第12話 返事
この村に着てから二週間がたった。
紗耶の告白から丸々一週間、僕は一日の内ほとんどを家の中で過ごすという怠惰な生活を送っていた。気がつけば夏休みも半分が終わっていて、そろそろ終盤という時期になっている。
僕はこの一週間ほとんど日課のようにベッドの上で転がり続けた。二回転半で端から端まで辿りつくシングルベッド、その上でセミの声に合わせてメトロノームのように規則的に転がって、悶々と悩み続けている。
悩んでいることは二つ。
一つは紗耶の告白。これはまだ答えが出ず。
もう一つは夏への気持ち。これも同じように答えが出ずにいた。
結局一週間も経つのにどちらにも結論を出せていなかった。いや、どちらか答えが決まればおのずともう片方は決まるのだ。紗耶の告白に「はい」と返事をすれば、夏への気持ちなんてものは消してしまうしかない。逆に夏への気持ちを優先するなら紗耶の告白には「ごめん」と言うしかなくなる。つまるところ、夏か紗耶、僕はそのどちらかを決めなければならないのだ。
「紗耶の告白を受け入れれば僕と紗耶は幸せになるかもしれない。けど、夏への気持ちを優先したとしても二人とも傷つくだけでお互いに不幸になるかもしれない……」
膝を抱えてひたすら転がり続ける。しかし、答えは出てこない。
それに僕はまだ今の、ロボットの夏を昔の夏と同じように見ていいのかすらもわかっていない。夏はロボットだろうが何だろうが夏なのか、それともロボットになってしまえば夏は夏じゃないのか……その境界線で彷徨っている。
「どうするんだよ……」
メトロノームを止める。まだ午後二時だというのに、もう二日くらいたったんじゃないかと思うほど時間の進みが遅かった。
その時久しぶりにスマホが鳴った。着信音がメールではなく電話だった。
ベッドに寝転がったまま、机に手を伸ばしてスマホをとる。画面に表示されている名前は――紗耶だった。
思わず唾を飲み込む。多分告白のことだ。あんまり意識していなかったけど、紗耶は僕のことが好きなんだ。一週間もメールも電話も会うこともしていなければ、当然声くらい聞きたくなるだろう。
思いきって通話ボタンを押した。
「も、もしもし?」
『やっほー久しぶり。今日暇ー? 暇だよね? だったらあたしの家来てよ』
「えっ? なんで?」
『部活が午前中だけで暇なんだ。一緒に格ゲーでもしようよ』
僕は拍子抜けした。紗耶の態度があまりにもいつも通りで、返事の催促なんかではなく暇だからゲームしようなんて言うのだから緊張していた僕が馬鹿みたいだ。
『おーい聞こえてる?』
「ご、ごめん聞こえてるよ。紗耶の家に行けばいいんだよね? すぐ行くよ」
『あっ、ちょ――』
紗耶が何か言いかけたけど僕は変に緊張していたことを悟られたくなくて、素早く通話終了をタッチして、さっそく部屋着から私服へ着替えを始める。私服に着替えるのも一週間ぶりだ。いくら夏休みだからといって家の中に居過ぎだと、自分を責める。
いつも通り財布とスマホ、家の鍵以外は何も持たずに祖母に一声かけてから家を出た。
紗耶の家に着いた僕は紗耶の母親に出迎えられた。
「あら、拓君。いらっしゃい」
紗耶の母親は紗耶が大人になってもこうはならないなという静かな人で、ピンク色のエプロンをつけていて家庭的な印象を受ける。仕事ばっかりでいつもスーツを着ている僕の母親とは大違いだ。
「こんにちは。お久しぶりです」
「はいはいこちらこそ久しぶり。紗耶、今自分の部屋いるから」
紗耶の母親は玄関の脇の階段を指差す。
「あ、わかりました」
「それじゃ後で飲み物持っていくわね」
紗耶のお母さんは僕に優しく微笑みかけて去って行く。僕はおじゃまします、と言いながら靴を脱いで階段を上がる。紗耶の家に来たのは一回や二回じゃないので紗耶の部屋がある場所ももちろん知っている。でも、今思うとこうして僕を自分の家に上げていたのも好きだということをアピールしたかったからかもしれない。僕は夏のことばかりで、紗耶が僕のこと好きでいるなんて想像もしていなかった。もし、夏がロボットじゃない頃に気づいてあげれば、今この瞬間はもう少し違ったものになっていたかもしれない。
