伊藤若冲は何故最近まで『発見』されなかったのか
ネコ エレクトゥス
第1話
奥義の域にまで達した技術力、鋭い観察眼、今でも見る人を驚かせるアイディアの数々、どこをとっても超一流な江戸後期の絵師、伊藤若冲がこの数十年に至るまで全く評価されず、海外のコレクターがその価値を発見して多くの作品が海を渡ったというのは本当にミステリーの部類に属する出来事に思える。若冲の絵を一度でも目にしたことがある人ならちょっと見ただけでその書き手の偉大さが分かるような、そういった作品群が全く無視されていた時代が長く続いたのだ。もちろん同時代に他にも優れた絵師がいたことや、明治以降の伝統文化軽視の流れの中で忘れ去られていったということもその理由ではあるのだろうが、同時に若冲は軽視され忘れ去られるべき存在でもあったのだ。
まず最初に彼の『若冲』という名前について考えるとこから始めたい。この名前は「無きが如し」という意味を表していて、ある僧侶から授けられたという。この名前から想像するのはどんな人格だろうか。温厚で仏様のような人物。実際に彼の晩年はそのような人だったのだろう。美術書などでもそのような人格としての若冲を前提に記述がなされている。だからといって制作意欲旺盛な彼の中年時代にもそのような人物であったという保証は全くない。もちろん彼が殺人鬼のような人物であったということではないが、彼の充実期に描かれた作品群はそれとはちょっと違った彼の素顔を表している。
ではその顔とはどんな顔か?エゴの塊。
エゴの塊、世界の全てを把握したいという欲求、そしてまた世界を創造したいという欲求。あの時代にあって若冲はヨーロッパ的な近代精神の先駆けだった。古典文学に興味をお持ちの方なら分かっていただけると思うが、彼こそは日本におけるゲーテの『ファウスト』だった。そんな彼に対し天皇のおひざ元であり保守的な京都の人たちはどのように思ったか。古代からの伝統概念で言えばこうなるだろう。『鬼』。鬼は排除されなければならない。
こうして若冲の絵は埋もれていったのだが、近代精神の本家である西洋が彼の価値を発見し、所有することになった。
一つ書いておかなければならないのは若冲がそのまま鬼であり続けたわけではないということ。ちょうどファウストが神に召されていったように、若冲もまた仏に帰って行った。そこで彼には『若冲』の名が与えられた。
伊藤若冲は何故最近まで『発見』されなかったのか ネコ エレクトゥス @katsumikun
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