第四章 インターハイ予選 七 まさかの来訪

 一方、時同じくして、チアの顧問である伊藤は妙にニヤニヤ笑いながら、


《あれが水家の見初(みそ)めた彼氏か》


 と思いながら、その目で夏帆を探した。


 夏帆はチアの仲間と一緒に喜びを分かち合っていた。


 日下部が人知れず洋を見ていた。


「杵鞭、休まなくていいのか」


 腕組みをしたまま、その場で藤本が声を掛けると、


「お願いしてもいいですか」


「分かった」


 と言うと、


「五分休憩」


 と、藤本は体育館内に響き渡るほどの大声でそう言った。


「17番」


「あっ、はい」


「水道はどこにある」


「案内します」


 と言うと、


「すみません、すみません」


 と言いながら、洋は出入口に集まっている生徒に道を開けてもらった。


 杵鞭は手洗い場に行くと、頭から水を被(かぶ)った。


 杵鞭の周囲には、大勢の生徒が寄らず離れずの距離を保って集まっている。生徒の中にはその様子をスマホで撮影している者もいた。


 洋との一戦が余程頭に血を上(のぼ)らせたのか、杵鞭はしばらくの間水を被り続けた。


 洋はすぐ横でその様子を見ていた。


 杵鞭が顔を上げた。


 水道栓を捻(ひね)って水を止めると、大きく深呼吸をしてから自分の顔をパパンと叩いた。


「何だ、居たのか」


「杵鞭さんを一人にするわけにはいきませんから。先生に怒られます」


「俺はもう怒られたよ」


 と言うと、杵鞭が少し笑った。


 洋の緊張した顔が少し綻(ほころ)んだ。


「あっ、タオル持って来れば良かったですね」


「坊主頭にタオルはいらん。二・三分も動けばすぐに乾く。」


「そうですね。そう言う意味では確かに坊主は楽です」


「坊主の経験はあるのか」


「中学の時は坊主でした」


「お前はいいのか」


「何がですか」


「休憩しなくていいのか」


「杵鞭さんの隣で休憩なんて無理ですよ」


「……まあいい。ところで……」


「はい」


 杵鞭は少しばかり洋を凝視した。


 洋は何も訝(いぶか)しがることなく、杵鞭を真っ直ぐ見た。


「……お前、赤が好きなのか」


「……ああっ、これですか」


 と言って、洋はバスケットシューズを指さした。


「赤は元気が出るので。でも今は……お守りですね」


「……そうか」


 杵鞭はそう言うと、改めて洋を見て、


「コートに戻るぞ」


 と言って、体育館に向かい始めた。


 体育館内では、観衆の私語がざわめきとなり、空気が揺らめいていた。


 山並のメンバーは由美の手にしているビデオカメラに注目していた。どうやら先程撮影した一戦の再生を見ているようだ。


 そんな中、杵鞭が戻ると、揺らめいていた空気が次第に凪(なぎ)へと変わっていった。


 それは山並のメンバーも例外ではなかった。


 藤本はビデオの再生を見ることなく、ただ目を瞑(つむ)り何かを考えているようであったが、体育館内の雰囲気が変わったことに気がつくと、パッと目を開けた。


「杵鞭、もういいのか」


「はい、大丈夫です」


「矢島、お前はどうだ?」


「はい、行けます」


「開始のタイミングはお前達に任せる」


 と言うと、藤本は口を噤(つぐ)んだ。


 映画の本編が始まる直前のように、体育館内に静かさの波が寄せていった。


 開始のサイドは、先程の三回戦目と同じ場所である。


 洋はボールを一旦コートに置くと、軽く伸脚(しんきゃく)をしてから、二・三度深呼吸をした。


 洋が再びボールを手にした。


 杵鞭の表情が険しくなった。


 見上げた洋の目つきが明らかに変わっていた。


「よろしくお願いします」


「それは断る」


 洋がボールを杵鞭に渡した。


 杵鞭が洋にボールを返した。


 攻守切り替わっての一回戦が火蓋(ひぶた)を切った。


 杵鞭が両手を大きく広げて洋の顔を見た。その守備体勢は伏し目がちにゴリラステップをするような洋の守備体勢とは全くと言って良いほど好対照であった。


 バーン!