二階に上がって、一番奥の南側の部屋。そこが紗耶の部屋だ。記憶にある限り部屋の大きさは僕とほぼ同じだったはずで、中には普通に机とベッドがあって、テレビとゲームもあっはずだ。
紗耶の部屋の前に辿り着いた僕は、軽くノックをする。
「紗耶ー? 入るよー」
「あっ! 待っ――」
僕は重大なミスをした。ノックをしたのはいいものの紗耶の返事を待たずにドアを開けてしまったのだ。いくらなんでも返事が返ってくる前にドアを開けるのはまずかった。けど、何度後悔しても遅い。だってドアを開けた先には――
「まっ、待ってって言ってるじゃん! 馬鹿ッ!」
下着姿の紗耶がいた。引き締まった足、無駄な贅肉のないお腹、大きく膨らんだ胸元、くっきりと浮かび上がる鎖骨――は紗耶が着ようとしていた服ですぐに隠される。下着姿の紗耶を取り囲むものは床に散らかった雑誌と少女漫画、ジャージやこの前大滝高校に行ったときに他の女子生徒がはいているのを見た制服のスカートといった衣類だった。
「ご、ごめんっ!」
部屋の中の状況を一秒で確認した僕は、紗耶の声に弾かれるようにしてドアを勢いよく閉めた。紗耶の下着姿を見てしまったことが恥ずかしくて、ちょっと嬉しくて、でもこの後紗耶に柔道技でもかけられるのかなと思うと怖くて、僕はドアに背を向けてだらだらと汗を流しながら紗耶の準備が終わるのを待つしかなかった。
中でごそごそと何かをしまう音が鳴り止んだ時、紗耶が勢いよくドアを開けて飛び出して、僕と激突した。
「わっ!」
女子とはいえ紗耶は体育会系なので、もちろん僕は吹っ飛ばされて壁に激突。ぶつけた額を押さえながら振り向くと紗耶が顔を真っ赤にして、さっき着ようとしていたシャツに半袖のパーカー、ミニスカートをはいて、仁王立ちで僕のことを睨みつけていた。
「み、見た……?」
「は、はい……ごめんなさい……」
別に水着姿を見てるんだから下着くらい別にいいじゃんと思わなくもなかったけど、よくよく考えれば水着と下着は全く別物なので素直に謝ることにする。というか、謝らないと何をされるか――
「あっ、謝んないでよ! よ、余計意味わかんなくなるし!」
謝んないでよ、なんて言う方意味がわからないんだけど、そこは余計なことは言わずに、黙って頷いておいた。
「は、入っていいよ……」
赤い顔のまま紗耶が僕を部屋の中へ招き入れる。
「し、失礼しまーす……」
何となくかしこまって中に入ると、さっきちらっと見た雑然さは跡形もなく消えていて、女の子らしいピンク色のカーテンや、星型のクッション、ぬいぐるみなどが綺麗に並べられていた。でも僕はその綺麗になった部屋のロジックがわかってしまった。奥のクローゼットから何か布の様なものが覗いている。おそらくあの中に部屋に出ていたものを全て詰め込んだのだろう。
「……紗耶ってもしかして掃除苦手?」
露骨にギクッとした表情を見せた紗耶は、それでもしれっと言いきった。
「いつもこんな感じだよ?」
そりゃ、僕が来たときはいつもこんな感じだけど……まぁ、いいか。
「そ、それよりさっそくゲームしよっ。格ゲーなんて女の子じゃ滅多にやる人いないから拓か圭太が来ないと出来ないし……」
紗耶はテレビの前に移動してその下から一世代前のゲーム機をとりだした。今の時代、ネットが繋がっていれば世界中の人と対戦出来る格ゲーもあるけど、このハードじゃそれは無理そうだ。だからこうして圭太や僕が紗耶の相手を今までにも幾度となくしてきた。
「なら、圭太も呼べばよかったのに」
紗耶がパッケージから取り出したのは最大四人まで対戦できる格ゲーだ。もちろん二人でも出来るけど、人数が多い方が楽しい。
「圭太は部活。ていうか……その……拓と……」
