第3話 再開2

 幼馴染の一人である桐峰紗耶から電話がきたのはご飯を食べてお風呂に入り、半分程度済ませた荷物の片づけを寝る前に終わらせてしまおうと考え始めた時のことだった。


『もしもし拓? ひっさしぶり! 元気にしてた?』

「元気だったよ。そっちは?」

『特に変わりなく。今日も元気にジュウドーで汗流してきたよ!』


 そう言って電話の向こうで元気そうに笑う紗耶は、夏とは正反対の性格の持ち主で柔道に打ち込むスポーツ女子だ。話し声を聞いていたらバッサリ切られたショートカットに一分一秒もおとなしく出来ない活発な紗耶の姿が浮かんできた。

 紗耶は僕が幼い頃この家に遊びに来て初めてできた友達――幼馴染で、家が近いということもあり夏や圭太と出会う前から二人でセミを追いかけたり、冬はそりをしたり雪だるまを作ったりしてよく遊んでいた。この村に住む幼馴染の中だと一番古い仲だ。


「柔道頑張ってるんだね。大会とか出たりしてるの?」

『そりゃもちろん! でもね団体戦だとあたし一人が頑張ってもなかなか勝てないから成績はいまいちってところかな?』

「へぇー、あんなに強い紗耶でも勝てなかったりするんだ」

『あたしは勝つんだよ? でも他の子がひ弱でさ、体が細いし背は低いしで体格的に他の高校の女の子に負けちゃうんだよね。あっ! でもみんな胸は大きいんだよ! もちろんあたしもね! 胸の大きさなら他校に勝てるのに……』

「ははっ、そうですか……」


 いきなりそんな話題が出てきて僕はとりあえず笑うことしかできなかった。もうちょっと思春期の男子のことを気遣って欲しい。


『ねぇ、拓?』

「なに紗耶?」

『胸のサイズ知りたい?』

「えっ? なんで?」

『今あたしが胸って言ったら反応したから』

「い、いや? してないよ?」

『したって。どうする? 聞いとくだけ聞いとく?』


 ……いや、本気じゃないよね? あれだよね、僕のことをからかおうっていうあれだよね? でも頭の中では去年の夏、四人で川に泳ぎに行った時のことが思い出されていて、そのとき紗耶が着ていた水着の胸部は確か夏よりも大きくて――


『どうする?』

「ど、どうするってなにを?」

『早く聞きたいかどうか決めてよ……もういいや、教えてあげる、あたしの――』

「いやいやいやいや! や、やっぱりやめとこうよ。ね? 僕今日引っ越してきたばかりなのにそう言うの聞かされたら寝る前どうなるかわからないし――」

『冗談だよ?』

「へっ?」


 素っ頓狂な声をあげた僕に対し、紗耶は電話の向こうで大笑いを始めた。


『冗談に決まってるじゃん! にゃはははっ! 拓のばか、ばーか!』

「なっ! だって紗耶が割と真剣な声で言うから……」


 紗耶にはこうして人をからかう癖がある。特に僕は幼馴染の中では一番狙われている。


『言うわけないじゃんそんなの。でも、これで拓がそういうことに興味あるってわかったからいいか』

「っ……!」


 返す言葉がない。


『あーあ、圭太は拓と違って真面目に部活やって勉強もすごい頑張ってるのに。拓ときたら東京でそんなことばっかり考えてたのか!』


 もう一人の幼馴染の圭太のことを引き合いに出して、あからさまな溜息をつかれる。


「ち、違うって。大体それじゃ東京にいる人全員がそういうことになっちゃうじゃん!」

『うるさい変態。拓の馬鹿ッ! ばーか! 一生そういうこと考えてろ!』


 あぁ、どうして同じ「馬鹿」一つでも紗耶には夏の様なかわいさがないんだろうと少々考え込んでしまう僕。


「それより明日なんかやるんでしょ? どうするの?」

『あー歓迎会? やるよ、やるやる。いつもの川辺でバーベキューして遊ぶ感じね。あと花火もやるかー……圭太にはほぼ毎日学校で会うけど夏と拓には全然会ってなかったから楽しみだな!』


 どうやら夏は本当にロボットになってから一度も紗耶や圭太に会いに行ってないらしい。一番仲がいんだから最初に会いに行こうとは思わなかったのだろうか?


