朝の幻覚、トマト、三匹の鹿

時雨薫

朝の幻覚、トマト、三匹の鹿

 祖母の家には三匹の鹿が湖畔で草を食む絵がかかっている。玄関の戸を開けるとすぐ見えるその絵がリツは好きだ。

 祖母はずっと一人暮らしだった。祖父はリツが生まれる以前に亡くなっていた。ただでさえ広く思われたこの家は、無人となった今、なおさら広い。

「来て」

  台所から母が呼んだ。廊下の板がリツに踏まれて鳴る。

「この棚の上に戸があるでしょう。あれを開けてほしいの。ほら、お母さんはああいうと ころに大事なものを置く人だったから」

リツは背伸びをして把手に手をかけた。大きくなったねぇと母が言う。指先に段ボールの箱が触れた。リツはそれを慎重におろす。

「あら、お正月のお皿!」

汗を拭いながら母が叫んだ。色鮮やかな大皿だった。

「お父さんが買ったの。孔雀が描いてあるでしょう。お母さんがケチをつけなかった買い 物と言ったらこれくらいのものでしたよ」

母の肩が震えるのを見てリツは居心地が悪くなった。この家に染み付いた老人のにおいが急に気になり始めた。世間にもまれてひねくれてしまったこの人も人並みに親の死を悲しむのだと思った。

 畑で採れた胡瓜とトマトを昼食に添えた。孔雀の皿に瑞々しい野菜が並ぶ様子は新鮮で、不釣り合いだった。

「お母さんが育ててくれたんだよ。もうダメになってしまったかと思ったけども、そんなことはなくて良かった」

「このところ夕立が酷かったからね。水には困らなかったと思う」

「お母さんが降らせてくれたんだね」

リツはまた居心地が悪くなる。トマトがしみた。

「リツくんはほんの少し見ない間に大きくなったね」

「もう止まったよ」

「いいや、伸びた」

「伸びてない」

母が微笑むので、リツもつられて笑った。その後でなぜ微笑み返してしまったのだろうと 自問自答する。こんな日にまで母がメランコリックな水玉模様を着ていることが嫌になっ た。

「もう大学生だね。東京は楽しい?」

「お金さえあればね」

「わかる。私も東京に住んだことがあるから」

「わかるの? 三十年は昔の話でしょう?」

「わかるよ。変わらないものは変わらない」

「変わらないものって?」

 母は黙って味噌汁を飲み干した。どうせ答えられやしないのだ。ただ幸せな親を演じたいがためにこんなことを言う。自分が子に対して全面的に人生の先輩であって子が経験する何もかもを懐古の情をもって眺められると勘違いしている。僕はそれが気に入らない。 リツはそう思った。

「お掃除をすませて、それからのんの様のお引っ越しもしないといけませんね」

 掃除は大仕事ではなかった。祖母は自分で片づけを済ませていた。病院で面会したときはすぐに畑仕事へ戻るつもりだと言っていた。実のところ死を予感していたのだろう。白 い布団を掛けて寝ていてもあれほど生の力強さにあふれていたというのに。穏やかな死にざまはとても祖母らしかったとリツは思う。

 リツは玄関に掛けられている鹿の絵を見つめた。右手前に大きく描かれた鹿は頭をもたげ湖の水を飲んでいる。その様子をやや小ぶりな一匹が見つめる。最後の一匹はほとんど背景に溶け込んでいる。湖の後ろには淡い緑の森が輪郭なく描かれている。甘い果実が実 っているだろう。力の無い絵だと思う。しかしリツはこの絵が確かに好きなのだ。

 仕事が終わったのは五時だった。荷物を母の車の後部座席へ詰めた。持ち帰るものは想定していたより少なかった。リツは助手席に座った。車の心地よくはない匂いがした。母がエンジンをかけた。

「あのさ」

リツに話しかけられ、母は車を発進させるのを中断する。

「今日はここに泊ってもいいかな?」

母は黙った。共感しようとしている。けれど僕の考えが理解できないのだ。リツはそう思った。

「そうだね。リツくんはおばあちゃんをそばに感じたいんだね」

リツは吹き出しそうになるのを堪え、まじめな顔を作ってそうだと答えた。リツは居間の畳の上に寝転んだ。夜までの時間をどう過ごすか考えた。蝉の声がかまびすしく聞こえる。そういえば東京には蝉がいない。

 大学というのは良いものだ。高校ほど忙しくはないから。リツのこの意見にカイは賛同しなかった。リツは無気力すぎるとカイは主張する。

「好きも嫌いも、もっと積極的な理由から持っていい感情だ。だのに、リツ、君はどうだ? いつだってまるで案山子のように」

「誤解だよ。僕はただ自然体でありたいだけなんだ。自ら求めて得た感情は、作り物だ。 僕は作り物が好きじゃない」

 カイは肩を揺らしながら大げさに首を振る。リツはカイのこの癖が好きだ。カイとリツとは境遇があまりに異なる。カイには両親がいない。中学を卒業した直後の

春休みからバイトをはじめた。大学の学費は奨学金で賄っていて、祖母には少しも負担させないつもりらしい。カイはリツによく祖母の写真を見せる。どの写真も祖母と孫という 感じではない。適切な言葉が用意されていない、特殊で深い関係なのだとリツは思う。

