第11話 好き

 祖母には素直に紗耶に会いに行くと言って家を出た。もちろんなにも用がないのに呼び出されたから会いに行くなんて不自然なので「貸していたマンガを返してもらう」とか、なんとか適当に言っておいた。祖母はそれほど気にしなかったようで、テレビで十時枠のドラマを興味なさそうに見つめていた。

 玄関を開けると、門の横の塀から紗耶の頭が兎のように飛び出した。


「にゃはははっ! きちゃった」


 紗耶はおどけたように笑って見せる。


「で、なんの用? 僕今日は疲れたから早く寝たいんだけど?」

「そうなの? でもここじゃなんだからちょっと歩こ?」


 紗耶が再び塀の向こうに消えたので、僕もそれを追って人通りも街灯もほとんどない道を歩き始めた。


「夜の散歩ってなんだかロマンチックじゃない?」


 室川に架かる橋のあたりまで来た時、ようやく紗耶が静寂を破って僕に話しかけた。


「そう? 街灯もたいしてないけど?」

「もう、ロマンチックってそういう意味じゃなくてそのシチュエーションがってこと。星が煌めく夜に散歩なんてなんか大人っぽいし」

「紗耶の口からは出そうにもない言葉が出てきてるよ……」


 ロマンチックなんて、正直紗耶には似合わない。


「あたしがロマンチックとか言うことに文句あるの?」

「いや、別に」


 ロマンチックとかシチュエーション云々はともかくとして大滝村の夜は街灯が少ない代わりに星がたくさん見えた。東京で星を、特に夏に星を見ようと思えばせいぜい十個程度見つけるのが限界だけど、大滝村は多分その何十倍もの星が見えている。もしかしたらあの星が固まっている辺りは天の川かもしれない。人工の光が多すぎる上に、排気ガスやらなんやらで汚れた東京の空じゃありえない夜空だ。


「まぁ、それはいいんだけど。それより話があるんだよねー……」


 室川に架かるちっぽけな橋の真ん中あたりで紗耶が立ち止り、僕に振り返りながら微笑む。


「話? もしかして夏のこと?」


 つい何時間か前に夏に会ったばっかりで、しかもあんなことを言われてしまったので僕の頭の中は夏のことでいっぱいだった。その結果口からそんな言葉がこぼれ落ちてしまったけど、それを聞いて紗耶は露骨に嫌そうな顔をした。


「なんで私が夏のことでわざわざ夜の十時に拓のこと呼び出さなくちゃいけないの?」

「え、あ、ごめん。それじゃなに?」


 夏のことで頭の中がいっぱいだったことを悟られたくなくて、僕は慌てて笑顔を作った。

 夏特有の生ぬるい、湿気を含んだ風が僕と紗耶の間二メールくらいを通り過ぎていく。その風に掻き消されそうな声で紗耶が小さく告げた。


「好き」


 たった一言。たった二文字のありふれた言葉。だけど、僕はそれがどんな意味を持って僕に向けられているものかわかってしまい、頬が熱くなるのを感じた。


「あ、あのね……ずっと好きだったの。幼稚園の頃から……拓が初めてこの村に来た時からずっと、ずっと好きだったの。でも、今までずっと言えなくて……」


「い、いや、あ、あの……」


 混乱と恥ずかしさ、それに女の子に告白されたといううれしさでごちゃまぜ状態の僕は、何を言ったらいいのかわからずしどろもどろするだけだった。

 お互いに顔を伏せたまま時間だけが流れた。虫の鳴く声も、風の吹く音もしない静かな夜。怪物の様な何かが僕らの間に挟まってなかなか出て行ってくれなかった。

 また生ぬるい風が吹いた。沈黙に耐えかねたように紗耶が僕の顔を覗く。


「だめ……?」

「いや、駄目とかそういうわけじゃ……」

「それじゃ――」

「でも、まだなっちゃんのこととか色々あるし、もう少し落ち着いてから……それから返事したいんだけど……」


 長い沈黙の間に気持ちの整理や、紗耶に対する返事の内容がしっかりと考えられたのでなんとかさっきみたいに噛まずに言いきることが出来た。


「保留ってこと?」

「……そうだね」

「やっぱり拓はまだ夏のことが好きなの?」


 紗耶は突然核心を突くようなことを言った。


 僕は自分の体温が下がるのを感じた。夏のこと好きなの? そんなこと聞いてほしくなかった。けど、どんな時でも苦笑いは出来るからそうしながら、


「どうだろ?」


 なんて軽くごまかしてしまう。


「そっか……わかった。あたしの気持ちも伝えたし、今日は十分だよね?」


 誰に問うわけでもなく紗耶が空を見上げ首をかしげてみせる。


「帰ろっか?」


 紗耶が来た道を、ここまで来る時よりほんの少しだけ軽やかな足取りで辿って行く。僕は紗耶が軽くなった分の重さを背負って来た道を戻る。

 夏のことまだ好きなの? 紗耶に問われたときに僕はあの気持ちを思い出してしまった。一年前まで確かにあった、暖かくて淡い痛みを伴う感情。なにセンチメンタルになっているんだと、心の中の冷静などこかあきらめてしまった部分は僕自身を馬鹿にするけど、その感情を元に燃えあがっていた炎は、まだ心の隅で燻ぶっていた。