『とりあえず拓は明日十一時にあたしの家に来て。スーパーで食材買ってからいくから。圭太は午前中部活だから後から来てもらって、夏には石国で炭買ってくるように頼んであるから』


 石国地区は僕が今日ここの村に来るときに利用した大滝村駅がある町の名前で、そこに東京ではまずお目にかかれないであろう燃料屋と呼ばれるお店があり、ストーブなどの古典的な暖房器具と一緒に炭も売っている。去年四人でバーベキューしたときもここで炭を買ったけ?


「うん、わかった。十一時に紗耶の家ね」

『水着、忘れないでね。じゃ』


 ツーツー。電話が切れた。スマホの画面はアプリが並んだメニュー画面に素早く戻る。


(バーベキューか、大丈夫かな?)


 こうして四人で川に遊びに行くこと自体は、夏休みを利用してこちらに来た僕に対して三人がしてくれる通例みたいなものだけど……今回はそれもちょっと違う。夏はロボットだし紗耶と圭太の二人は夏と一年以上、夏がロボットとして動けるようになってから一カ月もの間会話をしていないらしい。

 それなのに今まで通り四人で遊ぶなんて出来るのだろうか?

 不安ばかりが頭の中を埋め尽くしたがこれ以上考えても仕方ないので、残りの荷物の整理を終えた僕は疲れもあって早々に寝てしまった。東京に居た頃は日付が変わる頃までだらだらとテレビを見ていたが、それもテレビがないこの部屋では出来ることではない。

 その日の夜は、まだ幼い僕たちが村中を駆け回って遊んでいた夢を見ながら深い眠りについた。



 翌朝、私服に着替えた僕は水着と財布を入れたバックを持って紗耶の家に向かった。紗耶の家はここから歩いて五分ほど。これで家がお隣といえるのだから田舎は広いとつくづく感じる。

 一本道の先にある紗耶の家はここからでも見えるのに、歩いても歩いてもなかなか辿り着かない。そうしているうちに強い陽射しは僕の背中を容赦なく突き刺し、汗を流させる。その汗がTシャツに吸い込まれるたびに不快指数が跳ね上がる。

 東京よりましとはいえ炎天下の中を五分も歩いた僕は、紗耶の家に着いた時にはだいぶへばっていた。


「おーっす!」

 家の前で紗耶がノースリーブのシャツの間から覗く綺麗な白い腕を振りながら、僕のことを迎えた。


「おはよう紗耶」

「おはよっ。それじゃ行こっか?」

「うん、でも紗耶は自転車なの? 僕歩きなんだけど……」


 着いた時から気になっていたことだけど、紗耶の傍らには自転車があった。もしこれで紗耶が自転車を普通にこぐなら――歩きの僕はどうなる?


「何言ってんの? 二人乗りにきまってるじゃん!」

「えっ? 二人乗り?」


 いや、確かに自転車に荷台はついてるけど……


「ちなみに僕がこくんだよね?」

「当たり前じゃん! 女の子にこがせる気なの? ほら、早く!」


 言うが早いか紗耶は自転車の荷台に腰を下ろす。

 でもどうなんだろう、これ。女子と自転車二人乗りってなんか……普通に恥ずかしいっていうかなんというか……色々まずいんじゃ?

