1 姉はいない
ぼくの家族は酷く平凡だ。
役所勤めの父はいつもくたびれた様子で帰ってきて、小太りの母が夕餉支度に忙しない様子をぼうっと見つめている。時折そんな母から叱責されて、器とスプーンを自分のだけ持って、またぼうっとするのだ。
気の強い母はそんな父に腹を立てるわけではない。母の語気が強いのは元からだし、町では「気さくな嫁だ」と評判もいい。そんな母の子だからか、ぼくもどちらかというと気は強いほうだ。
夕餉の支度が終わる頃には、腰を曲げた祖母が隣室からやってくる。祖母は父のお母さん。だからか知らないけれど、父には到底甘いようで、曲がった腰のまま父の好物を取り分けたりもする。また入れ歯を忘れたのか、ふごふごと何を言っているのかはわからないけれど。
そうしてから全員のカップを運ぶのはぼくの仕事。ぼくだって毎日の畑仕事で疲れているし、畑仕事と家事を両方こなす母もうんと疲れているだろう。だからくたびれた風を見せつけてくる父に、時折反抗心を覚える。でも時折だ。
父も母も祖母も、ぼくは大切だ。ひとつ席の空いた五人掛けの食卓は、どことなく殺風景にも思うけれど、ただ少し、足りないだけだ。
「いつか帰ってくるよね、お姉ちゃん」
そう毎夜呟くぼくに、家族がどんな顔をしていたかは覚えていない。
ぼくたちの朝は早い。
なんたって畑仕事は夜明けと共に始まるんだ。林を挟んだお隣さんの豚小屋から、肥料という名の糞を貰い、畑に運び出す。ぼくはこの作業が一番苦手だ。鋭い臭いと、柔らかな温かさが、革袋の上からでも伝わってくる。それを押し車に積み上げても、やっぱり臭いは取れなくて。腕を振り回していると、いつもカルダミネさんに笑われるんだ。
カルダミネさんは豚小屋の主人だ。豪快な笑い方をする人で、林の向こうからでもこの人の声は聞こえてくる。鍛え上げられた筋肉は、豚小屋では持て余してしまわないか、と聞いたら「豚もおれの太い腕には言うことを聞くしかないのさ」とまた笑っていた。
そんなカルダミネさんだから、豚たちが落ち着いている日にはぼくたちの畑を手伝ってくれる。今日なんかは明け方からずっと一緒だ。
「カルダミネさんがいると、あたしも腰を悪くしなくて済むよ」
「はは、奥さんの腰まで曲がったら、グラディウスは悲しむだろうなあ!」
グラディウスは父の名だ。父とカルダミネさんは幼なじみらしい。どちらも家を継いでいるんだから、そうなんだろう。家を継いでいると言っても、父は家のことは母に任せているけれど。だからか、母とも仲が良い。知らない人が見たら、ここにいる三人が親子なんじゃあないかとも思われそうだ。
「でも豚の世話はいいの?」
畑に敷く藁を背負うと、頭からイグサを盛大に被った。それを払ってくれるのはカルダミネさんだ。いつものように豪快な笑みで。
「何回も聞いてくれるなよ、坊。今日はあいつらは寝てる日なんだ。おれがやることは、あいつらの飯を運ぶことだけさ。それに今日は坊の特別な日だろ?」
言って渡されたのは、手のひらほどの黒い木板だった。端には紐が取り付けられている。
「ありがとう……?」
見たことがないけれど、汚れた指で触れていたら土がついてしまった。慌てて拭いていれば、「それは汚して使うんだよ」とまた笑われる。
「ぼうや! そっちが終わったらこっちだよ!」
母の呼ぶ声。いつの間にか畑の反対側まで進んでいる。母は歩くのが早いんだ。大きなお腹を揺らして、一歩がとても大きい。今しがた貰ったばかりの木板を肩から下げて、置いて行かれないように、ぼくはいつだって必死だ。