 ボールがコートに弾(はじ)かれる音が体育館内に響き渡った。


 左手でドリブルをする洋。一直線にバスケットゴールに向かう。


 杵鞭、すかさずドリブルコースを潰(つぶ)しに掛かる。左サイドに押し遣ろうとする圧力が凄い。


 洋、完全に潰される前にフロントチェンジで右へ向かう。


 しかし、杵鞭の反応は早い。前に進もうにもバスケットゴールに対して鋭角に切り込めない。右サイドへと押し込まれてしまう。


 洋、再びフロントチェンジ。


 しかし、やはり杵鞭の反応は早く、前に進むどころか押し戻されてしまう。広げている腕が洋の予想以上に守備の圧力を掛けてくる。


 洋、ここでまたフロントチェンジ、右から抜こうとしたがどうしても押し返されてしまう。


 と、ここでホイッスルが鳴った。


「8秒が過ぎた。一回戦はこれで終わりだ」


 藤本が淡々と言った。


 落胆と溜息の入り混じったどよめきが体育館内に広まった。


「矢島のやつ、フロントチェンジしか使わなかったな」


 早田が感想を述べると、


「一回戦は杵鞭もそうだったが……」


「あいつは……ここには居ない」


 早田も加賀美も日下部の言った意味がよく分からなかったようだ。二人とも怪訝(けげん)な表情で日下部を見た。


「矢島は、今ここにいる杵鞭と対戦しているんじゃない。インターハイ予選決勝の杵鞭と対戦している……俺には、そう思える」


 早田と加賀美が、今一度視線を杵鞭と洋に戻した。それは、あたかも自(みずか)らの目で日下部の言ったことを確かめるかのようであった。


 一方、二年生はと言うと、


「今の、杵鞭さんに対する挑戦状かな?」


 菅谷が言うと、


「矢島はそう言うタイプでは無いと思うが、意識はかなりしていると思う。山添はどう思う?」


「よく分からん。ただ、杵鞭さん相手に良い度胸はしていると思う」


 と、笛吹の問い掛けに、山添はそう答えた。


 では、一年生はどうしていたかと言うと、鷹取と目がこんな会話をしていた。


「なあ、目(さっか)」


「んっ?」


「お前の目(め)には、今の矢島はどう映ってるんだ?」


「七〇パーセントってところじゃないかな」


「じゃあ、杵鞭さんは?」


「一〇〇ではないと思う。ただ……」


「何だ?」


「この程度が日本代表なら、矢島の敵じゃない」


「……冗談だろ?」


 と言うと、鷹取は思わず二人に視線を戻した。


 当然のことながら、鷹取も洋と1ON1をしたことがある。しかし、その対戦成績は連戦連敗、はっきり言って今の鷹取は洋の敵ではない。それこそ、フロントチェンジをされるだけであっさり抜かれてしまう。だからこそ、洋の実力が秀(ひい)でているのは分かる。しかし、相手は杵鞭だ。誰もが認める日本一のポイントガードだ。その人と比べて洋の方が上だとは、さすがに思えなかった。負けず嫌いな目の贔屓目(ひいきめ)がそう言わせているだけだ。鷹取も洋に肩入れしたい気持ちはあるが、現実は厳しい。鷹取はそれが事実だと思った。


 洋と杵鞭は元の場所まで戻ると、エンドラインを挟んで互いに向き合った。


 ざわざわしていた体育館内が静かに、静かになっていった。


 由美が見ている。


 夏帆が見ている。


 ボールが杵鞭の手に渡り、洋の手に戻った。


 杵鞭の目尻がつり上がった。


《お前はここで葬(ほうむ)る》


 ボールがドリブル音を発した。


 真っ赤なシューズが駆け抜ける。


 しかし、杵鞭のディフェンスはさすが、突破を許さない。


 洋、すかさずフロントチェンジで右へ……


 ここまでは一回戦と同じパターン。


 杵鞭はそれを見越して反応、ドリブルコースを潰すのが一回戦よりも早い。


 しかし……


 洋はここで右足に移動した体重の反動を利用してコートを蹴ると、ドリブルをしていた右手を一旦ボールから離し、体を回転させながら杵鞭に背を向けて体をピタッと寄せると、空中に浮かんでいたボールを左手でキャッチ、そのままドリブル体勢に入った。


 杵鞭がディフェンスをしているはずが、しかも、先手を打って洋のドリブルコースを潰すはずが、まるで杵鞭がディフェンスされたかのように、機先を逆手に取られたかのように、洋の背後に追いやられた。


 山並の一年生があっと言う間にあの杵鞭を抜いた!