 でも紗耶がしつこく催促してくるで、結局僕はサドルに座って自転車をこぎ始めることにした。


「行くよ」

「いいよー」


 地面を蹴って走り出す直前、紗耶の手が腰にまわされて思わず飛び上がりそうになった。柔道をやっていることを知っていたからか、回された手があまりにも細いことに驚きを隠せない。

 Tシャツ一枚分の壁を通して伝わる紗耶の体温は太陽の熱とは違い心地いいものだった。けど、それに自分が少し喜んでいることを悟られたくなくて、僕は無言で自転車をこぎ続ける。


「あー楽ちん楽ちん! 拓が日陰になって涼しいし」

「ぼ、僕は全然楽じゃないけど?」


 若干息を乱しながら紗耶に返事をする。


「楽ちん楽ちん楽ちん楽ちんー!」

「……わかったから少し黙って」


 夏の日差しは容赦なく照り続ける。このまま陽射しの下にいたら照り焼きになりそうだ。

 僕たちは昨日紗耶が言った通り、まずバーベキューに使う食材を買いに行くことにした。二山地区から新田地区へ室川という川に架かる橋を渡って二十分、そこに村唯一のスーパーがある。


「ねぇ、拓」

「なに? 熱くて死にそうだから手短にお願い」

「……拓にこうして自転車こいでもらうの初めてだなーって思って」

「どうしたの急に?」

「いや、別に。それに男子が漕ぐ自転車に乗るのも初めてなんだよねー」

「そ、そう」


 それはいったいどういう意味だろう?


「やっぱりさ、拓は気にしたりするの?」

「なにを?」

「胸が当たってる、とか?」


 吹きだしかけた僕はハンドルを握る手がおざなりになり、危うく畑に突っ込みそうになった。


「危ないなー」


 紗耶が後ろで悠長に呟く。


「危ないなーじゃないよ! な、何言ってんだよ!」

「にゃはははっ! 拓ったら動揺し過ぎ」

「暑い中必死で自転車こいでるんだから少しはこっちのことも考えてよ!」

「じゃ、拓のこといたわって――少しだけ……」

「っ……! だからどうしてそうなるんだよ!」

「まぁまぁ、落ち着いて」

「落ち着けないよ! さっきから僕のからかって――」

「からかってないよ。ほら」


 僕の言葉を遮って、紗耶は僕の腰に回す腕に力を込めた。当然、僕と紗耶は密着して、後ろから抱きつかれるような格好になる。今まで背中に触れることのなかった柔らかい部分は肩甲骨の下あたりに、そして紗耶の顔は右耳のすぐ後ろに感じられ――あぁ! 色々とまずいって! このまま自転車をこぐとまた畑に突っ込みそうになるので僕はブレーキをかける。


「けっこうドキドキしてるんだよ、あたし。男子と二人乗りって初めてだから……」


 耳元で話しかけられているせいで、柔らかい息使いが首筋を通って耳から頭蓋の中へ侵入し、脳の中を暴れまわる。


「冗談……やめてよ……」

「冗談じゃないよ? ほら」


 さらに強く抱きしめられて僕の頭の中は完全にフリーズした。いくら幼馴染とはいえ、後ろから女の子に抱きつかれたら、僕のような女子にあまり免疫のない男子は大抵こうなる。

