第四章 インターハイ予選 七 まさかの来訪

 体育館に戻る前に、メンバーは手洗い場に行って顔を洗ったり水を飲んだりした。


 体育館内では、女子バスケットとチアが既に練習を始めていた。熱気がひしひしと伝わって来る。


 そこへ、一息ついたメンバーが体育館脇の出入口から入って来た。


 藤本は、おそらく職員専用の下駄箱に行って靴を履き替えたのだろう、正面出入口から戻って来た。


 チアの練習を注視していた伊藤は横目に藤本を認(みと)めるとつかつかと歩み寄った。


「先生」


「あっ、どうも」


「誰か来てますよ」


「はっ?」


「藤本先生に会いたいという他校の生徒が……」


「私に?」


「はい」


「どこの生徒ですか」


 伊藤からその名前を聞いた途端、藤本の顔色が見る見るうちに変わった。


「そいつ、今どこにいますか」


「体育館の正面出入口です。会いませんでしたか」


 と聞くやいなや、藤本は走って正面出入口へ向かった。


 同じ体育館内で互いに受持ちの生徒を指導している。長年それを体感してきた伊藤は、それなりに藤本の性格を把握(はあく)しているつもりでもいる。あんなに血相を変えた藤本は未だかつて見たとがない。これは一波乱起きるに違いない。伊藤は内心そう思うと、女傑(じょけつ)ならではの悪趣味がぐんぐんと芽生えてきた。


 藤本が正面出入口の外へと出て行った。


 用具室から日下部が出て来た。


 と、そのときであった。


「貴様、一体何しに来た」


 と、凄(すさ)まじい藤本の怒鳴り声が聞こえた。


 正面出入口に一番近い所で練習をしているチアのメンバーには、それがはっきりと聞こえたものだから、彼女達は思わず練習の手を止めてしまった。


 女子バスケットのメンバーにも大凡(おおよそ)聞こえたようだ。全体的に練習の動きが鈍くなった。


 一番遠くに居た日下部は、


《今の、先生の声だよな》


 と思いつつも、どうも確信が持てなかったようだ。日下部は正面出入口に向かって徐(おもむろ)に歩き始めた。


 すると、


「帰れ」


 と、今度は日下部の所まではっきりと聞こえた。


 用具室からはちょうど洋と早田が出て来るところであった。二人は、


《何だ、今のは?》


 と言わんばかりに互いの顔を見た。


 日下部が走り出した。


 早田と洋も後を追った。


 正面出入口から、勢い三人が出て来た。しかし、その光景を目にした途端、三人が三人とも停止した時間に魅入られたようにその足を止めた。


 ちょうどその頃、外周を終えた三人と由美が戻って来た。練習開始に遅れるとまた怒られると思ったからだろう、必死に走った三人のタイムは由美が思っていたほど悪くはなかった。


 が、そんな喜ばしい思いとは裏腹に、体育館内の雰囲気が異様なことに気がつくと、用具室から次々とメンバーが正面出入口に向かって行くのが見えた。


「どうする?」


 菅谷が言うと、


「どうするって……すぐに練習出来るように靴を履き替えた方が」


 と、奥原は答えたが、


「でも、何か様子が変でしたよ」


 と由美は怪訝(けげん)そうに答えた。


「先生が呼んだのかもしれませんよ」


 清水がそう言うと、


「ああ、そうだな」


 と奥原が言った。


 それを聞いて、菅谷と由美も何となく納得したようであった。


 結局、四人は体育館には上がらず、取り敢えず外から正面出入口へ向かうことにした。


 体育館の角を曲がると、藤本以下メンバー全員が一カ所に集まっているのが見えた。


 何をしているんだろう?


