3 疑念は晴れない

 役所の仕事はなに、大したことはない。

 書類と書類を睨み付けて、印を押したら窓口を請け負う部下へと手渡す。時折面倒な住民もやってくるが、それを手懐けるのは私の仕事ではない。私はそれを円滑に進めるため、マニュアル化された業務を告げるだけ。ひとしきり仕事を終えるのに、大した時間も必要ない。そうだというのに私が未だこの役職にあるのは、おそらく上司に気に入られていないのだろう。

 奇妙な笑みを浮かべる、年下の上司だ。

 私が役所勤めを始めた数年後に現れて、あっという間にここの重役と化した。なんでも頭が切れるらしい。隠れた片目のせいで、考えが読めない男だ。真っ黒な髪も暑苦しい。

 私はあの男が嫌いだった。

「グラディウスさん、今日はご子息のお誕生日だろう。早めに上がるといいよ」

 書類の山を部下に手渡していれば、そう声を掛けられた。どうして我が家の事情を弁えているのかも気に懸かるが、それよりもこういう計らいさえも腹立たしい。適当に相槌をして、上司の男へ背を向けた。名前はなんだったかな、嫌いな男の名を、覚えてやる道理などないだろう。

 それでも気が晴れるのは、早くにこの男の顔を見ずに済むからだろうか。家へと続く林の入口で見えた背中に、思わず足を大きく持ち上げた。


 妻はよくやっていると思う。息子も素直だ。母は、耄碌し始めたが、それも大したことはない。

 私は平凡に生きている。それでも橋を渡りたくなるのは、男として普通のことではないだろうか。

 最初の娘が産まれた頃、私は酷く疲弊していた。娘の病や、妻と母の対立。何から何まで面倒で、その頃には考えることを放棄していた。しかし、唯一の救いであったのもまた娘だ。妻にも、私にも似ても似つかない娘。母はああ言ったが、私は娘が愛らしくて適わなかった。似ていないからこそ愛おしいのだ。そうだから、次は息子を、と決めたとき、疲労は最高潮に達した。

 毎夜妻を求め、求められ、これに何の意味がある。順番などどうでも良いではないか。

 私は家を出たかった。出たくて堪らなかった。

 それでも妻を娶ったのは、早くして亡くなった父へ憧れていたから。この妻ならば、母のように私を支えてくれるだろうと、信じられたから。そこに愛はあった。

「いつからなくなったんだったか」

「しぼんで見えたんだよ」

 今はこの時間が至福だ。少し早めに切り上げられたときは、生まれながらの友であるカルダミネと飲み交わす。

「奥さん悲しむぞ」

 普段はやかましいこの男も、飲みの席では寡黙になる。普段からこうあれば、嫁もすぐに見つかるだろうに。私はこの男が嫁を取らない理由を知っている。

「今日は坊の誕生日だろう。早目に帰らなくていいのか」

「ちゃんと帰るさ」

 無骨な手のひらは大きい。屋内仕事で年々色白と化す私とは大違いだ。貧弱な体だと、カルダミネにはよく尻を叩かれる。息子が産まれた夜も、確かそうだったかな。


 息子の気の強さは妻譲りだ。私が草臥れていると、鋭い視線を向けてくる。それでも文句を言わないのは、私が家長であると教えこまれているからだろうか。疑問はなんでも口にするし、一度気になり始めるとなかなかあとに引かない。と、聞いている。

 今回のこともそうだ。

「どうしてお姉ちゃんと同じ名前なんかにするの」

 そう決めたのは誰だったか。いや、誰からでもなくそうなったのだ。そうだというのに、私にナイフを向けてくる。私が何を知っていると言うのだ。私はいつでも外へ仕事に行っていて、家のことは妻に任せていて、子育ても妻の仕事で。こうして育ったのは妻の教育の賜物だ。スラスラと言葉を述べることができるようになったのも、強気に物を言えるようになったのも。

「坊は、お姉ちゃんに帰ってきて欲しかったんだろう」

「お母さんのお腹にいるのがお姉ちゃん? 違うよね? ぼくがこどもだからってばかにするの?」

 ほうら、どこまで口が達者なんだか。

「お姉ちゃんも、怒ってる」

 どこで覚えてきたのだか。

「ねえ」

 そういえば私は、息子とこうして長く会話したことはあっただろうか。いつだって、息子に尋ねれば妻から言葉が返ってくる。知らぬ間に、息子は頭が回るようになっていたのだ。

「誰がお姉ちゃんを殺したの」

 いつのまにかこんなに声も低くなって。


 最初のランジアは本当に愛おしかった。

 外に出ることができないからか、物事によく気が付く子で。言葉が話せる頃には、私の疲弊を感じ取って肩叩きもしてくれた。

 次の子が早くに亡くなったときも、あの子は悲しみながらも、「いもうとの分までお父さんたちをたすけるね」なんて言っていて。

 外には出られないから、家の中のことは率先して行い、どんどん上達していった。五つになる頃には料理も覚え、そのときは妻の飯よりも美味しく感じた。

 しかし私はあの子と枕を並べたことなどない。妻との事情があるからだ。

 あの子が産まれてすぐ、次の予定のために行動した。それでも成果は恵まれない。いくら次から次へと試しても、私たちには娘しか出来なかったのだ。

 あの子は七つを超えた。私はもう、面倒だった。その頃からは、あまり妻とも眠ることがなくなった。

 夜の帰りは遅くなる。親友のもとで飲み明かすことが増えた。

 そうした頃に息子が産まれたのだ。ようやく気が抜ける。関心を通り越して、私は仕事へ打ち込めるようになった。気が抜けたのだ。

 母は満足そうに息子を拝んだあと、気が狂いだした。母も気が抜けたのだろう。

 妻は息子を存分に可愛がった。その年は畑が不作だった。

 ランジアは、それら全てに気がついていたのだ。

 私の居場所は、もう林の向こう側にしか存在しなかった。

 息子が言葉を話せるようになったのは、私が妻を愛さなくなってからだった。

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