 背中から伝わる鼓動は確かに早い。だけど、僕の鼓動もそれ以上に早く脈を打っているのでそれが普段よりも早いのかどうかはわからない。


「でもね、これも冗談だから」


 小悪魔的に囁いて、紗耶は僕からはなれた。


「はぁ?」

「冗談だって、にゃはははっ! まーた騙されてんの! 拓の馬鹿ッ、ばーか!」


 振り向いて紗耶の方を見る。紗耶はお腹を抱えて笑っていた。


「もうっ! なんなんだよ! 昨日の夜から冗談ばっかり!」

「いやなんか胸のネタが続いてたからここらで本当にやってみるのもいいかなって」

「いいかなって、ノリ軽すぎでしょ? 僕以外の男子にもこういうことやってんの?」


 割と本気で紗耶の私生活を心配した。


「するわけないじゃん。拓だけだよ」

「なんで僕だけ……」

「幼馴染だから。あと、圭太にも昔やったけど反応つまんなかった」

「圭太にまで何やってんだよ……」

「まぁ、それはともかく早く自転車こいで。スーパーでお肉が待ってるよ!」

「はいはい」


 僕は紗耶に押されるように自転車をこぎ出す。その時にはもう腰に腕は回されていなくて、別にわざわざ僕の腰を使わなくてもどこかにつかまる場所があるのだと知る。

 それじゃどうしてわざわざ腰に腕を回したりしたのか気になったけど、結局これも僕をからかう冗談の内に含まれていたのだろう。

 内心、昨日から冗談ばっかりの紗耶に少し怒っていたけど、さっき紗耶が「幼馴染だから」って言ってくれたことはちょっと嬉しかったし、幼馴染だからこういう悪戯したっていうことが、やっぱり僕たちは夏が死んでからも冗談が言い合える特別な仲だっていうことがわかった。それだけでいいんだろう。



 スーパーで焼き肉用の牛肉を三パック、焼きそばの三玉入りを二袋、焼きそばに使うカット野菜を一つと、焼き肉のたれ、それに二リットルのお茶と花火を買い、僕と紗耶はスーパーを後にした。

 もちろん買った食べ物は傷まないように紗耶が持ってきたクーラーボックスの中へ。中には保冷剤とバーベキューに必要な紙皿や割り箸、それに紗耶が使うであろう日焼け止めや制汗剤のスプレーが入っていた。


「なんで日焼け止めがクーラーボックスの中に入ってるの?」

「冷やした方が使ったとき気持ちいいじゃん」

「食べ物入れるんだよ? はい、自分のバックに入れて」

「細かいこと気にすんなー拓は」


 そんなこんなで荷物をまとめた僕らはそのまま新田地区を北上し龍天山方面へ。三国川の上流、あまり人が立ち入らない少し開けた川原が僕たちの目指す場所だ。

 標高五百メートル程の龍天山が近づくにつれて、景色は民家から果樹園中心のものに移り変わる。木にはまだ青いブドウやリンゴがたくさんついていて、陽を避けるように葉がそれを覆い隠していた。


「ね、ねぇ、紗耶……そろそろ傾斜がきつくなってきたんだけど?」

「えー、がんばってよ。男でしょ?」

「別に運動は苦手じゃないけど……この暑さとのツーパンチはきついって」


 山に近づくということは道が上り坂になって行くということである。足にかかる負荷は紗耶の家を出発したときの比じゃない。


「ほら、がんばれって。後ろから応援してるから!」

「なら少しだけ軽くなってくれ」

「なんか言った?」

「いや、別に」


 しかし、限界は訪れるものでそこから百メートルと進まないうちにダウン。自転車から降りて二人並んで河原を目指す。


「あっ、やばっ! もうこんな時間じゃん! 早くしないと圭太が来る前に準備終わんなくなっちゃう……」


 時刻は現在十二時前、川原につくのが後十分くらいだから石を囲って竈作って、炭に火をつけて――もろもろの準備が終わるのは簡単そうに見えて、それなりの時間がかかったりする。


「圭太は何時に来るの?」

「十二時半くらい。うーん……ギリギリかな? 少し早歩きでいこう」


 紗耶につられて歩く速度を速める。いつしか僕らの歩く道は上から木々が覆いかぶさるようになり、車も通れないほど細くなっていた。こんなところまでコンクリートの道路が通っているのはなぜだろうと毎年不思議に思う。

 日中にも関わらず薄暗い山道から次第に水の音が聞こえるようになる。山の中で大きなカーブを描く三国川が近づいてきている証拠だ。

 その音を合図に無意識のうちに顔を合わせた僕と紗耶は、そこからはほとんど競い合うように木々と木々の隙間、光りが差しこむ道の果てを目指した。そこを抜けると、手のひら大の大きさの石が広がる小さな川原に、僕らだけの専用バーベキュー場に到着だ。


「やっと着いたー!」


 紗耶が、夏なら絶対につまずくであろうごつごつと石が転がる河原を器用に走って、川まで一直線に駆け寄る。紗耶が水に手を入れて、右手で掬いあげ空へ投げると、雫が太陽の光を受けて信じられないほど綺麗に輝いた。