昼前には森を巡る。
これはぼくの習慣。木々の色、鳥の声。それらに耳を澄ませて、鼻から吸い込んで、今日もまた違う空気を味わう。小さい頃から、ぼくは毎日これを繰り返している。場所はその日によって違うけれど、色を見て、音を聴いて、空気の味を確かめるのは同じだ。
「今日はハチミツかな」
声に出すのは、忘れないため。家に帰ってから紙を探して、そこに記すんだ。日付と、場所と、味。そうしたら思い出しやすい。けれど今日は──
「そうだ、汚すって」
地面の土を擦りとって、肩に下げた木板に塗りたくった。
「……見づらい」
黒い土は黒い木板との相性が最悪だ。どこかに白っぽい土は──と探して気付いた。木の根元に、盛り上がる砂粒。乾いた砂じゃあ木板には塗ることができない。指で啄くと、砂は小さな穴の中に吸い込まれていった。
「なんだっけ、これ。えっとたしか……アリヅカ?」
蟻の家族が住む家。ぼくの指で埋もれていった穴は、家の中に続いているのだろうか。小さな砂粒が、家を押し潰していく。じっと見つめていれば、小さな黒い点が、ゆっくりと砂の山から転がってきた。二つ。この二つも、家族なのだろうか。
「……お姉ちゃんは、どこへ行ったんだろう」
この話も、姉にしてやりたかった。
昼飯を終える頃、なんだか母の調子が悪いようだった。
吐き気に苛まされているようで、とんとんと背中を撫でても息切れが細かい。畑仕事の疲れだろうか。キビキビと動く母は、時折こうして動けなくなる。ここ最近のことだ。そういうときは隣の部屋で寝ている祖母が、果物を浸した水を持ってくる。今日もまただ。震える手から落ちてしまいそうで、ぼくは慌ててそれを受け取った。
「お義母さん、ありがとう」
「だいじにしなさいね」
そう言って祖母は居間に寝転がった。果物水を飲んだ母は、少し顔色は悪かったけれど、さっきより幾分もましになったようで。祖母の隣に横になった。
夕餉までは時間がある。眠ってしまった二人にぼくはつまらなくて、また森に出掛けようと思った。母の飲んでいた果物水を拝借してから。ほんのり酸っぱくて美味しかった。
ぼくの家はまるで山小屋だ。
太い木で組み上げられた小屋は、森の中に埋もれるようにして立っている。開けた場所は殆どが畑に使われていて、家の裏には行くことがほとんどない。と、いうのも──
「……やっぱり、気味が悪いよなあ」
家の裏側、つまりは深い森の奥。けれどもそう離れていない、木々とツタに取り憑かれた納屋。それはそこにあった。鬱蒼とまとわりつく木の葉が、より一層不快感を演出していて。物心つく頃には近寄らなくなっていた。確か、母にも近寄るなと言われた気がする。父だったか。祖母だったか。ともかく、家の人間の誰もが近寄らない。取り壊してしまえばいいのに、なんでも山小屋を支える大木が、納屋にもかよっているらしい。納屋と山小屋は繋がってるんだ。
「……あれ」
納屋の入口付近に、何かが見えた。何かはわからない。けれど、微かな木漏れ日に反射して、それは目を引いていた。
「白い……粉?」
黒い土の上に散らばる白。恐る恐る近付いてみれば、日陰で少し湿っているけれど、やっぱりそれはただの粉のようで、扉の下から流れ出ていた。
「あっ、これだったら……」
指を押し付けると、粉は悪びれもせずにくっついてきた。肩の紐を引っ張って、木板を前に持ってくる。白くなった指でなぞれば、思った通り、はっきりと汚すことができた。
この粉があれば、木板を使うことができる!
