35.……お姉ちゃん、って……ん……呼んで、いい?

 浴室に入ると、アモルは目を輝かせた様子でキョロキョロと辺りを見回した。

 さながら初めて銭湯に来た子どものような反応で、少し微笑ましい。


 風呂場にいるということは当然脱衣所で服を脱いできているので、私はもちろん、アモルの肌もあらわになっている。

 日に焼けたような褐色の肌だが、普段服で隠しているような箇所も同じ色をしているので、生まれつきそういう肌色なのだろう。

 ……一応言っておくけど、これがフィリアやシィナならともかく、私はロリコンではないので今回ばかりは別に興奮したりはしないぞ。


 どちらかというと、そんなことよりも彼女の肌に浮かぶ淫魔の証である紋様の方に目が行ってしまう。

 胸の辺りからお腹の少し下まで描かれた薄紫色のそれは、一種の芸術品のような美しさがある。

 思わず少し見入ってしまっていたが、アモルがこちらを見ているのに気がついて視線を外した。


「ねえ。これ、もう入っていいの……?」

「いや、入る前に先に体を洗って汚れを落とさないとね。こっちにおいで、アモル」


 私が手招きをすると、とてとてとついてくる。

 最初に会った頃の警戒心が嘘のように素直で、なんだかちょっと嬉しい気分だ。


「これはシャワーって言ってね。このレバーを引くとお湯が出るようになってるんだ」

「わっ……すごい。こんなの、仲間たちの話には出てこなかった」

「私の故郷にある道具を私なりに真似たものだから、ね」


 興味津々と言った目をしているアモルに、シャワーの使い方を説明する。

 当然のことながら構造は前世のそれとはまったく異なり、魔法に依存している。

 動力源は主に火と水の魔力石というもので、備えつけたレバーの位置でそれぞれの魔力石をどれだけ使うか――つまるところ温度を調整できるようにしてある。


 魔力石については、魔力で変質しただけの普通の石なので、市場を探せば適当に売っている。それに火と水の性質を自力で付与するだけで完成だ。

 難点は、出力に乏しく、使い捨て品であることだが、そのぶん安価なので王都から辺境の村に至るまで幅広くさまざまな用途で使われている。性質の付与を小遣い稼ぎにしている魔法使いも珍しくない。


 アモルは最初こそおっかなびっくりという感じでノズルに触れていたが、次第に慣れたようで、シャワーを浴びながら気持ちよさそうに目を細めた。


「思い、出した」

「うん?」


 手に持った石鹸をじっと見下ろしたアモルは唐突にそう漏らすと、私の方を向いた。


「お風呂入る時は、お互いの背中を洗うのが礼儀だって、仲間たちが言ってた」

「ああ、うん。仲の良い二人はそういうことしてるイメージがあるね」


 あれ、実際どうなんだろう。

 前世で読んだマンガとかゲームとかだとそういうシーンたまにあったけど、ぶっちゃけ現実でそういう場面があるかというと……うーん。

 親子とかならともかく、それ以外だとなんか普通に自分の体は自分で洗って浴槽に向かうイメージしかない。


「……やってみるかい?」

「……! うん……!」


 どことなく期待するような目でじっと見られては、付き合ってあげる以外の選択肢があるはずもない。

 とりあえず、順番的には先に私がアモルを、次にアモルが私の背中を洗うということになった。


 アモルの様子を確認しながら、痛くならないようにアモルの小さな背中をこすっていく。

 時折くすぐったそうに笑みをこぼすアモルは非常に可愛らしく、しかしそれでいて魅惑的だ。

 この辺りは、さすがは淫魔と言ったところだろうか。

 私が彼女と同年代か、あるいは彼女の体があと一回りほど成長していたなら、心を奪われていたであろうことは想像にかたくない。


 まあ私はロリコンではないので、可愛いなー、くらいしか思わないけど。


「次は、わたしの番」


 ただ背中を洗うだけでハプニングなど起きようはずもなく、無事にアモルの背を洗い流すと、アモルが気合を入れた様子で立ち上がった。

 さきほどとは逆に私が前に、アモルが私の後ろに座り、石鹸を泡立てる。


「……ちょっと待ってて、ね」

「……? うん」


 アモルは後ろでなにかをしているようで、肌をこするような音が聞こえていた。

 ちょっと不思議に思ったが、振り返ることはせず、おとなしく待つ。

 しばらくするとアモルは準備を終えたのか、ふにっ――と、私の背中に柔らかな感触が触れた。


 ……ん? ふに?


「んっ……」


 初めはただ、アモルの手のひらの感触だと思っていた。

 なにせ淫魔でありながらドワーフの血が色濃く出ているというアモルの体はとても幼く、そしてそのぶん柔らかい。

 しかし背中に押し当てられているそれは、手のひらの感触と呼ぶには、あまりにも柔らかすぎる気がした。


「ぁ……んんっ……はぁ……」


 次第に柔らかさの中に、なにやらツンとした小さな固さが混じってくる。

 それが動き、こすれるたびに、耳に届くアモルの声が、なぜか熱を帯びていく。

 ……指……うん。指の固さですよね? そうに違いない。


 待って。いやあの、待って。切実に待って。


 わかってるよ。わかってるんだよ。なにが起こってるかなんて。

 あれでしょ? アモルさん、自分の体に石鹸を使って、なだらかな丘さんをあれであれしてるんでしょ?


 え、なんでっ? なんでそうなったの?

