「日下部――今日の放課後、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」


 そう言った岸本の口調は、どこまでも自然なものだった。

 あまりの突然の言葉に、俺は一瞬、自分がこの男と昨日も会話をしていたかのような錯覚を覚えたほどだ。

「……」

 だが、もちろんそんなはずはない。

 岸本と俺はこの二年間、一度として会話をしたことがなかった。その沈黙が、突如として破られた。

「できれば、日下部一人だけで来てくれないか」

「……」

「別にお前をどうこうするつもりはない。ただ、ちょっと話がしたいだけなんだ……」

「……」

 岸本はそう言ってから、口を噤んだ。

 夏が近づいていた。中学も三年にもなるとクラスメイトたちも受験勉強に追われ、心なしか自分への風当たりも和らいだようだった。

 悪夢の中学生活もあと半年を残すのみとなり、これまで耐えてきたのならあと半年くらいどうということもないと、俺は気分的に少し楽になっていた。

 そんな時期だっただけに、岸本からの二年越しの接触はまさに不意打ちといえるものだった。

 罠かもしれない、という考えはもちろんあった。

 だが、この二年間岸本は俺を無視はしても田村たちのように手をあげることはついになかった。そのことが微かに俺の頭をもたげていた。

「……」

 俺があまりに何も言わないので、岸本は再び口を開いた。

「……いいか?」

「あ、ああ……」

 俺はいつの間にかそう応えていた。

「じゃあ、放課後に」

 岸本はそれだけ言うと、その場から離れて自分のグループの元に戻っていった。

 俺は神楽坂に当番で遅くなるので先に帰ってほしいとメールを送って、そのまま自分の席に座ったまま、教室から誰もいなくなるのを待っていた。

 ――我ながら、お人好しだとは思う。

 だが、昼間の岸本の話し方はあの決別の日以前の岸本の態度と同じ気がした。

「……来てくれたのか」

 入口の方から岸本の声が聞こえて、俺は振り返る。

「驚くことか? 俺は来るといったぞ」

 俺は隙を見せないよう慎重に言葉を選ぶ。

「それでも、お前には来ないという選択肢もあった」

 岸本は教室に俺だけしかいないのを確認してから教室に入った。

「この二年間俺がした仕打ちを考えれば、お前にドタキャンくらいされても何も文句は言えない」

「――」

「だから、まずはそのことを謝りたかったんだ。……日下部、二年間お前を無視し続けて済まなかった」

 岸本はそのまま頭を下げた。

「……なんで、今頃になって」

 俺は感情を押し殺し、ただそれだけを口にした。

「実を言うと、ずっと日下部にはこうして謝りたいと思っていたんだ。信じてもらえないだろうが……」

「ああ、信じられないな」

「本当だよ。ただ、タイミングがどうしても掴めなかった。判るだろ。俺にも立場ってものがあるんだよ」

 岸本のその言葉に、俺はこめかみが疼きかけた。

「……そうだな。お前はそういう奴だよ。お前は友達よりも自分の立場が大事な奴なんだろ?」

 二年前のあの日が頭の中にフラッシュバックする。

「判っている。だから今日は、俺もこうして立場を捨ててきたんじゃないか」

 ――立場を、捨てた?

 俺は岸本の言葉の意味が気になった。。

「三年の一学期ももう終わりだろ? 俺も俺なりに考えたんだよ。このままで本当にいいのかって。このまま日下部と話せないまま卒業したら、俺はきっと後悔すると思う。だから今日は日下部にちゃんと謝って、日下部と仲直りがしたかったんだ」

「なんでお前がそこまでして俺と仲直りしたいなんて思うんだよ……」

 俺は岸本の真意が掴めない。

 岸本の言うことは言葉の上でなら理解できる。だが、俺の知っている岸本はこんな言い方をする人間ではなかったはずだ。岸本にここまでのことを言わせるものが一体何なのか、理解できなかった。

「なぜってほら、お前はこの中学に入って最初にできた友達だったから……」

「え?」

 俺は虚を衝かれて、岸本の顔をまじまじと見た。

「だから、厭だったんだ。お前の言う通り、俺は友達よりも自分の立場を優先する人間だよ。だが、お前だけは別だ」

 岸本の顔に、俺は嘘を見いだせなかった。

「他の奴らだったら、俺はこんなことは言わない。俺はあの日にお前を拒絶したことをずっと後悔してきたんだ。最初に友達になってくれたお前だから、俺はお前が一人でいるのが見過ごせない」

 そして岸本が口元にわずかに微笑を浮かべた。

「幸い、俺は今までの立ち回りのおかげで、クラスの中でも比較的意見を通しやすい立場にいる。お前がウンというのなら、俺はお前をクラスの一員として認めさせる仲介役に回ることもできるんだ」

 岸本の口調に、他意の気配はなかった。

「……本気か?」

 俺は自分の心が動きかけていることに気付く。

「お前の言う通り、俺はずるい性格をしているからな。お前がクラスから排斥されているのを見て見ぬふりをしたりね。でも、そのずるい立ち回りが功を奏したわけだ。だからお前は友達の俺の立場を利用してもいい。そうする権利がお前にはあると思う」

「……」

 岸本が言っていることはたぶん本当なのだろう。

 こいつは器用な奴だ。岸本さえ動けば、俺は本当に今の状況から抜け出せるかもしれない。

「……信じていいのか?」

「ああ。騙されたと思って、とは言わない」

 そして岸本は真剣な顔で、

「俺を信じてくれ」

 と、きっぱりと言い切った。

「……判った。信じていいんだな」

 これで岸本との二年間が清算されるわけではない。だが岸本がお互いにここで一歩前進しようと提案するというのなら、俺に断る理由はなかった。

 岸本は俺の返答に大きく肯いた。

「じゃあ、さっそくだけど今日は俺と付き合ってくれ。実は、もうすでにセッティングをしてあるんだよ」

「……え。待て、なんだそれは」

「これからクラスの奴らで集まってカラオケに行くんだよ。お前が来るかもしれないことはみんなにもう伝えてある。みんなオッケーだってさ」

 それでも俺が訝しげに見ていると、岸本は、

「大丈夫。もちろん田村たちは呼んでないよ。それに今日いきなりじゃ駄目だっていうんならここで断ってもいい。不安なら俺もフォロー役に回ってやるからさ」

 俺は一瞬躊躇したが、結局岸本の誘いに乗ることにした。

「金がなければ、今日は特別に俺が奢るよ」

 俺は鞄を持って、岸本と連れ立って歩き始めた。

 こんな風に神楽坂以外の人間と歩くことは随分久しぶりで、妙な気分だった。

 教室を出る際、俺はふと携帯が気になり画面を開いた。

 新着欄には一件だけメッセージが入っていた。

『もう当番は終わったかい?』

 俺は罪悪感に駆られながらも、メッセージを無視して画面を閉じた。

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