34.リカイデキナイ……

 あれからほんの数十分ほどでフィリアがやってきて、昼食ができたことを知らせてくれた。

 私以外の人物にはまだ警戒しているのだろう。それまでずっと寝ていた淫魔の少女も、フィリアが訪ねてきた際にはノック音でハッとしたように飛び起きて、フィリアが話している間も、終始私の背中に隠れたままだった。


「……フィリアが怖い?」


 私と淫魔の少女を食堂まで先導すると、フィリアはシィナを呼びに行った。

 だから今はこの場には私と淫魔の少女しかいない。

 私の問いかけに、淫魔の少女は少し逡巡した後、小さく首を横に振る。


「あなたが信頼してる人だって、わかるから……大丈夫」

「……そうか」


 隣に座る淫魔の少女の頭を軽く撫でる。

 少女の手はかすかに震えていたが、本人が大丈夫だと言うのなら気づかないふりをしてあげた方がいいだろう。


 それにしても……うーむむ、どーしたもんかなぁ……。

 正直なところ、私はフィリアなら淫魔の少女とも簡単に打ち解けてくれるのではないかと踏んでいた。

 なにせフィリアには、あのシィナともなんだかんだうまくやってくれている実績がある。

 たとえ淫魔の少女がフィリアを警戒していたのだとしても、フィリア自身が持つ優しい心根をもって、案外私なんかよりもすんなり仲良くなってしまうのではないか、と。そんな風に楽観視していた。

 しかしどうにも、現実はそううまくことは運ばないようだ。


 部屋に尋ねてきた時、それから食堂へ向かう最中の様子を見た限り、どうにもフィリア自身が淫魔の少女に対してあまり良い印象を抱いていないように思えた。

 例を上げるなら、いつものフィリアなら調子が悪く寝込んでいた相手には「大丈夫ですか?」と心配する声をかけていたはずだが、淫魔の少女には終始ノータッチを貫いていた。

 私に危害を加えた……という一点が、彼女の心にしこりを残してしまっているのだろう。


 もちろんフィリアのことだから、なにかしかたがない事情があったことも察してくれているだろうけれど……。


「うーむ……」


 普段のフィリアなら普通に仲良くなってくれたはずだし、あとでフィリアと二人で話をしないといけないかもしれないな。ちゃんと話し合えばフィリアならきっとわかってくれる。

 むしろ今一番厄介なのは、フィリアの方ではなく……。


「お師匠さま。シィナちゃん連れてきました」

「……ひっ!?」


 フィリアに連れられてやってきたシィナを見た途端、淫魔の少女は全身をビクッと跳ねさせると、全速力で席を立って私の後ろに隠れた。

 私の服の裾をシワが残りそうなくらい強く掴んで、可哀想なくらい小刻みに体を震わせている。


「む……(むぅ。やっぱり怯えられてる……しょうがないよね。あんなことしちゃった後なんだし……)」

「……み、見ない、で…………お、お願い……お願い、し、します……」

「……(うぐっ。そんな涙目で言わないでー……ここまで怯えられるのは久しぶりだなぁ。ハロちゃんに会う前を思い出すよー……)」


 はい……目下一番の問題はこれなの。

 どうすればいいのこれ。


 淫魔の少女から漏れる、怯え混じりの声。

 それによって紡がれる「お願いします」の言葉は、単なるお願いというよりも、圧倒的上位の存在に対する懇願の意味合いが強かった。


「…………(謝りたかったけど……今は、下手に話しかけない方がいいよね。全部わたしのせいだからしかたないけど……せっかく仲良くなれるかもしれないって思ったのに……うぅ)」