 私、ちゃんとアモルの背中洗ったじゃん? 手本見せたじゃん。なんでそんなことしようって発想に至ったの?

 もしかしてこのやり方も昔の仲間が言ってたことを盗み聞きしたことだったり? いや絶対そうでしょ。


 り、理由はともかく……やばいぞ。

 この絵面は、いろいろとやばい……!

 というかすでに心臓バクバクでやばかった。羞恥で顔も真っ赤になっている自覚がある。


 ロリコンじゃないけど、ロリコンじゃないけども!

 それでも常識的に考えて、なんかいろいろとこれは倫理的にまずいのではないか!?


「……んぅ……!」


 と、とにかく! 今は全力で気づいてないふりをするんだ!


 そう……これはシュレディンガーの猫である!

 簡潔に説明するとシュレディンガーの猫とは、二つ以上の可能性が存在している事象に関して、誰かが観測しない限りどちらが事実かは確定しないという思考実験のことだ。


 そして私は後ろを見ていない……ならば! まだ事象は確定していないと言えるはずである!

 なだらかな丘さんが押しつけられているなんて、しょせんは私の妄想でしかない……だって実際に見たわけではないのだ。

 もしかしたら本当に手のひらの感触かもしれない。指の固さなのかもしれない……!

 私はその真実を絶対に観測しない! そうすることでこれは至って健全な、お互いの背中を手で洗っているという行為の可能性が存在し続けることになるのである!


 背中に当たっている感触はすべて手のものです! それ以外の何物でもありません! これはR18ではありません!

 私はその可能性にチェリーが好きな人の魂を賭ける!


「ふぁ……ん……はふぅ……」

「…………」

「……ね、ぇ……一つ……ん、聞きたいこと、あるの……」

「きき、聞きたいこと?」

「あなたの、こと……なんて呼べば、いい、の……?」


 なんでそれこのタイミングなの???

 いや、言われてみれば確かに「あなた」とか二人称ばかりで名前で呼ばれたことないなーってことは気づいたけど、なぜよりにもよって……。


「……はぁ、ぁ……」


 時折首筋に触れる熱い吐息に、ゾクゾクと言いようのない感覚が背筋から脳へと駆け上がる。


 こ、このまま黙ってたらダメだ! これ以上背中の感触に意識を向けてしまうと頭がおかしくなる!

 会話に、会話に意識を集中させるんだ……!


「な、なんて呼んでくれても大丈夫だよ。一応、フィリアにはお師匠さまって呼ばれてて、シィナにはハロちゃんって呼ばれてるけどね」

「じゃ、ぁ……ふ、ぁっ……かぶらない、呼び方が……いい」

「た、たとえば?」

「……お姉ちゃん、って……ん……呼んで、いい?」


 ドクンッ、と心臓が強く高鳴った気がした。


 お姉ちゃん。

 普段呼ばれるならなんてことのない、むしろ家族のような親しみを感じて嬉しいような、くすぐったい呼び方だ。


 だけどそれは私の中のアモルへの認識を、歳の離れた妹のようなものに置き換えるものでもあった。

 幼く無垢で、無邪気に甘えてくるような、そんなイメージだ。


 だからこそアンマッチだ。その無垢なはずの妹が、艶かしく私を呼んでいる声は。

 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と。

 無邪気であるべきなその呼び方に、隠せない熱が孕んでいる。

 親しみは背徳感に、無邪気さは底知れない誘惑へと。それはまるで複数のプログラムが重なって深刻なエラーへと変貌したかのように、無駄な回転を続けた思考回路が高熱でショートする。


 すぐそこにぶら下がっている、禁断の果実。

 手を伸ばせば届く位置にあるそれの匂いに、脳がクラクラと揺れ、徐々に正しい思考が奪われていく。


「だい……じょうぶ、だよ。その……呼び方、で」


 必死に理性を保って、返事をする。小さく呟くくらいが精一杯だった。

 その後はたたひたすら、痛いくらい早鐘を打つ心臓を落ちつかせることに努める。


「…………終わった……よ?」


 無心になるよう必死に自分の内側だけに感覚を向けていると、やがてそんな声が私の耳に届いて、ハッと意識が覚醒した。


「そ……そっか。あ、ありがとう、アモル」


 一向に後ろを見ようとしない私を不思議に思ったのか、私の顔を覗き込んできた彼女の頬は、少し前に見た時よりも色っぽく上気しているように見えたが、きっと気のせいに違いなかった。

 気づいてない。そう、私はなにも気づいてない。気づいてないのだ。気づいてないったら気づいてない。

 私の背中を洗う時にアモルがなにをしてたかなんて、私はなにも知らない!


 アモルは私がなぜ動揺しているかまではわからないらしく、小首を傾げている。

 ……どうやらアモルの価値観では、今の洗い方は複数ある洗い方の一種という程度の認識のようだった。


「じゃ、じゃあ、浴槽の方……入ろうか」

「うん……!」


 私がそう言うと、まるで何事もなかったかのように、彼女は無邪気に輝いた瞳を浴槽に向ける。

 いや何事もなかったかのようにというか、実際なかったけどね?


 ……淫魔だからなのか、アモルの常識は人類のそれと少々異なることが多々ある。

 少しずつ人類の常識を教えていかなきゃなと、湯船につかる前からすでにのぼせたように火照った顔を湯気で隠しながら、私は密かに決意を固めるのだった。

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