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 革ジャン先輩はそんな私の言葉を聞いて、ニヤリと口をゆがめる。そして、未だ手に持つ数枚の紙を、総てオぺスタに置いた。



「一言でコピー防止印刷と言ってもその種類は様々だ。その代表が、お札。簡単にコピー出来たら大問題だからね」

「当然ですね。(電子マネーが普及していて、あんまり持ち歩かないですけど)」

「時にはカラーコピーでお札を偽造したなんて話がニュースでやってるけど、とてもとてもそんなレベルじゃあない。それはお札を見てもらえばわかるんだけど……」



 私をジッと見つめる革ジャン先輩。

 私は財布を探す素振りも見せずにポンッと手を叩く。



「あっ、お札ですね。持ってません!」

「は?」

「持ってません!」

「な、何で!? ヒナちゃんって貧乏!?」

「そうなんです、ウチのお爺ちゃんが趣味山盛りで、なけなしのお金をくすねて……違う! 貧乏ではないです」

「大変な爺さんだなぁ……」



 貴方ですよ、貴方!

 今からこれじゃあ、お婆ちゃんもお母さんも相当大変だったに違いない。

 バイクだ、ギターだ、ツーリングだ、ライブだ、本だ、本だ、本だ……

 今目の前にいる革ジャン先輩は、ちょうどお父さんと同じくらいの年のはず。この頃も、もちろんこの先も、そんな子供みたいな生活を続けて行くんだ。

 これが自分の親だったら泣くに泣けない。

 お爺ちゃんだから笑って見ていられるだけで。

 現に私は様々な恩恵を受けてきたから。

 小学生の時にお爺ちゃんに買って貰った絶版の本。二万円也。

 もう、家が木っ端みじんに壊れるくらいお母さんに怒られた。お爺ちゃんが。



「まぁ、持ってないなら俺の貴重な一枚で説明しようか」



 そう言うと、革ジャン先輩はお尻のポケットから取り出した財布の中から、すっと千円札を抜きオぺスタの上に置いた。

 黄味がかった紙に青っぽい色で印刷されたお金。言わずと知れた、野口英世の千円札だ。

 私の時代にはもう、コレクターのアルバムの中でしか見る事ができない古紙幣。



「この千円札の中に、十種類以上の偽造防止が隠されている」

「十種類以上ですか!?」

「そんなに驚く所じゃあないんだけど。だって考えてみなよ。このお金が日本を動かしている訳だ。万が一、偽造されたら日本どころか世界がひっくり返る」



 そう考えるとなるほど確かにその通りですね。

 私の時代でこそ、かなり自由に電子マネーのやり取りができるようになりましたけど、過去にはネット上での仮想通貨がごっそり消失したなんて事件があったと高校の時の経済史で習いましたから。

 偽造されたら意味がない。だから様々な偽造防止が施されている訳ですね。



「まぁ、全部説明するとこれまたもの凄く長くなるから、取りあえずウチの印刷所で出来る偽造防止だけ」

「全部聞きたいんですけど」

「あー、ウチで出来ない技術は正直わからない。そもそも、いくら俺がハイパーウルトラベテランオペレーターだからと言って、全部わかっちゃったら偽造出来る訳だし」

「はぁ、確かに。ハイパーなんとかオペレーターはともかく、全部知ってたら偽造しちゃいますよね、革ジャン先輩なら」

「おいッ!」



 私の小さな頭にコツンと拳骨が降ってくる。

 私は頭を抱えて首を窄める。

 冗談ですよ、冗談。革ジャン先輩はそんな事絶対にしません。断言できます。



「会社の信用問題になるような事はしない! 一人でもそんな社員がいたら会社が傾くわ。お札まではいかなくても、ウチの会社で金券を印刷するんだから」

「金券ですか?」

「そう、地域振興券とか割引券とか、ね。印刷された棒積みの紙を見て、ふと思った事があるよ。この台車一台で三百万かぁ……とかね。トータル五億になる地域振興券だってあった。そういうのは、刷り損じも普通のゴミカゴに入れられないんだよ。ゴミ屋にシュレッターかけてもらうんだ」