×   ×   ×   ×   ×


 記憶の底で、小さい頃の僕と夏が駅の前で向かいあっていた。空の色は赤く、夕暮れ時なのを僕に教えた。


(はい、なっちゃんにあげる)

(えっ? もらってもいいの?)

(もちろん! なっちゃんのためにかってきたんだもん)


 僕はその当時にしては夏の頭にも僕の頭にも大きすぎる、赤いリボンがついた麦わら帽子を渡した。


(ありがとっ! かぶってもいい?)

(いいよ)


 小さい僕が言うと、夏はおどおどと恥ずかしそうに大きな帽子を被った。


(に、にあうかな?)

(うんっ! すっごくかわいいよ!)


 本当はブカブカだったけど、僕は自分の選んだプレゼントを夏が身につけてくれたという事実がうれしくて笑顔でそう告げた。


(ほんとっ? わたしこのぼうしずっとだいじにするね!)


 夏が満面の笑みを僕に向けた。夏が大人になってもその帽子を被ってもらえるように母親にわがままを言って大きいのを買ってもらったんだっけ? 母親は最後まで「どうせ大人になるまで被ってもらえるわけがない」と言っていたけど、小さい頃の僕は何の根拠もなく夏が大人になるまでそれを被ってくれると信じていて、だから夏のこの言葉がとてつもなくうれしかった。

 多分その時だ。僕が夏のことを好きになったのは。



 家に帰った僕はお風呂に入った後、髪が乾くのを待たずに部屋を暗くしてベッドにもぐりこんだ。


(やっぱり拓はまだ夏のことが好きなの?)


 頭の中でうるさいくらいに紗耶の声が響く。


「好きに決まってるじゃん……」


 握りしめた拳を枕に叩きつける。夏のことが好きという気持ちが、紗耶のせいじゃないけど、あの告白が引き金になって甦ってきた。

 思い出すのはなんとなく恥ずかしいけど、僕は本当に夏のことが好きだった。どれくらい好きとか、そういう尺度で表せないくらい好きだった。年に二回か、三回、一緒にいられる時間は長い休みの間しかなかったけどその気持ちは年々増していった。圭太と相談して告白だってしようとした。でも、夏に嫌われてしまったら世界が終わってしまう気がして、結局怖くてできなかった。それでもただ純粋に夏のことが好きだった。

 けど、その思いは夏が事故で亡くなったことで、信じられないほど綺麗に消えていった。その気持ちが溢れるほど入っていた場所にはぽっかりと大穴があき、その穴には代わりに悲しみだけが流れ込んできて、ほんの少しだけ残っていた「好き」という気持ちを奥深くに埋めてしまっていた。

 それを僕は思い出してしまった。


「だけど……どうする?」


 夏はロボットとして生き返ってしまった。

 この気持ちは夏に向けたものだ。それは間違っていない。けど、今の夏はロボットだ。それならこれが行きつく場所はどこなのだろう?

 やっと二人が言っていたことが理解できた。紗耶は夏のことをロボットとして認識してしまえば元には戻れないと、圭太も夏は夏じゃない、ロボットだって言っていたけど……それが僕にもようやくわかった。わからされてしまった。


「今の夏は夏じゃないのかな……?」


 脳が元の夏なら、今の夏は夏と呼べるのか、それとも体が違えば夏はもう夏じゃないのか。それなら夏をこの気持ちはどうすればいいのか。

 急に今の夏が誰なのかわからなくなった。多分紗耶はこれがわかるのが嫌で夏にはもう会わないと、圭太はこれがわかっていたから夏にもう会わないと主張している。僕みたいにただ単純に夏に会えてうれしいから、夏が戻ってきたなら四人でもう一度元の関係に戻りたいからなんて、安直な理由でこれからの夏との接し方を考えなかったはずだ。

 急に自分がいかに馬鹿で、愚か者なのか知らされた気になって、その晩は紗耶の告白のことなんてすっかり忘れて一人で朝が来るまで悩み続けた。

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