 体育館内が驚きと興奮で一気に膨れ上がった。


 洋がリングへと向かう。


 しかし、杵鞭もまるでF1レースのスリップストリームのように洋のすぐ後方に付いて離れない。燃えたぎる鬼の形相が洋を潰しに掛かる。


 洋がペイントエリアに入った。


 杵鞭は洋がこのままステップを踏んでレイアップシュートを打つと予見、そしてそれはその通りになった。


 ボールを持つ洋の左手がリングへと伸びる。


 洋とほぼ同時にステップを踏みジャンプをした杵鞭の右手が壁となって現れる。


 杵鞭の身長は172センチ。洋より約8センチ高い。ジャンプ力はほぼ互角。となれば、洋の最高到達点よりもおよそ背の高さ分、腕と指の長さも考慮すれば、それ以上の高さが壁となる。


 このまま行けば、間違いなくカットされる……


 と誰もが思った時だった。


 洋はまるで手足を引っ込めたカメのように体を縮めた。


 杵鞭の視界からボールがパッと消えた。


 一体何が起こった?


 杵鞭はすぐに視線をコートに向けた。


 丸くなった洋が、いや、洋自体があたかもボールになったかのようにコートへと沈んでいく。


 唯々(ただただ)驚く杵鞭の顔。


 と、その瞬間、洋が顔を上げた……


 そしてほぼ同時に、左手首のスナップを利かせてシュートを放った。


 空中で杵鞭の顔とバスケットボールがすれ違う。


 白いバスケットシューズがコートに着地した。


 リングの下からボールが現れた。


 真っ赤なバスケットシューズがコートに着地、屈脚(くっきゃく)していた膝と足首が車のサンペンションのようにぐっと沈み込み、衝撃を吸収……


 リングの位置よりボール二個分くらい上で止まったバスケットボールが落下を開始……


 洋は屈(かが)めていた体を起こし、立ち上がった。


 ボールがリングの内側に一回、二回と当たった。


 結果は……


 ボールは外に弾かれた。洋のシュートは決まらなかった。


 観衆一人一人の溜息が大きな一つの溜息となった。


「惜しかったな」


 早田が洋の杵鞭に対するプレーに言及したのに対して、加賀美は、


「よくあんな発想が出来るものだ」


 と、洋の想像力に感嘆した。


 これまで表情を全く崩さなかった日下部が、フッと笑みを漏らした。


「夏帆の彼氏って凄いんだね」


「えっ、あっ、うん。そうだね、私もびっくりしてる」


 チアの同期は、洋が夏帆のボーイフレンドであることを知っている。これはもう周知の事実だ。ただ、凄いんだねと言った彼女と同じように、夏帆くらいの可愛い子なら、他にもっと相応(ふさわ)しい相手がいるのではと思っている数人の同期がいるのもまた事実であった。


《人って、たった一言でこんなにも変われるものなんだね》


 夏帆はそんなことを思いながら、洋をじっと見ていた。


 コート上では、最後の一戦が始まろうとしていた。


 二回戦は洋がシュートを放って終わったことから、最後の三回戦はサイドが逆になった。


 洋と杵鞭が対峙(たいじ)した。


 体育館内は、洋と杵鞭の会話が聞き取れるのではないかと思えるほど、静かさの深淵(しんえん)に達していた。


「出来れば、あと一時間くらいはやっていたいが、お前はどうだ?」


「それは、先生に言って下さい」


「怒鳴られるのは、もう懲り懲りだ」


「次は、決めます」


「面白い」


 洋がボールを杵鞭に渡した。


 杵鞭が洋にボールを返した。


 藤本が、山並のメンバーが、全ての観衆が二人に注目した。


 さあ、最後の勝負だ。


 バーン!