「はしゃぎすぎでしょ」


 苦笑しながら呟いて自転車を道が切れている場所に置く。鍵なんてかけなくても誰もとらないとは思うけど一応かけて、紗耶の荷物と自分の荷物、そしてクーラーボックスを持って川原へ。適当な場所に荷物を置いて、未だに水と格闘している紗耶を右手で陽射しを遮りながら見つめる。その姿は太陽よりも輝かしい。


「あっ……」


 紗耶がそう呟いたのが聞こえた気がした。その視線は川の下流に向けられている。

 その先に写るものを僕は追う――そこにいたのは夏だった。


「久しぶり、紗耶」


 今日の夏は白いワンピースを着ていた。ひざより丈が少し短めのワンピースから覗く白い足、開いた首元から覗く白い鎖骨――の様に見える何かがくっきりと浮き上がって覗いている。

 夏は少しだけ微笑むと紗耶に向かって歩き出した。やはり、人間だった頃と変わらず夏は石に足をとられて何度か転びそうになる。紗耶はどうしたらいいのかわからないという表情を僕に向けてきたけど、僕の視線は夏をとらえたまま動かなかったのでそれに反応することはできなかった。


「紗耶、綺麗になったね。一年前より全然大人っぽいよ」


 紗耶の目の前に立った夏が少し悲しげに顔を下に向ける。そうだ、夏はロボットなんだ。ロボットは無機物である以上成長なんてしない。だから、それが少しうらやましいのかもしれない。


「夏、一つだけお願いがあるの」


 再会の感動もなく、紗耶が言い放つ。


「なに?」

「ロボットだって証拠、見せて」


 僕は自分の胸に痛みが走るのを感じた。おそらく夏も同じ痛みを――いや、それ以上の痛みを感じている。

 ロボットという証拠を見せることは、自分が人間ではないと主張することになる。果たして夏はそんなことをするだろうか。


「……わかった」


 夏が小さく呟いたのが、なぜか川のせせらぎに掻き消されずに僕の耳に届く。夏がロボットの自分を紗耶に見せてしまうことに若干驚きつつも、僕はそれが見たくなくて夏という現実から目をそらし、下を向いて目を瞑った。でも、嫌でも塞ぐことのできない耳からは二人の会話が聞こえてくる。


「これが私のことを充電するための差し込み口」

「首の後ろについてるんだ」

「一度充電すれば十二時間は日常生活が出来るの。充電した電気をためるのは心臓代わりのリチウム電池、ケータイに使われているバッテリーと同じ」

「ふーん」

「この皮膚は耐水性の人工皮膚。感触は人間のものと変わらないけど、素材はタンパク質じゃなくて合成樹脂。表面には網みたいに疑似神経が張り巡らされているの」

「うん」

「目はカメラ、耳の奥には小型の集音マイクがついていて、これが見たもの、聴いたものを電気信号に変換して脳に伝えるの」

「……」

「髪の毛は私が生きていた時のものを複製して一週間に一度はつけかえてるの。毎日髪の毛洗って、手入れしても一週間しか持たないなんてちょっと残念だよね」

「……」

「あと食べ物は食べる必要がないから味覚も唾液もないの。でも嗅覚は――」

「もういいよ」


 紗耶が泣きそうな声で言った。


「ごめんね、追い詰めて。本当はあたしも夏の味方になってあげなくちゃいけなかった。夏が目を開けた時一番近くに居てあげなくちゃいけなかった。なのに……ごめん、ごめんね……」


 目を開けて夏と紗耶の方を見た。泣いている紗耶を夏が抱きしめているところだった、夏の方が紗耶よりも頭一つ分背が低いのに、腕を一生懸命伸ばしているその姿は、いつも何かを頑張っている、生きている頃の夏と同じだった。

 僕は二人の方へ静かに歩み寄った。だから、紗耶が夏から離れる直前に小さく囁いた声が運よく聞こえた。


「ありがと、夏。また会えてうれしいよ」


 紗耶が夏に言ったその言葉だけで、僕は全てが救われたような気がした。

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