 シィナは初めこそ私の後ろに隠れた淫魔の少女をジーッと見つめていたが、やがて興味をなくしたようにプイッと視線を外す。

 それからなにも気にしていないかのような普段と変わらぬ足取りで自分の席へ足を向けた。


 フィリアと違って、シィナはいつも通りだな……。


 もとよりシィナには、血で血を洗うかのような過酷な世界を生き抜いてきたであろう凄惨な人生経験がある。

 まあ実際にシィナの口から聞いたことはないのだが、あの明らかに正気を失った血走ったヤバい目を見ればわかる。間違いない。

 そんな彼女にしてみれば、命のやり取りの後でその相手と食卓を囲むくらいは、どうってことない日常の一部程度に過ぎないのかもしれない。


 なんとなく、どことなく耳が垂れ下がって、あんまり元気がないようにも見えなくもなかったが……まあ気のせいだろう。シィナだし。


「……はぁ……は、ぁ……」


 ふと見てみれば、淫魔の少女は顔面蒼白で荒い息を吐き、多量の汗を流している。

 シィナのことがホントマジで死ぬほど怖いのだろう。というか実際少し前に死にかけた。

 きっと今、淫魔の少女の頭では剣を首に振るわれかけたあの時の光景と感覚が幾度もフラッシュバックしている。


 尋常ではない怯え具合だったものだから、さすがに見兼ねて、フィリアやシィナには見えないようなジェスチャーで「他の場所で食べる?」と聞いてみる。

 しかし淫魔の少女はふるふると頭を振って、静かに深呼吸を始めた。


 まだ体調が回復し切っているわけではないのだから無理はしてほしくなかったが、せっかくの頑張りを無下にもできない。


 最近はそこそこ慣れてきたにせよ、私だってシィナはまだちょっと、いやそこそこ……まあ、うん。かなり相当怖いしな……。

 たまにあの、まるで死んだ人間が目を見開いたまま笑ってるみたいなおぞましい笑顔でじーっと見られてることに気づくとぞわぞわって怖気が走る。

 ほんとヤバい目で笑い始めるのだ。

 いや、普通に笑ってくれることもたまに……稀に……片手で数えられるくらいならあるし、それは年相応に可愛らしいんだけど……。


 シィナへの恐怖の対処方法なんて私知らない。こればかりは私ではどうしようもなかった。


「……そういえば」


 フィリアはなにやら考え込む顔を伏せて、シィナは黙々と食べ進め、淫魔の少女はシィナの何気ない所作に時折ビクつきながら、ゆっくりと手を進めていた。

 今までにないくらい静かで、居心地も良いとは言いがたい時間の中、このままではいけないと思い直し、口を開く。


「私たちはこれから君をどう呼べばいいのかな」


 淫魔の少女に顔を向けて、そう問いかける。

 ただ、いまいち要領を得ない質問だったようだ。淫魔の少女は目を瞬かせる。


「どう……って?」

「君の話を聞いた限り、君には名前がないようだったから。これから一緒に暮らすんだ。いつまでも、君、だなんて他人行儀な呼び方はどうかなと思って」


 これは元々、呼び方を共通させるためにも全員が集まったら聞こうと思っていたことでもあった。

 淫魔の少女は少し過去を思い返すように虚空を見つめる。


「……仲間たちからは、出来損ないとか、役立たずとか、ゴミとか……呼ばれてた」

「…………」


 空気が一気に重くなったんですが……。

 いや、まあ、うん、そうか……そうなるかぁ……考えてみれば、当然と言えば当然だけど……。


 フィリアも驚いたように目を見開いて、あのシィナでさえ一瞬食事の手を止めている。

 私もどうにもいたたまれなくて、半ば無意識に伸びた手が淫魔の少女の頭を撫でていた。

 淫魔の少女は大人しく私を受け入れて、嬉しそうに頬を緩めている。


 ともかく、今この子が挙げた呼び名で呼ぶことは、さすがにはばかられる。

 そんなもので呼ぶくらいなら名無しの方がまだマシだ。


 どうしたものかと首をひねっていると、おずおずとフィリアが手を上げた。


「あの……お師匠さまがお名前を決めてあげるのはいかがでしょうか」

「ん。そうだね。この際、それがいいか」

「え……で、でも……」


 淫魔の少女はおろおろと、私の服の袖を掴んだ。


「わたし……一人前の淫魔じゃないから。名前、つけてもらうほどの価値なんて……」

「それは君が自分を知らないだけだよ。どんなに蔑まれ、虐げられても、人を思う心を忘れない。君の価値は、君のかつての仲間たちの目には最期まで映らなかったものだ」

「わたしの価値……?」

「それに私の名前も、昔、魔法を教わった師匠の子からもらったものだしね。その時、なんだかんだ思いつつも嬉しかったんだ」

「……」

「だから、いいかな。私に君の名前を決めさせてもらっても……」


 淫魔の少女は、最初こそ逡巡するように視線をさまよわせていたが、やがて私と目を合わせると、こくりと確かに頷いた。


「ありがとう。実はもう、いいんじゃないかって思ってる名前が一つあってね……」


 そこでちょっともったいぶってみると、淫魔の少女は続きを待ちわびるように私を上目で見つめる。

 さきほどまでそんな価値はないと卑下していたのに、いざその時になると期待を隠せないようだ。

 過去を語った時、本人はもう子どもじゃないなんて言っていたくせに、今の彼女の姿は見た目相応の可愛らしい少女だ。

 なんとなく、くすりと笑みがこぼれる。


「アモル、なんてどうかな」

「アモル……」

「愛、っていう意味だよ。ちょっと女の子っぽくないかもしれないけど……別の名前の方がいいかな」

「う、ううんっ! そんなことない! これがいい! アモルが、いい!」


 否定的になりかけた私に、淫魔の少女が席を立って食い気味に詰め寄る。

 控えめな今までとは打って変わった力強い主張に思わず頷くと、淫魔の少女は心の底からほっとしたように息をついて、すとんっと再びイスに腰を下ろした。

 それから胸の前に手を当てて、アモル、アモル、と繰り返し呟き始める。


「わたしは、アモル……わたしの名前……わたしだけの……」

「……気に入ってもらえたみたいでよかった」


 こんなに喜んでもらえると、こちらまで嬉しくなってくるというものだ。


 それからまた食事に戻ったが、淫魔の少女――アモルの機嫌がよくなったおかげで、フィリアへの苦手意識やシィナへの恐怖も相対的に低くなったのだろう。ほんの少しだけ空気が和らいだように感じた。