 ドリブルの音が響き渡った。


 洋は端(はな)から左サイドラインへ向かった。


 杵鞭、すかさずドリブルコースを潰しに掛かる。


 洋、完全に潰される前にフロントチェンジ……


 杵鞭も逸早く反応、追い詰めたと思ったらすかさず両腕を広げてのディフェンス。


 それを躱(かわ)すために、洋は再度フロントチェンジをするのではないか……


 誰もがそう思った時だった。


 洋は右手首のスナップを利かせて、ボールをフロントコート目掛けて放(はな)った。


 ボールが杵鞭の頭上を越えていく。


 洋はそれに向かって猛ダッシュ。


 杵鞭は全く予想していなかった攻撃に一瞬ハッとした表情を見せた。が、すぐに体を反転させて追走、洋に並んだ。


 二人はゴールテープを目指すかのようにボールに向かって走った。


 洋の左手、杵鞭の左手がボールに向かって伸びる。


 残り、後数センチ。


 どっちだ、どっちが先に掴む?


 ボールに、伸び切った指が触れた。


 どっちだ?


 指に押し込まれたボールは転々と転がり、エンドラインの外に出て行った。


 先に触れたのは杵鞭だった。


 最後の最後に物を言ったのは、能力でも才能でもなく体格の違いであった。


「ああっ」


 体育館内を覆い尽くしたのは溜息、本当に溜息だけであった。


 藤本がホイッスルを鳴らした。


「1ON1はここまで」


 その言葉を聞くと、集まっていた観衆がざわざわと動き始めた。


「先生」 


「はい?」


「今年の男子バスケは本当に期待してよさそうだね」


「新潟代表になったら、その時はよろしくお願いします」


「ああ、分かった」


 一方、コート上では、


「今日は有難うございました」


 ボールを拾ってきた洋が杵鞭に対して頭を下げた。


「俺の方こそ、突然来て済まなかった……ところで」


「はい」


「なぜ、フロントチェンジしか使わなかった?俺を試したのか?」


「挑戦です」


「俺に対する?」


「違います。自分自身に対する挑戦です」


 それを聞いた杵鞭は少し驚いた表情を見せた。


「それにフロントチェンジはドリブルの基本だと思ってます。それが杵鞭さんに通用しなければ、何をしても通用しないと思ったからです」


「そこまできっぱりと言い切るか」


「あっ、そうだ。二回戦で見せたドリブル、あれ、何て言うんですか?」


「……インサイドレッグのことか?」


「凄いテクニックですよね。片手でフェイントをして、股を通して……」


「お前も練習すれば使えるようになるさ。それより、名前を聞いておこう」


「矢島洋です」


 と、ここで、


「杵鞭」


 と藤本が声を掛けた。


「十川(そごう)が来るまでまだ時間がある。一緒にフットワークの練習をするか」


「はい、お願いします」


 女子バスケは既に練習を再開していた。


 チアは、体育館内にいた観衆の全てが外に出るまで待機していたが、それも相俟(あいま)ってか、二人から得た興奮にまだ酔いしれていた。


「水家」


 いきなり背後から声を掛けられたので驚いて振り向くと、顧問である伊藤が立っていた。


「あっ、先生」


「負けられないわね」


「……はい!」


「今の顔、良かったわよ。その気持ちを忘れないで」


「はい」


「全員集合」


 伊藤の声の元に、チアのメンバーが集まった。


「私は、バスケについては余り詳しく知りませんが、先程の戦いが素晴らしいものであったのは分かります。私達が演技を披露する場で、あの二人のいるチームは必ず顔を合わせます。演技の披露まで残り二週間を切りました。山並男子バスケット部優勝をサポートするためにも、これからの練習は更に厳しさを増します。みんな、気を引き締めて行きましょう」


「はい」


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 お知らせ


 更新は毎週土曜日の14:00の予定でしたが、執筆の時間確保が難しくなってきたため更新は不定期になります。何卒ご了承下さい。


 *2021年3月、PVが90000を超えました。フォロワーさんも増えました。本当にありがとうございます。これからも頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。


 *2021年4月17日、PVが遂に10万を超えました。フォロワーさんも増えました。本当にありがとうございます。これからも頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。


 *2021年5月28日、PVが遂に11万を超えました。フォロワーさんも増えました。本当にありがとうございます。これからも頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。

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