 四人ともそう思いながら近づくと、


「えっ?」


 と、奥原が声を上げ、その場で立ち止まってしまった。


「どうした?」


 菅谷の問いに、


「あれ、杵鞭(きねむち)さんだよ」


「えっ、嘘だろ」


「ほんとだ」


 由美も驚きの声を上げた。ただ、清水だけは驚きの声すら出せずにいた。


 藤本が周囲を一瞥(いちべつ)した。全員、驚きと緊張の眼差しで自分を見ている。さすがに感情的になり過ぎたと思ったのか、藤本は二・三度大きく深呼吸をした。


 少し離れた所に立ち竦(すく)んでいた菅谷達はその様子を見ると、この隙を逃してはならないとでも言いたげに、そそくさと近寄った。


「杵鞭」


「はい」


「この事を、十川(そごう)は知っているのか」


「いえ、僕の独断です」


 それを聞くと、藤本はすかざす上着のポケットからスマホを取り出した。


「……十川か。俺だ。今電話しても大丈夫か。うちに杵鞭が来ている。すぐに迎えに来い……冗談でこんな事が言えるか……分かった。じゃあ、それまで上手い具合に時間を潰しておく」


 そう言って、藤本はスマホを切った。


「聞いての通りだ」


「勝手なことをして済みませんでした」


「お前、さっき面白い嘘をついたな」


「何でしょうか」


「立志戦のビデオを見ました。新生山並の戦いに感動して、どうしても一度練習をしてみたいと……簡単に言えば、矢島だろ」


「矢島?」


「17番と言った方が分かり易いか」


 杵鞭の顔色がさっと変わった。


 山並メンバーにも驚きの表情が浮かんだ。


「良いだろう。矢島」


「はい」


「杵鞭の相手をしてやれ」


「えっ?」


「1ON1だ」


 それを聞いた瞬間、日下部の脳裏にあのときのことが蘇(よみがえ)った。


「フルコートで攻守それぞれ3セット。それでいいか」


「はい、有難うございます」 


「カベ」


「はい」


「着替えの場所を案内してやれ。左側の方だ」


「……あっ、分かりました」


「羽田」


「はい」


「職員室に行って、カメラを持って来い」


「はい。引き出しの中ですよね?」


「そうだ」


 由美が職員室に向かって走り出した。


 藤本は由美の背中をチラッと見遣ると、


「お前等、戻るぞ」


 と言って、厳しい顔つきで体育館の中へと向かい始めた。



 日下部が杵鞭を講堂の左側に案内した直後から、第一体育館の周囲は山並の生徒で次第に埋め尽くされていった。


 あの杵鞭が、あの日本代表が、山並の一年と1ON1をする。駆け巡る噂は伝播(でんぱ)し、それが本当だと知れ渡ると、人だかりは体育館の周囲にとどまらず、あれよあれよと言う間に体育館の二階通路までも生徒で埋ま尽くされた。


 さすがに、女子バスケットもチアもこれでは練習は出来ない。本来なら、藤本に対して苦情を言うところではあるが、事の発端(ほったん)が杵鞭とあっては言い切れないことも確かだ。女子バスケの顧問である安東は、良い勉強の機会だからしっかり見るようにと生徒に伝え、伊藤は練習の一時中止だけを伝えただけで、本人はなぜかニヤニヤと笑っていた。


 藤本は講堂をすぐ背にして立っている。


メンバーは藤本を中心に向かって左側に由美、その隣に日下部達三年生、右側には二年生と一年生が横並びに立っている。


 鷹取は体育館の二階を見渡すと、


「しかし、すげえな」


 と呟(つぶや)いた。


 鷹取の隣にいる清水は、それを聞くと、


「でも、台風の目は静かなんだよね」


 と言って洋を見た。


「俺?」


「お前さあ、何でそんなに暢気(のんき)なんだよ」


「そう言うつもりはないけど、何でわざわざ来たんだろうって」


「それはお前がすげえからだろ」


「そんなことないよ」


 洋と鷹取の会話を聞きながら、清水はあの日もらった手紙のことを思い返していた。


 杵鞭が姿を現した。


 その姿を最初に見たのは、すぐ近くにいる野次馬の生徒達だった。暇つぶしに喋っていた彼等は、杵鞭を見て皆一様に黙ってしまった。そして、沈黙の波は瞬く間に観衆のみならず山並のメンバー、藤本をも飲み込んでいった。


 背番号4を携えた中越平安の正式ユニフォーム、その姿は練習ではなくまさに『戦闘』の二文字を表していた。



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 お知らせ


 *2020年1月から更新日を変更しました。

  更新は毎週土曜日の14:00の予定です。


 *2021年3月、PVが90000を超えました。フォロワーさんも増えました。本当にありがとうございます。これからも頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。


 *2021年4月17日、PVが遂に10万を超えました。フォロワーさんも増えました。本当にありがとうございます。これからも頑張りますので、ご支援よろしくお願いします。


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