 とは言え、状況自体はほとんど変わっていないから、できる限り早急に手を打たないといけないことには変わりないが。


 まだ体調が悪いこともあり、アモルが食べる速度は非常に遅く、食べ終わる頃にはお風呂の湯を入れ終わっていた。

 入れ終わるというか、魔法でお湯をダバーッと投入するだけなのだが……。

 最近はこれを修行も兼ねてフィリアにやってもらっている。お湯の魔法は火の魔法と水の魔法を混合させなくてはいけないから、実はこれが案外難しいのだ。しかも人が心地よく温まれる温度への調整となると結構な高難易度である。

 ……まあ、フィリアは一週間もかからずできるようになったが……。

 しかも一日一回の挑戦なので、回数的には七回未満だ。フィリアを買ったのは胸が理由の九割のはずなのに、なんでこんなに魔法の才能が迸ってるんですかね……。


「お風呂……?」

「うん。ずっと雨につかってたわけだから体を温めた方がいいと思ってね。ちょっと早いけどフィリアに頼んで入れてもらった」

「それってあの、お金持ちの家にしかないっていう、あの?」

「うん。それで合ってるよ。着替えは私の服になるになるけど、いいかな。少し大きいと思うけど……」

「お、お師匠さまの服をですか……?」


 食いついたのはアモルではなく、フィリアだった。

 なぜフィリアが? と思いつつも、一応理由は答える。


「ああ。フィリアの服はいろいろとサイズが合わないだろうし、そうなると私かシィナになるけど……」

「……確かにお師匠さまかシィナちゃんなら、お師匠さまの方がいいかもですね」


 シィナは、現状アモルが一番怖がっている相手だ。シィナから借りるという一点だけでアモルに不安を抱かせかねない。

 フィリアも、はたから見ていてそれは気づいただろう。そうなるとやはり必然的に適任は私になる。


 ……なにやらフィリアが羨ましそうな顔をアモルに向けていたが、なにか羨む要素があっただろうか。

 まあフィリアがアモルに抱いてしまっている悪印象は後々どうにかするつもりなので、今は触れないでおこう。


「そういうわけだから、行っておいで。場所はこの食堂に来るまでのところにあったけど、覚えてる?」

「……うん」

「じゃあ安心だ。着替えは用意しておくし、時間は気にせずゆっくり浸かってていいからね」

「うん」

「……」

「……」


 うん、と肯定した割に、一切動こうとしない。

 不思議に思ったものの、とりあえずアモルの食器を片付けようと立ち上がると、アモルも席を立った。

 お風呂場へ向かうと思われた足はしかし、食器を持って台所へ向かう私の後ろをとてとてとついてくる。


「……えーっと……」

「……?」


 流し台に食器を置いて再び正面に向き直ると、アモルは「どうしたの?」と言わんばかりに、こてんと小首を傾げる。

 どうしたの? と聞きたいのはこちらの方なのだが……。


「その……実はお風呂に入りたくない?」

「……」


 ふるふる。首が横に振られる。


「じゃあ、行っておいで。着替えはちゃんと用意しておくから」

「うん」

「…………」

「…………」


 やっぱり動かない。そして私がさきほどいた場所まで戻れば、その後ろをとてとてとついてくる。お風呂場へ向かおうとする様子はない。

 ……なにか伝えたいことがある……? でも、直接言わない理由は……?

 アモルの行動の意図がわからず、悶々としていると、今度はアモルの方から口を開いた。


「お風呂……入らないの?」

「え?」


 私が「え?」と聞き返したこと、それ自体が意味がわからないとでも言う風に、アモルがまた首を傾げた。


「いや、入るのはアモルの方だけど……」

「……? うん。わたしはお風呂、入る」

「うん。だから行っておいでって――」

「一緒に入るんじゃ、ないの?」


 なんとなく、そばで話を聞いていたフィリアや、ちょっと遠くの方で机の上に顎を乗せてごろごろとしていたシィナが、一瞬「!?」みたいな記号を頭の上に浮かべた幻想が見えた気がした。

 いや、というか、それは私もである。


「い、一緒に? どういうことかな?」

「どういうって……お風呂は、誰かと一緒に入るもの……でしょ? 仲間の子は、貴族の人を魅了してお風呂に入ったって、自慢してた。二人で入ったって」

「あ、あー……そういう……」

「あと、すごく気持ちよかったって」


 その気持ちいいは、本当にちゃんとお風呂の気持ちいいなのか……?


