⑤
「ねえ、こないだのアレ、聞いてた?」
「聞いた聞いた。超キモかったぁー」
「
「ね、なに熱くなってんのって感じ、ほんとキモいよね」
「……ちょ、やだ。あいつウチらのこと見てるよ……」
「うわ、キモ。そういうのマジ無理なんですけど」
「……」
ここまで聞いて、俺は女子たちから慌てて目を逸らす。
二人の会話では俺はすっかり「授業中に盗み見てくるキモい奴」にされていた。
彼女たちが座っている席は俺と近い。本人が聞いていることなど承知で言っているのだろう。
俺は彼女たちの会話をなるべく意識の外に払って、授業に集中しようとする。
俺が田村たちから死刑宣告を受けてからの約一週間、クラスの連中からの俺と神楽坂への攻撃は地味に、だが確実に始まっていた。
岸本たちのグループはあれ以来俺と接触をして来ようとしない。俺は以前から岸本たち以外の派閥の人間と話をすることはほとんどなかったから、これだけでクラスメイトの大半から
神楽坂は再び学校に登校し始めたが、自分のいないあいだに自分への態度が微妙に硬化していることは敏感に感じ取っているようだった。
神楽坂は不安げな眼差しで、自分のいない間に何があったのか、暗に俺に説明を求めているようだった。だが俺は結局、神楽坂に何も言うことができなかった。
思うに、俺があのときに発した言葉は、ある面でこのクラスの人間関係の真実を言い当てていたのだろう。それがこのクラス全体にいまだに波紋を生じさせているのだ。
むろん、俺ひとりが言っただけで関係が揺らぐほど、彼らの上辺の関係はやわなものではない。
だが、それでもそこはかとない猜疑心がこのクラスに広がりつつあるのは確かだった。真実を突く、ということが痛みを伴うものであることを俺たちはまだ知らなかった。いや、痛みというほどの大袈裟なものではない。それは言わば――小さなしこりであった。
そして、そのしこりから生じた彼らの様々なわだかまりや苛立ちは、必然的にその原因である俺と、そして神楽坂へとぶつけられることとなった。俺たちに味方はいない。彼らとの断絶は、もはや決定的だった。
攻撃は日に日に苛烈さを増していった。特に田村たちのグループは、毎日のように俺に近づいてきた。
「よう、日下部。俺たちと腹パンゲームしようぜ」
放課後になると、俺は必ず田村たちに絡まれてその「ゲーム」に参加させられた。
彼らにとっては、それは単なるゲームでしかないのだ。ルールは単純で、田村たちが俺の腹を殴って、俺がどこまで耐えられるかという、ただそれだけのゲームだ。
「なんだよ日下部―。もう終わりかよー」
「回復したらもう一ラウンドやろうぜ」
「そうやって殴られ続ければ腹筋鍛えられるだろー? 俺らもお前のためを思ってやってやってるんだからな」
「そうそう、俺たちは友達のいない可哀想な日下部君と遊んでやってる心優しいオトモダチだからな」
逃げ出すことはできなかった。放課後になると彼らは集団で俺を取り囲んで俺の鞄を奪い、鍵が壊れて今は使われていない旧体育倉庫まで持っていってしまった。
だから俺は鞄を取り返すために田村たちの元へ行くしかない。鞄を持たずに家に帰れば、それだけで自分が学校でどんな扱いを受けているのか親に知られてしまう。それだけは避けなければならなかった。
神楽坂のいない日に、便所の個室で弁当を食べていたら、突然上からバケツの水を被せられたことがあった。犯人はすぐにその場から逃げ出したから、結局誰がやったのかは判らずじまいだった。母親が早起きをして作った弁当がぐちゃぐちゃになって便所の床に散乱しているのを、俺は悔し涙を堪え見ていることしかできなかった。
結局、制服がずぶぬれになったのは自分で水遊びをしたからだと嘘を吐いて、五時限目の授業はジャージで過ごすしかなかった。
教室の誰もが制服を着ているのに、自分だけがジャージを着ている――それが「自分はいじめられている」という烙印のように思われて、俺は今すぐにでも教室の窓から飛び降りたくなった。
嘲笑と嫌悪の入り混じった周囲の、目。目。目。
他人の視線とはこんなにも恐ろしいものだということを、俺はこの時初めて思い知った。
岸本たちは田村たちのように直接手出しをしてくることはなかったが、田村たちの行動を黙殺し、俺のことを相変わらず無視し続けた。
だから――俺たちは二人だけで徒党を組むことにした。
これから三年間という長い中学生活を、二人だけで戦い抜くことに決めたのだ。そうした関係を依存だというのなら言わせておけばいい。俺たちはそうする以外に、ここで生きていく方法を知らなかったのだ。
