30ページ目 ミクロの世界

 革ジャン先輩は私に印刷技術の小冊子を渡すと、大きな印刷機の印刷準備にかかった。「ちょっと待ってて」とは言っても、準備までに三十分はかかるらしい。

 開始さえすれば一時間に一万枚近くの印刷ができる大きな印刷機も、前段階の準備が大変だということだ。

 そう考えると、革ジャン先輩が前に教えてくれた特色の印刷は、その度にインキの色を変えなきゃいけないから、準備に何十分もかかるってことなんだろうか?

 カラー印刷ができる印刷機で特色を印刷する。それはとても非効率的な仕事のようにも思える。


 私はオぺスタの前のパイプイスに腰をおろして、小冊子を開く。

 A4サイズ、フルカラーの印刷機メーカーが作った薄い本。

 本屋に売っているような一般的な本じゃあない。印刷会社に配布されるパンフレットのような小冊子だった。


 中には今まで革ジャン先輩に教わってきたことが、より詳しく書かれていた。

 より詳しくと言っても、ざっとどんなものか教わってきたからそれが理解できると言うだけで、何も知らない人が読んでわかるような内容じゃあない。

 光の加減で色が変わる事やインキの濃度でも色が変わる事……その中に驚くべき事も書かれていた。これは革ジャン先輩に教わっていない。けど、それがなのは、今までの経験でハッキリとわかる。


 小冊子に印刷された、5㎝四方くらいの黄色の四角いベタと、その中央に1㎝四方くらいの緑の四角いベタ。隣には黄色と緑を入れ替えた四角いべダ。

 同じ色で印刷されているのに、同じ色には見えない。黄色の中の緑色の方が、明るく黄色く見える。驚きが禁じ得ない。

 小冊子には、色の配置でその色に視覚的錯覚を起こすと書いてある。

 革ジャン先輩が前に言っていた『色目を合わせる』という作業も、目の錯覚でこんなにも色が変わって見えたら、とても簡単とは言えない。


 こんな薄い技術書の中に、トンデモナイ事ばかりが印刷されている。

 印刷って、改めて凄い世界だ。どれだけ勉強しても、想像の範疇を遥かに超えてくる。



「ヒナちゃん、お待たせ」



 革ジャン先輩に声をかけられて、私はハッと顔をあげる。

 だいぶ夢中になっていた。工場の壁に掛けられた時計お確認すると、もう四十分近く経っていた。

 本を読む時の悪い癖が出た。こんな、本とも言えないような薄い小冊子で時間を忘れるほど夢中になるなんて。



「そんなに目を血走らせる程、面白い事書いてあった?」

「なー、血走らせてなんていませんよ! こんな可愛らしいつぶらな瞳なのに」

「そうかぁ?」



 革ジャン先輩が私の目の前にスッと顔を寄せる。

 若い頃の革ジャン先輩よりも皺が増えたその顔。つっていた目も、時の流れで気持ち垂れ気味になっている。そのせいか、表情が少し柔らかくも見える。

 若い革ジャン先輩は、しゃべっていないとちょっと近づきがたい雰囲気ではあるから。まぁ、私は身内だからまったくそんな事を感じなかったんだけど。

 だからなんだ。どう考えても怪しい風貌のサカエくんが平気なのは。むしろ、革ジャン先輩をリスペクトしたような格好のサカエくんに興味が湧いた。時代錯誤っていうのもあったんだけど。

 私は基本的に、時代の流れに飲み込まれてしまいそうなカルチャーが好きなのかもしれない。


 革ジャン先輩は瞬きもせず、私の目を覗き込む。

 その吐息が頬を撫でるくらいの至近距離で。

 私は恥ずかしさで思わず両手で目を覆う。そしてすぐに、片手を口に移動させる。

 目が恥ずかしい。唇が恥ずかしい。



「何だよ、別にキスなんてしないぞ」

「わはっへはふよ」

「口を押さえたまましゃべるなよ。何を言ってるのかまるでわからん」

「わかってますよ」



 私は革ジャン先輩の声の方へ背を向けて、顔から手を放した。



「首を長くして待ってたんですから、早く準備してた印刷をやってください。もう、待ちくたびれました」

「はは、悪い悪い。じゃあ、いきなり行ってみよう!」



 革ジャン先輩は排紙部横のボタンを押す。

 ガシャンガシャンと大きな音を立てて動き出す印刷機。そして、別のボタンを順番に押すと、ブオーッという大きな音がかぶさり、給紙部の方から紙を吸い上げる音が聞こえてくる。

