第15話 本当にさよなら

 次の日の夜のこと。僕は食事を終えて部屋に戻ってきたところだった。今の時刻は午後八時、そろそろお風呂に入ろうかというところでスマホが鳴った。

 多分紗耶か圭太だろうと画面に表示される名前も見ずに通話を押した。


「もしもし?」

『もしもし……たっくん?』

「えっ、な、なっちゃん?」


 電話の相手はなんと夏だった。驚きのあまりスマホに表示されている名前を何度も見返してしまう。けど、そこに表示されているのは紛れもなく錦戸夏の三文字だった。


「ど、どうしたの? この前までもう会わないでって言ってたのに……」

『あのね……もうお終わりにしようと思うの……』

「えっ? 終わりって……」

『今から室川の橋の上で機能停止するの……そうすれば私はもう二度と傷つくことも、誰かを傷つけることもなくなる……』

「夏……それって……」


 どういう意味か訊こうとして、僕はその言葉を呑みこんだ。それを訊いてしまえばきっと――夏ともう二度と会えなくなってしまいそうで。


『私わかったの。私が生きていることにもう意味なんてないってことに、やっと気がついたの。私はロボットだろうと幽霊だろうと、生き返ったらだめだったんだよ。いつかみんなに悲しい思いをさせて幻滅させちゃう……』

「幻滅なんてそんな……」

『私は生きているだけで悲しいし、私を待っていた人にも悲しい思いをさせちゃう……そんなロボットが動いていいわけがないんだよ……』


『今度こそ本当にさよなら……たっくん』


 電話が切れる。

 夏がこれから機能停止をする。それはいったいどういうことだ? もう動かなるってことか? もう二度と夏には会えなくなるってことか?


(そんなの……)


 部屋のドアを蹴飛ばすようにして開けて外に出た。階段を転げ降り、祖母が驚いた声をあげるのも無視して、スニーカーを爪先に引っかけて走り出した。


(なっちゃん……なっちゃん……)


 頭の中で狂ったように夏のことを呼び続ける。おかしくなりそうだった。それでも足は全力疾走で室川に架かる橋を目指している。ここからそう時間はかからない。まだ、間にあうかもしれない。いや、それとも手遅れかもしれない……

 嫌な考えが思い浮かびそうになって、頭を振って冷静さを取り戻す。そして、僕一人では夏を止められないかもしれないと思い、走りながらスマホを操作して、電話帳を開き紗耶に電話をかける。


『もしもし?』

「紗耶? い、今出てこれる?」

『ど、どうしたの? そんなに息乱して?』

「な、夏が……きのう……て、停止するって……」

『……とにかく夏が何かするんでしょ? 場所は?』

「む、室川の橋の上! た、頼むから早く来て! あ、あと圭太にも電話して!」

『わかった。すぐに行く』


 電話が切れるのも確認せずに、ポケットにスマホを捻じ込む。喋ったせいで余計に息が乱れて、それなりの距離を全力疾走した足はもうがたがたで最初の半分もスピードが出ていなかった。それでも、僕は星が煌めく夜空の下を、夏目指してひたすら走り続けた。

 どのくらい走っただろう? 頭に血が上らなくなってきて、眩暈がしてきた頃、ようやく室川に架かる橋が見えてきた。そういえばあの橋で紗耶に告白されたんだっけ? なんてもう随分昔のことのように思える記憶を重ね合わせながら夏の姿を探した。

 夏はあの白いワンピースを着て橋の柵の上に立っていた。子供が誤って落ちないように設置されているそれは高さ一メートル、幅は十センチ、そこから川までの高さは約十メートルといったところ。落ちたからといって死ぬことはないだろうが、どうなるかわからない。いや、それ以前に夏は人間じゃないから――


「なっちゃん……!」


 橋の手前まで辿りついた僕は夏を呼んだ。夏はゆっくりと柵の上で振り返り、僕のことを見つめる。その眼にはサイレンのような赤い光が宿っていた。


「来たんだ……」


 口を動かしたのかどうかわからないくらい生気のない動作で、夏は声を発する。


「来たんだって……来るに決まってるんじゃん……! あんなこと言われたら!」


 乱れた息のまま、肺から空気を絞り出すように声を出す。


「……そう」


 夏は再び僕から視線を外し、川の底を覗きこむように自分の足元を眺めた。


「私は……もういらない子なんだよ。お母さんから愛されない。友達も離れていく。たっくんを、紗耶を、圭太を……いつか傷つけちゃう……そんな私はいらないんだよ……」

「そ、そんなことないよ……!」

「それにつらいの……つらいのに、苦しいのに、泣くことも出来ないのがつらいの。私はロボットなんだよ? 本来は機械だから感情だって必要ないはずなの……それなのにそんな余計なものがあるから……」

「そんなにつらいなら僕たちが助けるから!」

「そんなこと言ったって! どっちにしろみんな私の前からいなくなるのっ! いなくなっちゃうのっ! お母さんみたいにっ!」

「僕たちはなっちゃんのお母さんじゃない! 絶対にここにいる! 夏のことも全部信じられる! だから信じてよ……信じてつらいのとか、苦しいのとか、今まで傷ついた分の痛みを僕たちにも分けてよ! 一緒に背負っていくから!」