そのうち俺と神楽坂は、二人のうちどちらかが学校を休むときはもう一人も休むという暗黙の取り決めをした。そうでなければ耐えられなかった。
内申書という縛りがあるため、学校は意地でも通い続けたが、一人で一日を過ごすには日々の生活は苛烈すぎた。
秋が過ぎて、冬が来た。春になり、神楽坂とクラスが離れて、また夏が来た。
何も変わらなかった。
状況は酷くなるばかりだった。
あまりに長かった一年の間に俺が得たものは、携帯のメールの下書きに溜まった何通もの遺書だけだった。
日々に終わりは見えない。まだ中二の夏でしかないのだ。成績はみるみる落ちていった。心が荒めば、生活もまた荒れていくのだということを知った。それでも最低の成績はキープしていたのは、高校生活にかすかな望みを保っていたからかもしれなかった。
「卒業したら、二人で同じ高校に行こう」
それだけが、俺たちの唯一の希望だったのだ。
神楽坂と過ごす時間だけが、俺にとっての唯一の癒しだった。俺たちの絆はクラスが離れて、以前にも増して固くなった。そう思うしかなかった。
だが、終わりの見えない日々は俺たちが思った以上に過酷だった。
人間の心には確かに悪意が実在する。人間はなろうと思えばどこまでも残酷になれるのだ。その頃になると、俺もまた心のタガが外れ始めてきた。親に暴言を吐く回数が増え、そのたびに自己嫌悪に陥った。次第に限界が近づいてきていることを感じた。それでも俺は、神楽坂にだけは自分の苛立ちをぶつけたくなかった。
神楽坂もまた苦しんでいた。入学したばかりの頃の神楽坂は、授業中の教師の質問によく答える生徒だった。時にはそれが、持ち前の知識のひけらかしのような形になることもあった。それがほかの生徒たちの反感を買っていることに気がつけない程度には、神楽坂もまた青かったのだ。
目立ちたがり、知ったかぶり、教師に媚びを売っている――そしてそれ以外にも数々の神楽坂が放つ数々の異質さのために、神楽坂に関するあらぬ噂がいくつも流された。
曰く、神楽坂海月はシンナーをやっている――。
曰く、神楽坂海月は教師と援交をしている――。
曰く、神楽坂海月は猫の死体を解剖している――。
これらはほんの一部に過ぎないだろう。二年になってからは俺もクラスが変わった関係で神楽坂がどういった目に遭わされているのかがよく見えなくなっていた。
そしてまた、一年が過ぎた。
俺はいつものように旧体育館倉庫で田村たちに面白半分で殴られていた。最近は田村たちの後輩の一年生たちもこの遊びに参加していた。はじめは遠慮がちだった彼らも、今では俺にタメ口を利いていて、へらへらと笑いながら俺を殴っていた。
田村たちは気が済んだ様子で既に帰っていた。明かりとなるものは天井近くの高窓から差し込んでくる弱い光だけで、辺りは薄暗かった。残された俺は体育倉庫の汚いマットの上で横になって、殴られた箇所が熱くなっているのを自分の身体を、まるで他人の身体のように思っていた。
あの日、岸本たちに怒鳴ったときに分裂を感じた時から、俺はこうして自分の精神と肉体とを分けて観察する方法を身に着けていた。痛みを感じていることは生きている証拠だという、よく言われる言葉を思い出していた。全く笑い話にもならない。そうだとしたら俺は、痛みを感じるこの身体だけが生きていて、心は死んでいるようなものだった。
「日下部君……? そこにいるのか」
不意に、暗がりを四角く縁取る鉄扉の白い光の向こうで、誰かの声が聞こえた。……誰かの声? 馬鹿馬鹿しい。この俺にこんなに親しい口調で話してくれる人間など、この学校にはひとりしかいなかった。
「……開けるな、神楽坂」
俺は神楽坂にそんな言葉しか言うことができなかった。言ってしまってから、俺はバツの悪い思いをして、言い回しを少し変えてもう一度繰り返した。
「……悪い。開けないでもらえるか。その気になったら、自分から開けるからさ」
神楽坂は開けなかった。そしてそのままの状態で、
「……田村たちか」
と言った。
扉の向こうで、神楽坂がどんな顔をしているのかは判らない。ただ声だけが、汗と埃の臭いのする暗がりのなかに響いていた。
「……たいしたことねえよ。これぐらい殴られつけてくるとさ、人を殴るのにも、上手い下手ってのがあるんだなって判ってくるんだよ。あいつら下手だから、そんなに痛くないんだ。だから、その……な……」
言葉は続かなかった。
こんな強がりを言わなければならないほど、自分がみじめな人間だということ、それを神楽坂の前で晒していること、それが耐えられなかった。
「まあ、俺のことはいいよ。お前だって、色々と辛いんだろ?