二人きりがよかったし。なんて言われて、僕はまた顔を赤くする。そうだ、好きな人を家に呼ぶのに何でわざわざ他の男も呼ばなくちゃいけないんだ? 言う前に気付けばよかった。というか、今まで僕と一緒に圭太や夏が招かれていたのはカモフラージュ的な意味だったんだろう。それにも今気がつく。
「あー……ごめん……」
「い、いいよ別に。と、とにかく早くやろ?」
紗耶がコントローラーを僕に押し付ける。
「わ、わかった」
妙によそよそしくなっている僕は、コントローラーを受け取る瞬間に紗耶の手が触れただけで飛び上がりそうになってしまった。さすがに自分のことを好きと言ってくれる女の子と部屋で二人きりっていうのは、意識してしまってからは初めてなのでなんかむずかゆい。なので、こんな小さなことでもいちいち反応してしまう。
テレビを点けて、ゲーム機の三色コードと黒いケーブルをつなぐと古き良き2Dタイプの格ゲーのタイトルが浮かび上がる。紗耶がモードを対戦にするとキャラクター選択画面に移行した。
「拓はどれ使う?」
「そうだな……じゃバランスタイプのこいつで」
「おっ、そう来たか。それじゃあたしはスピードタイプのこいつで」
僕が選んだのはパワー、ディフェンス、スピード、どれをとっても標準なプロレスラーみたいな恰好をしたマッチョな男で、紗耶が選んだのはチャイナドレスを着たパワーが平均以下の代わりにスピードとコンボ重視の女性キャラだった。一撃は弱いけど、コンボに持ち込まれると厄介だ。
「じゃ、いくよー。三本勝負で負けたら罰ゲームね」
「えっ! 何それ?」
「相手の言うことを何でも聞く。はい、決定っ!」
「え、嘘、本当に?」
「当たり前じゃん! ほら、始まるよ。せーの!」
紗耶のかけ声とともにスタートボタンが押される。スリーカウントが数えられ「GO!」の文字が躍った。
始まった瞬間、僕はガードを実行。そのよみは外れることなくチャイナドレスを着た女性はダッシュからのドロップキックを繰り出してきた。
「っ! よまれたか!」
「紗耶の攻撃パターンは大体分かるよ」
ドロップキックの崩れた態勢を直すと、チャイナドレスの女性はそのままひざ蹴りからの猛烈なコンボを打ちこんできた。けど、ガードしている僕のプロレスラー風の男には全くダメージが与えられていない。
「卑怯だよ! 攻撃してきてよ!」
「そういわれても……隙が出来たら攻撃するよ」
とか言っているうちに、チャイナドレスは隙の大きな踵落としをしてきた。僕のプロレスラーはその隙を見逃さず、チャイナドレスの女性をホールドすると、そのままジャーマンスープレックスでチャイナドレスを地面に叩きつける。HPバーが十分の一程度減る。
「あっ!」
「攻撃したよ?」
「今の卑怯でしょ!」
素早く距離をとったプロレスラーにチャイナドレスが追撃のドロップキックを浴びせる。もちろんその攻撃もよんでいる僕は難なくガードする。
コンボの終わりに隙が出来るのを知ってか、チャイナドレスはそのまま反動を利用して飛び退く。しかし、これもまた隙。プロレスラーは倒れ込むようにチャイナドレスに飛び付き、七連続頭突きという謎のコンボを叩きこむ。
「うわっ、ひっど、強姦だ強姦!」
そう見えなくもない状況で紗耶がそんなことを言うので、思わず動揺してしまう。
「ひ、人聞きの悪いこと言うなよ!」
反論しながらプロレスラーを飛び退かせる。そこに紗耶が突っ込んできて腹にパンチをしてプロレスラーを空高く舞い上げ、空中で回転しながら連続で蹴りを叩きこんだ。それなりにダメージを食らうけど、地面に着く前に技を使いきった無防備なチャイナドレスの脚をプロレスラーは掴み、着地と同時に壁際まで投げ飛ばした。チャイナドレスのHPバーはこれで赤くなり、しばらくお互いの散発的な攻撃が続いた後、チャイナドレスは妙に艶めかしく地面にへたり込んだ。
「わー! 負けた!」
「よっし勝った」