「……僕たちって誰?」


 不意に金属のように冷たい声で夏が問う。


「えっ?」

「たっくんだけじゃん……紗耶も、圭太もそんなことは一言も言ってない……」

「そ、そんなこと言わなくたってみんなそう思ってるよ!」

「そんなことって……私にとってはそれが一番大事なの!」


 まずい……興奮してつい余計なことまで言ってしまったかもしれない。そう思ったのも束の間、夏は今まで手に握っていたものを僕に見せつけるように突き出す。

 それはテレビのリモコンの様な何かだった。


「私がこのボタンを押せば、脳に酸素を送るポンプが停止するの……そうすれば今度は本当に生き返らない……」

「なっちゃん……?」


 僕は橋に向かって、夏に向かって一歩足を踏み出す。


「こないでっ!」


 僕のことなど見ていないはずの夏が、気配で察したのか鋭い声で制する。


「もう……こうするしかないの……もう、こうするしか……私が傷つかないためには、みんなを傷つけないためには……こうするしか……」


 夏がぶつぶつと呟くのを見て、僕は自分の無力さを実感した。僕は結局何もできない。いくら四人に戻りたいと、夏のことが好きだと主張しても、結局五メートルも離れていない夏に手を差し伸べることもできない。ただ安全な場所で、夏が背負っている仮想の痛みで、夏のことわかった気になっていただけなんだ。

 だから、僕は夏の指がリモコンのボタンに触れる直前だって、叫ぶことしかできない。


「なっちゃん!」「夏ー!」


 その瞬間、僕の声が誰かの声と重なった。振り向くと、そこには自転車にまたがる紗耶がいた。


「紗耶……」


 紗耶が来てくれたという安心感で、思わず膝から崩れ落ちそうになるけど、なんとか堪えて紗耶がこちらに走り寄ってくるのを見つめた。


「夏……そんなことしたって意味ないよ?」


 僕の横で足を止めた紗耶が、夏に優しく話しかける。


「……あのね紗耶、そんなこと私もわかってるの。でも、わかったうえでこうするって決めたの……」

「……あたしは、夏の傷……背負ってみせるよ……」

「えっ……」

「あたしさ、夏がここまで追い詰められてるなんて知らなかった。お母さんがいなくなったのとか、友達がどんどん夏から離れていったのも知ってた。知っててあたしも逃げようとした。それならあたしも夏も傷つかなくて済むと思ったから……」


 でもね、と紗耶は続ける。


「拓に気付かされたの。夏が一人で苦しんでるなら、助けてくれる人がいないなら、支えになってあげられるのはもうあたしたちしかいないんだって。一度は夏から逃げたけど……本当にそれは夏のためになると思ってしたことだから。だから……信じて?」

「さ……や……」


 夏がようやく僕たちを見る。その顔は今にも崩れそうだった。なんだよ、本当は僕たちが来てくれてうれしいんじゃないかと、ようやくわかった。


「なっちゃん……もうやめよう……」


 僕はさっきまでは踏み出せなかった一歩を踏み出す。そのまま、二歩、三歩と夏に近づく。


「四人で一つの幼馴染に戻ろうよ……そうすればきっといつかは……どんなことも乗り越えて、また元通りになれるからさ……」


 夏は黙って首を振るばかりだった。僕は四歩、五歩と足を踏み出す。


「なっちゃん……おいでよ……こっちに来てよ……」

「いや……」


 僕は夏の正面で立ち止まって両手を広げた。いつ、夏が戻ってきてもいいように。


「いや……いや……みんな傷つけちゃう……がっかりさせちゃう……私のこと嫌いにさせちゃう……」

「大丈夫だよ。絶対に」

「うそ……」

「本当に大丈夫だから」

「うそだもん……」


 夏が顔をあげると同時に、再び川の方へ振り返った。


(まずい……!)


夏はリモコンに――僕は夏に手を伸ばした。夏を取り戻す為に。でも、その手は一瞬早く伸びてきた手に先を越されて、ちょうど夏の右手に納まっていたリモコンを掴み取る形で夏のことをやさしく柵の上から橋に引き戻した。その手は紗耶のものではなく、圭太の手だった。


「何回死ぬつもりー?」

「圭太……?」


 橋の上に尻もちをついた夏が茫然と圭太のことを見つめた。その瞳には最初に見たあの赤い光りは宿っていなかった。


「俺たちはー夏が死んだときにーすごく悲しかったんだよー? すごく泣いたしー夏がいなくなったのはーどうしようもなく寂しかったー……」

「……」

「それがさーもう一度繰り返されたー俺たちはどうすればいいのー?」

「……」

「俺はさー本当に夏が戻ってきてくれたとかー、今のロボットの夏がー人間の夏と同じだとは思わないー。それは拓にもずっと言い続けてきたけどーやっぱり夏は人間じゃないと駄目なんだよー」

「そ、それなら私……」

「でもーロボットでもー本当の夏が少しでも残ってるならーやっぱり守ってあげなくちゃなーってー」


 圭太がはにかんだ笑いを僕に見せた。


「本当の夏じゃなくてもー傷ついた夏をー見殺しにはできないー」


 圭太がそう告げると、夏はついに限界が来たのか、声だけで泣き始めた。涙はこぼれない。それはロボットだから。人間では当たり前のことが、夏にはできない。それがきっと一番つらくて苦しんだと思う。だから、僕たち三人が夏の分も泣こう。夏が今どんな気持ちで泣いているのか、夏が今どんな風に苦しんでいるのか、全てわけあって泣こう。夏が泣きやむまで泣き続けよう。

 紗耶が僕らのそばに屈みこんで、夏の手を握りながら泣いた。圭太は夏の背中をさすりながら泣いた。

 僕は夏の頭を撫でながらもう泣くなと繰り返しながら泣いた。

 四人で一つになって、ひたすら泣き続けた。

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