2 愛は潰えない
あたしの話を聞いてくれるかい。
子宝にも恵まれて、職を失うこともなくて、あたしの生活は人も羨むものだろうと思う。
夫は役所の課長で、それなりに安定したお給金を頂いている。家の畑が不作だったときの補償として働くよ、なんて最初は言っていたけれど、半ば家業がおまけになりつつある。それほどに、この地域はお役所が力を持っているんだね。あの人の言っていた通りだ。
それはそれとして、やっぱりこの家を、夫の前の、そのまた前のじいさんから続いている芋農家を、継いでくれる男児は欲しかった。うちの芋は、人間も家畜も誰もが安全に食べることができる。キツい薬なんてものは使わないからね。畑の肥料?それは企業秘密さ。これを受け継ぐ人間が、よそから来た嫁であるあたしで終わりだなんて、悲しい話じゃあないか。
そうだから、最初に生まれた子が女だとわかったときには落胆した。しかも身体の弱い子で。
お医者さんが言うには、珍しい病らしい。薬の投与は絶対で、日に当たることも避けなければならない。この子を世継ぎにはとてもじゃあないけれどできない。それに、見た目もあたしと夫の子とは思えなかった。そのせいで義母にも疑われ、家にも居づらくて。どれだけあの子を恨んだか。
それでも、あたしは母親だからね。あの子を見捨てるなんてことは決してしなかった。そうしたらあの子は笑うんだよ。透き通る髪を揺らして、赤い瞳を潤ませて。この世のものとは思えないくらいに愛らしかったね、本当に。
世継ぎの件は、次は男児を産もう、と夫と約束して、義母とも決着したんだ。
その決意を込めて、最初の娘の名前は「ランジア」にした。次に産まれる弟と、ひとつでふたつになれるように。
そう心に決めても、思う通りにはなかなか進まないもんだ。ランジアを産んだあと、三人の娘が産まれた。あの人と相談してみたけれど、いい方法も浮かばなくて。けれど、結局みんな身体が弱かった。そういうことになる。きっとあたしも疲れていたんだろうねえ。母体は赤子に影響する、身をもって知ったよ。
ぼうやが産まれたのは、ランジアが九つになった頃だ。産まれてすぐに旅立った姉たちの魂も、きっとぼうやに受け継がれているよ。
「ふうん。でも、どうせなら順番通りがよかったね」
その話をしたら、息子はそう言って唇を尖らせていた。
思えば、ランジアはどこかでその話を聞いていたのかもしれない。息子と話した翌日、あの子の姿は消えてしまっていたから。
近頃は悪阻が特に酷かった。
それでも畑仕事を休むわけにはいかないし、家事だって放り出すことはできない。夫は毎日町まで出ているし、義母は年のせいでボケ始めている。息子は今日誕生日を迎えるといっても、まだまだ幼い。お腹の子の大事を思っても、あたしのやるべきことは多すぎる。もう何年、あたしは腹を痛め続けているのだろう。
「奥さん、またおめでただって?」
隣の家畜小屋主人、カルダミネさんは声が大きい。
「息子には黙っていたいんだよ、静かにしておくれ」
言えばまた盛大に笑ってから、おっとと口を塞いでいた。まるで夫とは正反対の性格。
「それは失礼した。おれに手伝えることがあったら言ってくれよ」
このひとを旦那に貰うひとは幸せだろうな。けれどこのひとは独身だったか。夫と幼なじみということは、あたしとも歳が近い。そうだというのに、未だに嫁を取らないだなんて、かなりの好き者なんだね。
「いつもみたいにたまに畑を手伝ってくれれば、それで助かるよ」
まあ、あたしは、このひとのことは嫌いだけれどね。
義母の作ってくれる果物水は、最初のランジアを孕んだときからの習慣だ。
レモンをたっぷり絞って、ハチミツを混ぜて。
あたしの悪阻が終わったら、産まれてくる子にもそれをたっぷり飲ますんだ。さすがに息子のときは取り上げたけれどね。あのばあさんは、物事の判断が上手くいかないんだ。
今日あたしが飲んだそれも、本当は何が入ってるかわかりゃあしない。いつからだったか、あんなに呆けだしたのは。
「ロニさん、またわしの靴を隠したね」
そうして意地が悪くなったのも。
「隠してないよ、ほらここだよ」
いや、もとからか。横になった義母の隣から顔を出す古びたサンダル。端のまくれたラグも、もう随分と長いこと使い古していて。ばあさんと同じような年季が感じられる。
「あら、ひとりでに歩いたのかねえ」
そうでもあたしは義母が好きだ。身重のときは、夫よりもあたしを労わってくれる。普段は夫を可愛がるけど、こういうときだけはあたしの味方だ。普段は口が辛くても、そういうときだけは。
「そうそう、次の子は女の子だったかね」
「うん。名前を考えなきゃね」
「ぼうの妹だ、名前は決まってるじゃあないか」
「……そうねえ」
背後でカップの落ちる音がした。ああ、義母が用意してくれた果物水、出したままだったかな。片さないと、洗い物も。今日は悪阻が本当に強い。眠気が襲う。
お腹の子がもしも男の子だったら。このばあさんは余計に気が狂うんだろうな。この家は順番通りが大好きだから。
「名前は、ランジアだよ」
息子の十二の誕生日。ひとつ驚かせてやろうかと告げた報せに、ぼうやは滝のように汗をかいて
「それはお姉ちゃんの名前だ!!」
叫んで部屋を飛び出した。あたしと夫は目を丸め、義母も掴んだフォークを取り落としていた。
あの子なら、喜んでくれると思った。姉が戻るのを毎日願うあの子なら。
それを見誤ったのはあたしたちの責任。だけれど、飛び出したあの子を追った先で見たものには、悲鳴が上がりそうになった。真っ暗な納屋の前で、漆黒のぼうやが抱える白いそれ。
本当に帰ってきていたんだね、最初のランジアは。
翌朝息子は起きてこなかった。
声を掛けても、納屋から出ようとはしてくれなくて。呪うような、地響きのような唸り声だけが、扉の隙間から漏れていた。
最初のランジアの呪いだろうか。
朝支度にはいつもより時間が掛かって。いつもなら息子に頼む肥料の回収も、あたしが行かなくてはならない。今日はカルダミネさんも忙しいようで、男手が足りない。義母にはもともと期待などしていないけれど、昨日の悪魔を見たせいで、いつもよりも痴呆が進んでいる。あのばあさんの世話もしなければならない。夫はそれでもいつものように役所へ出掛けて。帰りは遅くなると告げられた。
あたしのお腹にはランジアがいる。義母特製の果物水を飲み干して、身重のままに畑へ向かう。
「なあんか、今日は暑いねえ」
心臓の音がうるさい。畑から臨める我が家の裏側。開けっ放しの納屋が薄暗い。
「あんたも、そう思わないかい」
投げ掛けた声に、あの人は驚いていた。漆のように深い色。もう来ないかと思っていたよ。あの人のおかげで、息子はここまで大きくなれた。あの人のおかげで、あたしは今日までこの家にいることができた。
低く笑って藁を持ち上げる。やっぱり頼りになるんだよねえ。そうだ、今日は夫の帰りが遅いんだったね。今月だけでもう何回目だろうか。忙しい亭主を持つと、妻はなかなか自由にさせてもらえるものだ。
「もったいないよねえ」
ああそうか、最初のランジアはこれを知ってしまったんだったね。ああ、かわいそうに。
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