思わずガッツポーズをする僕。その横で紗耶がコントローラを放り投げてかなり悔しがっている。
「まっ、久しぶりにやったしね。練習練習」
「そういって油断してるとまた僕が勝っちゃうよ?」
「むっ、そんなこというなら次は本気で行くからね」
紗耶が宣言すると同時に第二ラウンドを開始した。
今度の紗耶は慎重で、自分から攻めに行くようなことはしなかった。これでは埒が明かないということで僕の方が突っ込みにいくと、狙っていたかのようにプロレスラーが掴みかかる瞬間しゃがんで足払い、そのまま連続コンボを叩きこまれて、HPバーは一気に三分の一も減ってしまう。
「このっ……!」
いらだった僕はまたしても馬鹿の一つ覚えのようにプロレスラーを突っ込ませ、チャイナドレスに軽くあしらわれるようにコンボを決められ、大技を受けてそのまま相手に少しもダメージを与えることもなく背中から地面に倒れ込んだ。
「なっ!」
「これがあたしの本気だよ!」
秒殺されて唖然とする僕に、紗耶が堂々とピースサインをしてくる。正直ムカつくことこの上ない。
「くっそ! 最終ラウンドで絶対負かしてやる!」
「望むところだよっ! さっ、それじゃ次行くよ!」
最終ラウンドが始まった。
開始直後、紗耶が最初と同じようにドロップキックでチャイナドレスを突っ込ませた。僕は当然ガードするけど、チャイナドレスはプロレスラーに足が命中する一歩手前で地面に着地し、そのままプロレスラーを飛び越すようにジャンプし、ガードの効かない後ろからカンフー映画みたいなコンボを叩きこんできた。
「くっそ!」
コンボの途切れ目に素早く飛びのき次の攻撃を回避、その距離を詰めるように打ってきたドロップキックを完璧なタイミングでプロレスラーが受けとめる。そのままジャイアントスイングで相手を壁まで吹っ飛ばす。距離が離れたのでプロレスラーは再びガードを実行、しかしチャイナドレスは追撃のドロップキックを打ってくることはなかった。HPバーは互いに黄色のゾーンまで突入している。おそらく次にコンボを決めた方が勝ちになるだろう。
「かかってきなよ!」
「拓の安い挑発には乗らないっての!」
しかし、言葉に反してチャイナドレスはプロレスラーに向かってダッシュで突っ込んできた。僕はタイミング良くボタンを押して、ドロップキックの勢いを相殺するように前に倒れ込みながらチャイナドレスからマウントポジションをとる。
「あっ! 拓が胸揉んでる!」
確かに地面にチャイナドレスを押さえつけている様子は胸を揉んでいるようにも……見えなくもない。いや、多分見えないはず。
「揉んでないよ! でもこれで決まりだね! このまま一気に――」
「胸揉んでそのまま一気に何するつもりなの拓君?」
背筋が凍りついた。振り向くと紗耶の母親がいた。
「隙ありっ!」
紗耶が叫ぶと同時にプロレスラーをふっ飛ばし、そのままコンボを決めて勝利。もちろん僕はその瞬間を見ていなかった。
「やったー! 勝ったー!」
「あ、ちょ、おばさん!」
「あら、やだ。ゲームだったのね」
「白々しいですよ! 負けたら罰ゲームの勝負だったんですよ!」
「でも紗耶は私のこと気がついていたわよ?」
「はぁ?」
驚愕の事実発覚。
「そうだよ拓。お母さん第二ラウンド始まるときにはこの部屋に居たよ?」
「なら僕にも教えてよ! 二人ともグルですか!」
もう意味がわからない。けど、取り乱す僕に二人とも取り合わずに紗耶の母親はオレンジジュースが入ったコップを二つ置くと、そそくさと立ち去ろうとする。
「僕のこと無視ですか!」
悲痛に叫ぶ僕をまたあからさまに無視する。
「あっ、紗耶私これから買い物行ってくるから。夕ご飯なにがいい?」
「んーっと、それじゃカニタマで!」
「わかったわ。それじゃ拓君ごゆっくり」
にっこり笑いかけられて反撃の余地もなく撃沈。二人とも絶対にグルだった。この勝負は僕が絶対に勝てないように仕組まれていたんだ!
