第四章 インターハイ予選 五 すいとっと

 中間テストの最終日、一年生の最後のテストは英語であった。


 チャイムが鳴り終わった後に来る何とも言えない開放感が訪れると、洋はテストに対する手応えよりも、今日からまた練習が始まると言う思いの方が強かった。


 ホームルームも終わり、帰宅部は早々に教室を去った。教室に残っているのは、部活が控えている生徒だけである。


 洋と鷹取そして夏帆の三人は顔を突き合わせて弁当を食べる準備をした。


 洋はリュックから弁当を二つ取り出すと、


「はい、これ」


 と言って、それを夏帆に渡した。


 鷹取は、どうして洋が自分の弁当を夏帆に渡したのか、その行動の意味が分からなかったようだ。その顔には確かにクエスチョンマークが浮かんでいた。


「あっ、これ?お言葉に甘えておばさんに弁当を作ってもらったの」


「いつそんな話をしたんだ?」


「勉強会の次の日」


「二人で勉強会したのか」


「違うよ」


 慌てたように否定すると、洋はリュックからスマホを取り出した。


「あっ、ついに買ったんだ」


「でも、試験勉強に集中していたから、まだ全然使ってないんだよ」


「でも、今の話だと、水家とはもう話したんだろ」


「まあな」


「何だよ、それ」


「いいじゃない。買ったら真っ先に電話するように言っておいたんだから」


「矢島、お前尻に敷かれてんな」


「そんな言い方するなよ」


「そうよ。それじゃまるで私が鬼嫁みたいじゃない」


「おい、水家はもうお前と結婚したつもりでいるぞ」


 鷹取がそう言ったのを聞くと、夏帆はちょっと顔を赤らめた。


「いいからもう食べようぜ」


 洋はそう言うと、自分の弁当をリュックから取り出した。


「あれっ?」


「どうしたの」


「水家、お前二つも食べるのか」


「違う、違う。一つは由美の分。これから渡して来るの」


「お前も羽田も、矢島の母さんに少し甘え過ぎじゃないか」


 鷹取も、信子が洋の義理の母であることを既に知っている。正確にはまだ養子縁組をしていないので、現在は同居人のおばさんと言うのが正しいのだろう。話の勢いで鷹取は矢島の母さんと言ったが、当の本人は無意識にそう言っただけである。