「だから楽しみ、だったのに……もしかして本当は、二人で入るものじゃないの? あなたは、わたし一人のつもりで……?」

「そのつもりで言ってたけど……」

「…………一緒に入って……くれないの?」


 眉尻を下げ、上目遣いで私を見つめる。

 その瞳は不安げに揺れていて、もし私が断ったら、そこに少なからず涙がにじむだろうことは想像に難くない。


 こんな表情を見せられてしまったら、もう無条件で私の負けだ。


「……しかたない。わかった。じゃあ、一緒に入ろうか」


 ガタッ!!

 私が了承した瞬間、凄まじい勢いでイスを吹き飛ばして席を立つ音がした。


 びくっとして音の方角を見てみれば、ジーーーーーーーッ、と……。

 なにかを強く訴えるかのごとく、シィナがその血の色の眼で凝視してきていた。


 えっえっ。とと、突然どうしたの?

 怖いんですけど……。


 喜びかけたアモルも一瞬で縮こまり、即座に私の後ろに隠れてガクガクし始めるほどの威圧感だ。

 そして妙な反応をしたのはシィナだけではなく、フィリアもである。


「お、おお、おっ、お師匠さま……? そ、そんな簡単に了承してしまって……よ、よろしいのですか?」

「………………(イ……イッショニオフロ? な、なに言ってるの? お風呂ってあれだよね? あの、生まれたままの姿で入る、あの……? え、ハロちゃんとお風呂……? なん、え? え……? リカイデキナイ……)」

「う、うん。せっかく一緒に入りたいって言ってくれてるんだから、その希望に沿うくらいはしてもいいと思うけど……」


 なぜか私に詰め寄って、唇をぷるぷると震わせながら、ぎこちない笑顔を浮かべるフィリア。

 異様な反応にちょっと引き気味になりながら、なんとか答えるが……えぇ、なんでこんな反応なの?


 そりゃあ私だって、一緒に入る相手がフィリアやシィナだったら緊張したり、あわよくばを期待したりはしただろう。

 でもアモルは本人いわく成熟した淫魔であるらしいけども、その見た目はどこからどう見ても十代前後の子どもである。

 というか実際に話をしてみた限り、中身も見た目相応だ。

 ずっと監禁され、社会経験がなかったために精神性が養われなかったのだろう。


 私はロリコンじゃないし、さすがにそんなどこもかしこも未成熟な幼女に欲情したりはしない。


 フィリアに淫魔の液体薬を盛ろうとしたり、シィナにスライムをかけて服を溶かそうと画策した私だって、そこまで落ちぶれていないのだ。

 というかそこまで落ちぶれたらおしまいだと思っている。


 慕ってくれる無邪気な子どもをお風呂に入れてあげるという、これはただそれだけの話に過ぎない。


「……あ、あのっ! わ、私……私、も……!」


 フィリアがおずおずと手を挙げる。


「私も?」

「…………う、うぅ……いえ……なんでもありません……」


 フィリアは顔を真っ赤に染め上げて、なにかを言いかけたようだったが、最後にはしょんぼりと肩を落として引き下がった。


 私も……あ、もしかして私も一緒に入りたい! とか?


 はっはっは。ないなぁ。ないない。

 だってフィリア、以前私が何気なくを装って誘ってみた時に「お師匠さまのあられもない姿を私ごときが見るなんておこがましいです!」とかよくわからないこと言ってたし。


 あぁ、もしかして、だからなのかもしれない。

 自分は一緒に入らないと決めているのに、アモルのお願いに私が簡単に頷いたから、フィリアは私に物申したくなったのかもしれない。

 だけどそこは本来自分が口を出せる領域ではないから引き下がった、と。

 でもアモルはまだ子どもなのだから、そこはどうかそのまま我慢してほしいところだ。


「とりあえず行こうか。フィリア、悪いけど着替えの方、用意しておいてもらっていいかな」

「……はい……わかりました」


 そろそろアモルがシィナの視線に耐えかねてきていたので、早々に食堂を退散する。

 姿が見えなくなる最後の最後までシィナはこちらを凝視し続けてきていたが……だ、大丈夫だよね? 私、あとでシィナに刺されたりしないよね?


 シィナ絶対あれヤンデレだからな……恋愛的な意味ではないにせよ、慕われていることは確かだし……。

 ……今度それとなくシィナの機嫌を取る方法でも考えておこう……。

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