「ずるい……」
「男なら文句言わない。ほら、罰ゲーム♪ 罰ゲーム♪」
「あぁ、もう! わかったよ! 何でも言うこと聞けばいんでしょ?」
何でもどうぞ、と投げやりに言うと紗耶は僕の目を至近距離で覗きこんだ。
「告白の返事、教えて」
再び凍りつく僕。しかし、さっき紗耶の母親が現れた時と同じような恐怖心からではない。多分僕が今日紗耶の家に呼び出されたのは、やはりこの為だったのだと認識したからだ。
「もう一週間も待ったし……そろそろ答えも出てるよね?」
「あ、いや……」
「ねぇ……教えてよ……」
紗耶に詰め寄られてそのまま後ずさり。ベッドに背中があたり、これ以上後ろへ下がれなくなると、紗耶の顔が目の前に迫ってきた。
「拓……」
お互いの息遣いが感じられる距離に顔と顔がある。恥ずかしくて、目をそらしたいのにそらせなくて、そのまましばらく見つめ合った。
「紗耶……よく聞いて」
僕は紗耶の肩に手を置いて、距離をとった。このままの状態で話しをするのはさすがに無理だった。
「僕はまだ夏とこれからどうしたいのか結論が出てない……僕は昔から夏のことが好きだった。けど夏が事故で死んでから……僕は夏が好きだった気持ちを忘れてた」
「ならあたしと――」
「でも、このまえ紗耶に告白された時、紗耶が僕のこと好きだったんだって気付いて、それで思い出したんだよ。夏が好きだって」
紗耶の表情がみるみるしぼんでいく。僕はそれに気付かないふりをしてそのまま話を続けた。
「夏が好きっていう気持ちを今のロボットの夏に向けていいのか……僕はまだわからない。だから返事はまだ待ってほしんだ」
「……待つってどのくらい?」
「……わからない」
紗耶が僕から離れた。紗耶のことを傷つけたかもしれない。でも仕方なかった。夏のことが好きな自分はどうしようもなく今ここに居て、夏を探し続けているのだから。
「あたし……魅力ないかな……?」
不意に紗耶が口を開く。
「い、いや、そんなことないと思うけど……」
「それじゃ……」
僕は紗耶に押し倒されて、そのまま唇を押しつけられた。押し付けられた唇が離れると、紗耶の桜色の唇は僕の右耳へと移動した。
「あたしの魅力……感じてよ。告白の返事はそれからでいいから……」
耳元で甘い吐息と共に囁かれる。僕は胸が苦しくなった。
「ちょ! え! はぁ?」
突然の事態に告白された時の何倍も気が動転する。これってあれだよね? キス以上の何かをされる一歩手前だよね? 紗耶の方から攻めてるんですけど? に、肉食系ですか? そうなんですか?
「あたしじゃ嫌?」
「い、いや、そんなことないけどさ……でも駄目でしょ?」
落ちつけ落ち着けと心の中で何回も繰り返しながら、なんとかやんわりと拒否。
「何が?」
「そ、その……まだ付き合ってもないし……」
「別にいいじゃんそんなの。これから付き合うんだし」
紗耶が僕に見せつけるようにしてパーカーを脱ぎ始める。その下にはシャツを着ている。別に下着や、裸が見えてるわけじゃないのにファスナーが降りるたびに鼓動がどんどん早くなっていく。
もうこのままでもいいかもしれない。そう思った。別にいいじゃん。紗耶ってボーイッシュだけど結構かわいいし、胸も大きいし、このままやれるところまでやっちゃえば。本気でそう思った。
けど、そんな僕の軽率な行動を止めてくれたのは僕自身でも、紗耶でもなく、夏だった。
(ほんとっ? わたしこのぼうしずっとだいじにするね!)
幼いころの夏が僕に笑いかけたあの場面が、何の前触れもなく脳裏に浮かぶ。その瞬間、僕は紗耶のことを突き飛ばすようにして、立ち上がった。
「ごめん」
短くそれだけ言い残して、僕は逃げ出した。今度こそ本当に紗耶のことを傷つけたと思う。けど、そんなことよりも今の僕には夏が好きという気持ちが大切だった。
家までの短い距離を全速力で走る。走るたびに目から熱いものがぽろぽろこぼれてきて、額から流れ出た汗と混じって風にのせられて飛んで行った。
(なっちゃん……なっちゃん……)
心の中で繰り返し夏のことを呼び続けた。でも、どんなに叫んだって、昔の夏はもういない。今この村にいるのはロボットという不完全な夏だけだ。そんな夏に僕は二度と会わないでとまで言われているのに、夏への想いばかりが爆発しそうなほど溢れて、涙となって流れてくる。
家に入ると祖母にただいまも言わないまま部屋に向かって、ベッドに飛び込んで、布団を頭から被って目を瞑った。
どんな夏でもいいから、今はただ会いたかった。
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