ぼくはそう思って、粉を集めることにした。
豚の糞を運ぶ時に使う革袋。あれは、山小屋の横に吊るしてある。使い終わったらいつも洗って、ああして乾かすんだ。今日の分はまだ乾いていないけれど、昨日の分は完璧だ。まだ少し臭うけれど。それをひとつ拝借して、また納屋の前へと躍り出る。
「ここにあるのだけじゃあ、少ないかなあ」
固くなった扉は重かった。もう何年も、誰もここを使っていないんだ。けれど、ぼくにはこの扉の開け方がわかった。自分の家のものだし、当たり前だと思う。
「うっ……くさ……」
豚の肥料とはまた違う、酷い臭い。鼻をつくそれは、吐き気を誘うし、早くしまってしまいたいと思った。けれど、この粉は必要だから。
地面を這って、粉を掻き集めて、納屋に入る直前でたくさん息を吸った。納屋の中は灯りなんてなくて、ぼくが開けた扉から入る外の光だけが頼りだ。といっても、そんなに広いわけでもなくて、入口から二歩くらい入ったらもう壁に頭をぶつけた。
だから、すぐに気付いた。ぼくが集めた粉がなんだったのかを。膝で踏み付けた硬いものが、なんだったのかを。だってそれと、薄暗い中でも、すぐに目が合ったから。
その日の夜は、いつもと夕餉の内容が違った。いつもより豪勢で、「今日は珍しい豚のステーキだよ」と母の声も弾んでいた。仕事終わりに父が市場で買ってきたらしい。こんな贅沢は、一年に一度だ。その理由をぼくは知っている。知っているけれど、その肉が恨めしくて、こんがりと焼きあがった茶色を睨み付けることしかできなかった。
「なんだ、その黒板?」
「カルダミネさんがくれたんだよ」
「へえ、あいつが。あいつには子どもがいないから、こいつのことをそうみたいに思ってるんだろうなあ」
「ぼうや、お父さんが二人もいて幸せねえ」
今日の父はあまり疲れた顔をしていない。それどころか上機嫌だ。たぶん、役所でいいことでもあったんだろうな。祖母も早いうちから起き出して、母の支度を手伝っている。ぼくは食卓に腰掛けて、そんな三人をぼうっと眺めていた。今日は、ぼくが主役だから。
「誕生日おめでとう」
分厚いケーキが目の前に置かれた。ロウソクは十二本。ぼくは、今日で十二歳になった。
「お姉ちゃんと、同じ歳だ」
呟けば、母は目を丸めていた。
姉がいなくなったのは、確か九年前だった。ぼくと姉は九つ違い。いつの間にか、姉の歳に追い付いてしまった。
「じゃあ、ぼうやがお兄ちゃんになるんだね」
ああ、なんだっけ、確かそんな話を姉ともしたことがある、気がする。ぼくがお兄ちゃんになれば、姉は妹で、ぼくたちの名前が順番通りになるから。
「坊、お前はお兄ちゃんになるんだぞ」
「何回も言わなくても、わかったよう」
「そうじゃあなくて」
母に遮られる。顔をあげれば、なんだか恥ずかしそうに身をよじる母と目が合った。大きなお腹をさすって、父に体を寄せて。
「本当に、あんたに妹ができるんだよ」
「名前ももう決めてあるんだ」
ロウソクの火が揺らめいている。ぼくには不思議と、父と母が何を言おうとしているかが、わかった。祖母が部屋の灯りを消す。ぼうっと炎に照らされる両親の顔が、恐ろしい悪魔に見えた。
「ランジア」
ぼくは家を飛び出した。山小屋の裏の、異臭漂う納屋へ向かって。扉は開けたままだった。月の明かりは頼りない。それでもそれがどこにあるかすぐにわかるのは、白い体のおかげだろうか。
「お姉ちゃん……どうして」
ぼくはそれにゆっくりと手を伸ばした。黒い木板に擦り付けた粉は、これが生み出したんだ。
「誰が」
ところどころが黄色く変色している。脆くなった足は、ぼくが踏んで壊してしまった。手は、床に崩れ落ちている。
「お姉ちゃんを殺したの」
頭蓋だけになった姉を抱き締め、その日ぼくは納屋で眠った。
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