「……」
神楽坂は黙り込んだ。その沈黙が長いほど、俺は自分の卑怯さに嫌気がさした。
俺は、自分のみじめさに触れられたくないためだけに、神楽坂にみじめな話をさせようとしている……。
「……女子たちの場合はね、田村たちみたいに殴る蹴るをすることはしないよ……。でも、男子たちのそれが殴る蹴るだとするなら、女子たちのそれは、瞼を切って、目に強い光を浴びせ続けるようなものだよ」
「……」
「特に、男子の目の届かないところでの振る舞いは、本当に人間不信になるよ……。知っているか? 女子っていう生き物はね、男子の前では平気で声色を変えられる連中なんだよ。はっきりと表に見えているものはまだマシなほうさ。女子だけの密室内で集団心理が暴走すれば、彼女たちは本当に、信じられないようなことをするんだ……」
扉の向こうで、神楽坂の声は震えていた。
俺は、俺たちの間が鉄扉で閉ざされているというのに、そこから目を逸らしたくなった。
「なあ、君、ひとつだけお願いしたいんだ。この学校にも裏サイトと呼ばれるものが存在するんだけどね。たとえ、誰に見ろと言われたとしても、そのサイトだけは、どうか見ないでもらえないかな……」
そして、神楽坂は本当に痛々しい声で、言った。
「あんなところ、君に見られたくない……」
「……」
俺は何も言えなかった。そのサイトというものが、一体どんな内容なのかは判らない。だが、どんなにひどい罵詈雑言が書かれていたとしても、それは神楽坂本人には何の関係もないことだ。
「判った……見ねえよ」
俺は扉のほうへ向き直った。
「他人がどう言おうが関係ねえよ。お前がすごい奴だってことは、俺が一番よく知ってっか――」
「やめてくれよ」
神楽坂は俺の言葉を遮る。
また、沈黙が流れた。
「……本当に……やめてくれ。前にも言ったろう、僕はそんな大した人間じゃないって。僕は特別な人間なんかじゃない。そのへんにいくらでもいる、ただの女子中学生の一人でしかないんだ。いい加減、僕をそんな風にいうのはやめてくれ……辛いんだよ、そういうの」
神楽坂の言葉は、まるで今にも叫びだしたいのを堪えているかのようだった。
「でも、お前は色んなことを知っている。俺や周りの連中とは違う視点を持っている……」
「あんなもの」
神楽坂は自嘲的な声を上げた。
「所詮、知識なんてものは、あくまで脳の外部ハードに過ぎない。今まで僕が君に語ってきた知識に、僕自身の内実から絞り出した、僕だけの言葉が一体どれだけあった? 全部が全部借り物の、アカデミズムの権威に縋っただけの空虚な羅列に過ぎないじゃないか」
「神楽坂……?」
俺は突然取り乱した神楽坂に言葉を失った。
「哲学者曰く、心理学者曰く、宗教学者曰く……僕の言葉は全部それさ。僕は僕自身の言葉なんて何にも持ち合わせちゃいないんだ。僕にあんな風にものを語る資格なんてない。君にそんな風に言われる資格なんかないんだよ……」
「……なんだよ、それ」
なんでお前は、今になってそんなことを言うんだ。
「だからもう、やめてくれ。僕を信じないでくれ。そんな風に言われると、僕はまるで、君を騙し続けているみたいで自分が厭になるんだ」
「……やめろよ」
今度は俺が神楽坂の言葉を拒絶した。
「なんでだよ……なんで、そんなことを言うんだよ」
お前は特別な人間じゃなきゃいけなかったんだよ。
それじゃ俺は、一体何のためにこんなに傷ついているんだ。
それじ俺は、神楽坂を特別な人間だと信じて、神楽坂を尊敬していたいままでの俺は、ただの道化じゃねえか。
こんな――こんなことになるんだったら――。
「――え?」
そこまで考えかけて、思考が停止した。
――今、俺は一体何を考えかけたんだ?
その瞬間、俺は自分が至りかけた思考に慄然とした。
こんなことになるんだったら、神楽坂と友達になんかなるんじゃなかった――。
俺はそんなことを、考えようとしたのだ。
「……」
駄目だ。
そんなことはあってはならない。そんなことを考えてしまったら――俺は、神楽坂とのこれまでのすべてを否定することになる。
「日下部君……どうしたんだ。僕に呆れたのか?」
神楽坂の声で俺は我に返る。
「……なんでもねえよ。悪いけど、もう少しだけこのままでいさせてくれ……」
今は、自分がどんな顔をしているか判らない。
自分自身の顔は見られないことがどれだけ恐ろしいことなのか、俺はこの時に初めて知った。
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