニフォームを着用すると、ここでアップを開始、軽いランニングを始めた。
と、ちょうどその時、帰路に就く他校のバスケット部が現れた。
「あれ、山並じゃないか」
「えっ、そうなのか?」
「ほら、後ろにいるあのデカい奴、新聞に載ってた奴に似てないか」
「分かんねえよ」
「どうする?」
「何が?」
「見ていくか」
「いいよ。負けた俺達がそんな物見てどうする」
「……そうだな」
ぶっきらぼうにそう言うと、二人は山並のメンバーに対し背を向けて外へと出て行った。
第四試合がそろそろ終わりを迎えようとする頃、コート出入口のドアが開いた。日下部を先頭に山並のメンバーが入ってきた。
すると、二階観客席が急にざわざわし始めた。
会場の変化に、山並のメンバー全員が二階の方を見た。
「何だ?地震か」
早田が言うと、
「いや、違うな」
と、加賀美が言った。
今日で全てが終わり会場を去る者もいれば、今日で全てが終わっても尚バスケに情熱を傾けこの場に残る者もいる。我が子の活躍を見に来た親もいれば、バスケが好きな一般客もいる。
第四試合はもう間もなくゲームセットを迎えようとしているも、まだ終わってはいない。
観客席がざわめき始めたのは、明らかに山並が姿を現したからである。
どこの生徒かは分からないが、制服を着た女子高生もちらほらと見られる。しかもそれは一校ではない。複数の制服が見受けられる。そんな彼女達が何やら話をしながら、山並のメンバーに向かって指を差している。お目当ては目(さっか)であろうか。
そうして第四試合が終了した。
スタッフがコートにモップを掛け始めた。その動きは実にきびきびとしている。
由美がふとベンチの方を見た。
いつの間にか、藤本が来ていた。
由美は慌ててベンチに向かった。
コートを挟んだ向かい側の出入口が開いた。
姿を現したのは、対戦相手である礼和学園(れいわがくえん)のメンバーであった。
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お知らせ
更新は毎週土曜日の14:00の予定でしたが、執筆の時間確保が難しくなってきたため更新は不定期になります。何卒ご了承下さい。
*2021年10月14日、PVが13.5万を超えました。本当にありがとうございます。次の更新が楽しみと思われるよう頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。
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