「俺は夢があるよ。俺は脚本家として身を立てる」

 あまりに無茶だ。リツは可笑しさを覚える。それから申し訳なくなる。リツの家庭は幸福だ。誰も心身を患っていない。衣食住に困ったこともない。けれど、 リツには夢がない。リツは夢というものが嫌いだ。

「大学を出た後の計画はあるのかい、君は」

リツが尋ねた。カイはその意地悪さに気づかない。

「俺がしたいようにするよ。君は?」

「今から就職先を探してる。真面目でしょ」

 親というものは子が夢を持っていないことを心配するのだろう。しかし僕の両親は気づかない。つまり子の計画と夢との区別がつかないのだ。カイに意見を求めてみようか? カイは僕の幼さを笑うだろう。きっとカイが正しい。同じ十九年でもその重さは異なる。 僕が生きてきた時間は木片、カイが生きてきた時間は鉄だ。リツはそう思う。

「無気力すぎる」

 リツは天井へ向かってつぶやいた。この家は無気力であるのに丁度よい。蝉の声は都会の喧騒よりずっとよく人を安らがせる。涼しくなる。雲が出始めていた。横になる他何も しなくていい。

 こんな眠りは必ず夢を伴うものだ。リツはあの絵画の湖畔に立っていた。霧がかかっている。対岸に三匹の鹿の影が見える。リツは心躍らせて鹿に会いに行こうと思った。湖に足を踏み入れる。緑色の重い水に足を捕られる。胸が水に浸る。苦しくなる。霧だ。霧を飲んでしまったからだ。鹿の一匹が顔を上げた。深いしわの刻まれたその目元が不思議と明瞭 に見えた。

 汗ばんだシャツの気持ち悪さでリツは目が覚めた。明かりは灯っていない。完全な闇の中だ。両腕を伸ばしてバランスを取りながら注意深く立ち上がる。自分が今垂直に立って いるのかさえわからない。しかし足の裏には確かに畳の起伏を感じている。縁側の先に南の空が見える。大きな釣り針――さそり座――が赤く光っている。車のテールランプのようだとリツは思った。外へ出ることにした。

 何といっても山の中だ。民家は反発しあう磁石のように互いに離れて点在している。月のない夜だから星が影を作りそうなほどに明るい。リツの足元を照らす携帯電話のライト はそれに比して随分心もとなかった。どこへ行こうというあてもない。しかし人間の足なのだから、そう遠くへは歩けない。

 空気が生温かく体温のようだ。その癖、風の一つも吹かせない。死んでいるのだ。リツは こんな風に深夜の山中を歩き続けるいつか読んだ小説を思い出していた。その小説をなぞろうと思った。

 橋を渡った。透明な水の音がした。東京のむやみに大きな川とは違う、跳んで渡れそうなささやかな川だ。雲が細い筋になって空に貼りついている。星の明かりを透過しそうな ほど薄い。それからの風景をリツは記憶していない。何の変化もなかったからだろうか。 何かを感じ取るにはあまりに疲れていたからだろうか。

 霧のように希薄に存在していたリツの意識が再び明らかな形をとったのは、目の前に鹿が現れた時だった。その鹿との距離が手の届くほどになるまで、リツはその存在に気づかなかった。鹿の方は驚く様子も見せずリツを見つめている。東の空に黄色い光が差し込み始めていた。孔雀が尾羽を広げるかのようだ。

 陶器のような目が二つ嵌っている。まつげが⾧い。夢で見た鹿とはまるで違うもののように見えた。しかし、それならば、あの湖畔の鹿の深いしわが刻まれた目元は、金属質の 光を放つ目は何だったのだろう。よく親しんだ目だった。

 遠くから鶏の鳴く声がした。鹿は歩み去っていった。リツは思い出していた。あれは祖母の目だ。湖畔でリツを待っていたのは他ならぬ祖母だ。倦怠の湖に沈むさまを僕は祖母に見せてしまった。リツはそう思った。

 祖母の家に帰り着いたころには夜がもう去っていた。玄関に絵はない。昨日運び出してしまった。リツは縁台に腰かけた。いつも祖母が座っていた辺りだ。朝は正直だ。わざとらしい影がない。祖母のトマトがかくも透明だったのは、こんな朝に幾度も身を浸していたからに違いない。

 帰りの車の中で母は一方的に話し続けていた。内容はどれもつまらない生活上の注意だった。車は山を離れ、灰色の建物ばかりが立ち並ぶ駅前まで来ていた。赤信号で停まった 。

「ちゃんとお墓参りに行くんだよ。おばあちゃんを心配させちゃ駄目だからね」

「うん」

 リツはそっけなく答えた。祖母の死を悲しんでみるのも、悪くない気がした。線香の匂いを思い出していた。

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