第一章 高校バスケット部、入部 三 キーマン

 我がままを言ってくるようにまでになった洋に、正昭は心の隔たりが小さく低くなってような気がして、それが嬉しかった。しかし、今の洋の言葉はそんな正昭の思いを止(とど)まらせた。


 台所で夕飯の後片付けをしていた信子もその手を止めた。


「どうして?」


「矢島の苗字に未練はありません。だから、中村に変わるのも嫌ではありません。ただ、僕は中学三年間、矢島という苗字でバスケット生活を過ごしてきました。先生からも友達からも矢島と呼ばれ、辛い思い出も楽しい思い出もこの苗字にぎっしりと詰まっています。今の僕があるのは、おじいちゃんとおばあちゃんのお陰もありますが、あのバスケット生活があったからこそだと思っています。だから、バスケットをする限りは、矢島でいたいです」


 正昭はため息交じりに唸った。


「……そうだな。私もその方がいいと思う。信子もそう思うだろ」


 信子はこちらを向くことなく、


「そうね」


 と言った。少し涙声のように聞こえた。


 車を走らせてからしばらくして信号に引っ掛かった。


 洋は前方の赤信号を見ていた。


「なあ、洋」


「はい」


「一番早く来る大きな試合っていつだ?」


「公式戦ですか?いつだろう?明日、先輩に聞いてみます」


「頼むよ。平日だったら有休を取らなければならないから」


「来ても、僕が出ることはないですよ」


「それでも……いや、別にいいか。とにかく、楽しみにしているよ」


 信号が赤から青に変わった。


 正昭は車を走らせた。


 洋は正昭が何を言おうとしたのか気になった。矢島を名乗っていたいと言った昨日のことを合わせて考えると余計気になった。しかし、今はそれを尋ねる時ではないと洋は漠然と思った。

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