 しかし、言われた洋は表情にこそ出さなかったものの、内心は複雑であった。ただ、悪い気はしなかった。


 夏帆が教室に戻って来た。


「あれっ、羽田は来ないのか」


 鷹取が尋ねると、


「向こうの友達と一緒に食べるって」


 と答えた。


三人揃ったところで、黙々と食べ始めると、


「あれっ?」


 と、また鷹取が言った。


「どうしたの」


 夏帆もまた同じ返事をすると、


「矢島、お前左利きだよな」


「そうだよ」


「でも、箸は右に持ってるよな」


「あっ、これ?矯正されたんだよ」


「ああっ、そう言うことか」


「鉛筆も右だし」


「そう言われたら、そうだよな。全然気がつかなかった」


「でも、最近は矯正は良くないって言うよね」


「まあ、そうなんだろうけど、小さい時の事なんて全然覚えてないよ」


 夏帆はそんな洋の素っ気ない返事を聞いて、洋が語った生い立ちを思い出した。これは良くない。


「中越って、実際戦ったらどうなんだろうね?」


 夏帆は洋にそう話し掛けると、


「あの杵鞭って人は視野が広いって言うのか……」


「その人、日本代表なんでしょ」


「よく知ってるな、水家?」


「由美に教えてもらったの。戦えば、矢島が対戦することになるって言ってた」


「大丈夫か、お前?」


「何が?」


「お前が杵鞭さんに勝たなければ、勝算はないぞ」


「そんなこと言われても……頑張るとしか言えないよ。それより、夏(か)……水家の方はどうなの?県大会でチアの演技を披露するんだろ」


「おい、ちょっと待て」


「何だよ」


「お前今、夏帆って言おうとしたよな」


「いいや」


「嘘つけ」


「言ってないよ」


「夏(か)って言った」


「言ってない」


「いいや、言った」


 夏帆が嬉しそうに二人の様子を見ている。


「鷹取も早く彼女作ればいいだろ」


「それが出来れば苦労はしねえよ」


「羽田はどうなんだろうな?鷹取とは相性が良いように思えるんだけど」


「それは無いよ」


「どうして?」


 洋と鷹取の声がハモった。


 夏帆はそれを聞くとプッと吹き出しそうになったが、気持ちを落ち着かせると、


「だって、由美には好きな人がいるから」


「えっ、誰?」


 鷹取が尋ねた。


「それは私も知らない。でも、少なくとも、鷹取じゃないよ。ショックだった?」


「う~ん。ショックではないが、ただ先を越されたと言うのか……」


「鷹取、早く食べないと遅れるぞ」


「ああっ、そうだな」


 と言うと、箸を動かす鷹取の手が速くなった。


 夏帆も二人に釣られて箸の動きが速くなったが、その目は洋の顔をちらちらと見ていた。




 教室を出て階段を降りると、三人は渡り廊下を通って体育館へと向かった。


 渡り廊下から見える空はまさに快晴である。


 中庭に植えられているジャスミンの良い香りがした。


 徐(おもむろ)に、夏帆が洋の肩を叩いた。


 洋が夏帆を見た。


「ちょっと……」


 夏帆が小声でそう言うと、洋は何かを察したらしく、


「鷹取、先に行っててよ。すぐに行くから」


 と言った。


 鷹取も何となく二人の雰囲気を察したようで、


「遅れるなよ」


 と言うと、再び歩き出した。


 夏帆は手に持っていた外履きの靴に履き替えると、中庭に出た。


 洋も同じようにした。


「どうしたの?」


 返事をする前に夏帆は周囲を見回して誰も居ないことを確認すると、


「どうして言ってくれなかったの?」


「何を」


「これからは夏帆って呼んでねって言ったじゃない」


「それはやっぱり……恥ずかしいよ」


「いいじゃない。みんなはもう私達のこと認めてくれてるんだから」


「それとこれとは……」


「もう……バスケットみたいに切れの良いパスを出してよ」


「何でそうなるんだよ」


「……取り敢えず、これは後回しにして、あれ、やってくれた?」


「ああ、ダウンロードしたよ。動作も問題なかったし……」


「良かった、同じアンドロイドで……」


「iphoneは高いからな。無理は言えないよ」


「矢島は……すいとっとって知ってる?」


「えっ、何?聞こえなかったんだけど」


「すいとっとって知ってる?」


「水筒?」


「違う。すいとっと」


 と、今度は一語一語はっきりと言った。


「いや、知らないけど」


「そう。じゃあ……」


 と言うと、夏帆はリュックからスマホを取り出して、画面を何やらいじり始めた。


「これから私がスマホを向けるから、矢島はスマホに向かって『夏帆のことすいとっと』って言って」


「何それ?」


「いいから、早くして」


 洋は何のことやらさっぱり分からなかったが、練習に遅れたら怒られると、そればかりが頭にあったので、深く詮索(せんさく)することなく言われた通りに、


「夏帆のこと、すいとっと」


 と言った。


 夏帆はちゃんと録音出来たかどうか再生してみた。夏帆のスマホから洋の声がはっきりと聞こえた。


「よし。じゃあ、今度は矢島のスマホ貸して」


「ああっ」


 と言うと、洋も制服のポケットからスマホを取り出し、ロックを解除した。


「はい」


「ありがとう」


 夏帆は画面をいじり始めた。


「あった」


 洋がダウンロードしたアプリはボイスレコーダーであった。


 夏帆はアイコンをタップして何やら操作すると、洋のスマホを自分の顔に近づけた。


「洋のこと、すいとっと」


 そう言うと、夏帆は録音の確認をした。洋のスマホから夏帆の声が聞こえて来た。


「うん、これで大丈夫」


「これでって、何が?」


「私と洋の心が繋がったってこと」


「はっ?」


「洋は気にしなくていいの。バスケットに専念していれば」


「何かよく分からないけど、その洋って言うのは止めてくれないかな」


「二人切りの時ならいいでしょ」


「うーん、それなら」


「約束よ」


「分かった。じゃあ、もう行くよ」


「あっ?」


「何?まだ何かあるの」


「一日一回は聞いてね」


「……うん、分かった」


 ジャスミンの香りが夏帆をそっと包んだ。


「私も行かなくっちゃ」


 夏帆はそう言うと、洋よりも先に歩き出した。


 夏帆の後ろ姿を見つめる洋。


 その表情は少し呆気(あっけ)に取られているようにも見えたが、得も言われぬ夏帆の後ろ姿に、心が仄(ほの)かに暖かくなるのも確かなことであった。


「夏帆」


 夏帆が振り向いた。驚きの中に喜びが見て取れた。


 洋は足早に夏帆のもとへ向かった。


「一緒に行こう」


「……うん」


 そうして、二人はこれで話を閉じると、渡り廊下を通って体育館へと向かった。

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