5 赤子は見えない

 蝉の声が煩わしい時期だった。

 夫が他界して早十年。息子が嫁にしたいと女を連れてきたのは。

 ふくよかなおかめ顔で、健康的な肌色。「お義母さんのお役に立ちます」と深々と頭を下げたその子は、潔くさっぱりした女で。そのときには既に荷物をまとめたのか、大きなトランクケースを二つ引いていた。「ご実家は」「小さな酒屋です」「手伝いは」「全て兄たちがおりますので」とんとんと嫁入り支度の済んだ女に、わたしは頷くしかできなかった。

 気に入らないところがなかったのだ。

 気さくな嫁は、すぐに近所の家畜屋とも打ち解けた。それどころか外から来たにも関わらず、町でも顔を効かせるようになって、畑の芋もあれよあれよと出荷先が決まった。行動力のある女で、わたしはうんと楽ができるようになってしまった。非の打ち所のない嫁だ。十年間、息子と二人で汗水垂らして泥水を啜っていた生活が一変した。わたしにはもう、やることがない。

「男の子が欲しいわねえ」

 呟いたわたしに、嫁は顔を輝かせて。次の年には子どもを授かった。けれど

「こんな色……どこの子だい」

 初めて嫁を叱ることができた。

「あたしと夫の子です。間違いないです。あたしは夫以外と何もありません」

 そんなこと知っていた。毎日畑仕事をこなして、わたしの分も家事を働いて、朝から晩まで、嫁が自分だけの時間を過ごすことはない。町へ行くのだって、わたしを必ず誘っていく。わたしが疲れたと言えば、手近な喫茶店を探し出して、わたしの手を引く。いつ見ても、目の届くところにいるのだから。

 それでも嫁を責めるのは、せめてもの姑の務め。嫁に心酔していた息子まで、顔を青くしてしまったのは予定外だったけれど。

「次は男を産みます。だからこの子は、認めてやってください」

 そんなこと言わなくても、わたしは良かったのだけれど。嫁がそう言うなら、そうでいいんじゃあないかねえ。


 最初の孫は、出来た子に成長した。嫁がやることを朝から晩まで眺めていたと思ったら、次の日には同じことをするんだ。真っ白な髪を靡かせて、真っ白な細い体を大きく動かして。

 わたしは恐ろしかった。

 嫁どころか、こんな幼子にまで、わたしのやるべき事が奪われていく。わたしの居場所が奪われていく。

 そうだと言うのに、この子のおかげで家計は火の車。薬も病院も、この子はわたし以上に厄介になっていたから。わたしの病院は、いつのまにかこの子の病院になった。

 ほら、もう、わたしの行ける場所はない。

 嫁はいつものように畑仕事へ出て、家では孫とわたしのふたりきり。孫はわたしに気を使ってか、幾度も幾度も話し掛けてくる。覚えたての言葉で、拙い言葉で、何度も。

「それでね、おかあさんがイモを抜いたら、何がいっしょにでてきたとおもう?」

「さあ」

「くつしたよ! おとうさんがないっていってたくつした、畑ににげてしまったのね」

「ふうん」

 飽きもせずに。わたしの顔色を伺って。わたしのカップに茶を注ぎ、どれだけ気を使うのか、この小娘は。

「あんた、楽しいかい」

 大きな目を更に丸めて。そんなところも気に食わない。

「とってもたのしいよ」

 そう笑った顔は、やっぱり嫁にも息子にも似ていやしない。それがなんだと言われても、わたしはそれだけでこの子が好きじゃあないんだ。そんな感情は仕方ないだろう。

「わたしは楽しくないよ」

 そうだから、何年もこう過ごしたのも、良い思い出ではなかったんじゃないかね。きっとそうさ。ぼうやが産まれたのはそれから四年くらい経った頃だっけかね。


 ぼうやが産まれるまでに、嫁が身篭った数は三度。最初の孫を含めれば四度。ぼうやは五度目だ。

 三人の孫は、顔すら覚えていない。

 ああ、わたしは何もしてやいないよ。あの子たちが勝手にやったんだ。

 わたしはハチミツが好きでね、自分のカップにもよく垂らすんだ。それをあの子は見ていたんだね。産まれた妹たちのためにと、せっせとわたしの真似をして。

 ほらね、わたしは何もしてやいないのさ。悪く思わないでおくれよ。ぼうやを一番待っていたのは、きっとあの子だったんだよ。

「おばあちゃん、ものには魂っていうのがあるんでしょ」

「そうだね」

「それはくつしたにもあるのかしら」

「そうなんじゃないかね」

「じゃあ、新しい体に入るってことなのかしら」

「そうなんじゃないかね」

 毎日の面倒な会話も、きっとそのためのものだったんじゃあないかと思う。

 次に産まれる新しい体に、前の魂は委ねられる。よくわからないけど、あの子はそんなことを考えていたようで。今思っても、気味が悪いったらないね。

「あなたはほかのお姉さんたちの魂を受け継いでいるのよ」

「よくわかんない」

 初めて話せる弟ができたときも、そうやって言い聞かせていたっけね。

「きっと、お母さんたちのおかげね」

 ほらもう、全てを見透かしている。あの子はやっぱり、恐ろしい子なんだよ。


 ぼうやはよく知らないんだけどね、これはわたしだけが知っていればよかった話。

 二番目の孫は、ハチミツ入りのミルクを飲んで、ころっと逝っちまったのさ。

 三番目の孫は、同じくハチミツ入りのミルクを飲んだけど、それじゃあまだ足りなくて。高いところにある寝台から、転げるようにして逝っちまった。

 四番目の孫は、なんだっけね、ああそうだ。息子がどこかに連れて行ったのさ。あの子も疲れていたからね。そのまま帰ってこなかったよ。隣の家の息子が騒いでいたのをよく覚えてる。

 みいんないなくなった頃、ぼうやは産まれたからね。そうしてしばらくして、最初の孫もいなくなったんだ。

 正直ほっとしたね。わたしは安心して病院に行けるし、ぼうやは嫁の手伝いに外へ出るから、わたしは家にひとりきり。わたしの部屋に入り浸る子どももいない。

 わたしの居場所は戻ってきた。いなくならせてくれて、ありがとうね。


「ああ、ぼうや、いたのかい」

 部屋で横になっていれば、真っ白なベールを被ったぼうやがそこにいた。いつ来たのだろう。それほどまでにわたしはぼうっとしていたのかね。

「ふふ、もう落ち着いたかい」

 昨日の夜だったか、一昨日の夜だったか、この子が喚いていたのを思い出す。

「ねえ、誰がお姉ちゃんを殺したの」

 そんなこと、聞いてきても無意味なのに。あの子はいなくなって、新しくランジアが生まれて、わたしは耄碌を迎えて、幸せを繰り返せばそれでいい。

「おばあちゃんは、知っているの」

 ああそうさ、知っているさ。わたしはなんでも見てきたよ。知らないことなんて何も無い。

「じゃあ、おばあちゃんは誰を殺したの」

 何を言うのかこの子は。何を言うのか。ええ、何を言うのか。

 わたしが? 誰を? 殺したの?

お姉ちゃんを殺したの」

 ああ、この子はそうか、本当にランジアが乗り移ったとでも言うのかい。白い手足、白い髪、ぼうやは真っ黒な髪じゃあなかったかね。赤い瞳を光らせて、そんなに怖い顔をしないでおくれよ。わたしは何も知らないよ。何も知らない、何も教えてなどいない。

 何も、教えてなんて。

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