 一枚、二枚……もうすぐ排紙部から紙が出てくる……

 突然機械のスピードがあがり、それと同時に次々排紙部に送られてくる紙。

 ジャワン、ジャワンと、何かから剥がすような短い音が繰り返され、数十枚が出て来た所で紙が出てくるのが止まった。

 革ジャン先輩は排紙部から一枚の紙を抜き取ると、真剣な眼差しで印刷された面をジーッと見おろす。そして、それをオぺスタに置くと、ペン型のルーペを印刷物に押し当てた。



「何をしてるんですか?」

「トンボを合わせてる」

「何ですか、それ?」

「見ればわかるよ」



 そう言うと、革ジャン先輩は私にペン型のルーペを差し出し、印刷物のトンボの部分を指差した。

 菊四切サイズくらいの紙に、八面並んだ金券。私は背中を丸め、髪の毛を後ろ手に束ね、そのトンボの箇所にペン型のルーペを立てる。

 あ、あれ? 倍率が大きすぎて何がなにやら……ぼやけてるの、かな?



「ペンルーペの角度を変えればピントが合うから。で、これは望遠鏡と同じで、上下左右反対に見えてる柄が動くから、あらかじめ近い所に立てて、少しづつ上下させて……」



 私は革ジャン先輩の言う通りにペン型のルーペを動かす。

 ピントが……こうかな? あ、見えた。で、これをゆっくり上に動かすと……何か線が下の方へ動いて……あ、これかな?

 黒い横線の上に赤い線と黄色い線が見える。



「これじゃないですかね? 赤と黄色と黒の横線が……」

「そのまま左右に少しづつ動かして」

「あ、十字の線になりました。これがトンボですか?」

「そう、カラー印刷だから四色の線が見えるはずなんだけど、三色しか見えないって事は、黒とシアンが重なってるんだと思う。縦線もズレてるだろ?」

「わっ、確かにズレてますね。こんなにシビアなもんなんですか?」



 黒い線から、線一本分離れた所に黄色い線。線三本分離れた所に赤い線が見える。

 印刷物をパッと見た感じ、絵柄がズレているようには見えなかったのに、ペン型のルーペで見るとズレているのがハッキリとわかる。



「このルーペは50倍だからねぇ。線一本分が約0.1㎜だと思えばいいよ」

「0.1㎜ですか!?」

「印刷は百分の一㎜精度で合わせるから」

「百分の一!?」



 みんなが当たり前のように見ているカラーの印刷物が百分の一㎜の精度で印刷されている事なんて、考えた事がある人なんていないと思う。

 そんなにも、細かい世界なんだ。



「ヒナちゃん、よく見えるだろ?」

「はい」

「こっちも見えてるんだけど」


 何が?

 私はフッと顔をあげて体勢そのままに革ジャン先輩を振り返る。

 私の真後ろに立つ革ジャン先輩。

 その視線は……



「なー! もっと早く言ってください!」



 大慌てで姿勢を正し、お尻を押さえる。

 また見られた。もしかして、革ジャン先輩は私のパンツを見たいからワザと……そんな訳ないか。

 革ジャン先輩はそんな、ただスケベな人じゃないんです。絶対です。でなければ、とうの昔に私の色気にメロメロです!

 あの夜だって、私は間違いなく革ジャン先輩と……

 …………ちょっと凹んだ。

 何もなかった所か、上条さんを呼ばれたんですよ。


 そうだ。欲と心は切り離さなきゃいけない。

 簡単に女性に言い寄るような人じゃなくても、パンツには反応するんですよ。誰でもです、誰でも。革ジャン先輩に限った事じゃありません。

 そう言えば、あの時も言っていたじゃないですか。「見えるものは見る」って。潔いと言えば潔いんだけど、見られる側の事も考えて欲しい。

 私はちゃんと愛されてます! たぶん。

 お爺ちゃんには間違いなく。

 はぁ……



「パンツ見られたくらいでそんなに凹まなくてもいいじゃん。可愛いパンツだったよ」

「そんな所、褒めないでください!」

「わかった、わかったから、ペンルーペちょっと貸して」



 革ジャン先輩は私の手からペンルーペを取り上げると、再び印刷物にそれを押し当てた。そして、右横のディスプレイを指先で操作する。



「はい、トンボは合ったから、他の所も色々見てごらんよ」

「はぁ」



 パッと見は何にも変わったようには見えない。

 私はペン型ルーペを手に、もう一度トンボの所へ立ててみる。

 革ジャン先輩がちょっと操作しただけで、トンボはピッタリ合わさっている。黒いトンボ一本にしか見えない。

 じゃあ、他の所は?

 私はペン型ルーペを横にスライドさせる。

 ちょっと動かすだけで、見えてる柄が大きく動いて、何が何なのかよくわからない。大きな点や太い線や……何コレ!?



「文字が見えます! 何ですかこれ? 50倍のルーペなんですよね? 小さい文字が見えるんですけど……」

「それがマイクロ文字だ」

「マイクロ文字!?」 

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