「はぁ~、徹底してますね。けど、それもそうですよね。ゴミの中にお金が入っているようなものですからね」

「そういう事!」



 革ジャン先輩はオぺスタの千円札を両手で抓んで、蛍光灯にかざした。

 それを私の頭の上に移動させる。



「真ん中にあるのが。お札の場合は、もう紙の段階から偽造防止が施されていて、透かしは印刷じゃなくて紙の厚い薄いで絵が透けて見えるように出来ている」

「けど、それって印刷は関係ないですよね?」

「お札の透かしはね。けど、印刷で透かしも出来るんだ」



 革ジャン先輩は私に千円札を渡すと、インキ棚の上に置かれた一つのインキ缶を持って戻ってくる。そして、そのインキ缶を開けると、ドロッとしたような、プルッとしたような、透き通ったゼリー状のものが入っていた。

 私は小さく首を傾げる。

 インキ缶なのに、どう見たってインキじゃあない。



「何ですか、これ?」

「透かしインキ」

「透かしインキ? これで透かしが印刷出来るんですか? ちょっと意味がわからないんですけど」



  透かしインキ――透ける、インキ? 無色透明だから、これが例えインキだとしても、きっと見えない。

 見えないインキで紙が透ける? 沁み込むって事? 水や油みたいに。



「簡単に言っちゃえば、油みたいなもんだ」

「やっぱり。けど紙に垂らした油って滲みませんか?」

「ほう、ちょっと感心した。ヒナちゃん凄いね」

「えっ、そうですか? 私って凄いですか? 照れるなぁ~」

「調子に乗らなければね」



 酷いです。持ち上げて落とすなんて。だったらいっその事、持ち上げないで……じゃない。落とさなければいいんですよ、落とさなければ。

 私はプクッと頬を膨らませてそっぽを向く。

 革ジャン先輩は笑いながら私の肩をポンポンと叩いた。



「や、けど実際、ヒナちゃんの言ってる事がそのものズバリだよ。透かしインキは滲まない油みたいなもんなんだ」

「滲まない油って、そんなものがあるんですか?」

「油は短時間で紙に浸透するだろ? 要するに粒子が細かいんだ。だから滲む。透かしインキは粒子が大きいから、すぐには浸透しない。何時間もかけて浸透する。極端な話、次の日にならないと、ちゃんと透かし印刷されているかどうかわからない。だから滲まないんだよ」

「は!? 次の日にならないとわからないって、そんなやり方で印刷出来るんですか?」

「やってるけど……」

「や、じゃあ、印刷している時は見えないんですよね? 目の錯覚とかじゃなくて、本当に見えないんですよね? どうやってそんなの印刷するんですか?」

「……腕?」



 ダメだ、この人は。

「調子に乗らなければ」なんて、私が言われる言葉じゃあない。ただのブーメランだ。私にあたる寸前で、革ジャン先輩へ向かって飛んでいっていますよ。



「ふざけてないで、ちゃんと教えてください!」

「ふざけてなんてないんだけど。印刷した瞬間は肉眼ではほぼ見えない。けど、そんな時のこれ」



 ずっと気になっていた、オぺスタの正面――見本や指示書なんかがマグネットで貼りつけてある正面の金属板に、垂直になる形で建てられた赤と黒の棒状の物を手に取る革ジャン先輩。

 その折りたたまれた黒い部分を開いて横の押しボタンを親指で押す。

 一回――棒状の黒い部分の先っぽが光る。

 二回――黒い棒状の部分の総てが光る。

 三回――強烈な光を発する。



「LEDの作業灯。これがなかなか役に立つ。ちょっと、今印刷したばかりの透かしの紙はないけど、これを見てごらん?」



 革ジャン先輩は重なった紙を一枚抜き取ると、それに強力な光を当てた。

 印刷された紙の上、細い文字がキラキラと光って見える。



「これはニス印刷。普通の蛍光灯でも、こう、角度を変えて、灯りに向けて見れば見えるんだけど、このLEDライトを使えば凄くよく見えるだろ?」

「はい!」

「印刷したばかりの透かしはここまで見えないけど、辛うじて紙の表面が光って見えるんだ。よ~く見れば、トンボみたいな細い線も見える」

「へぇ~、だから印刷できるんですか。……印刷? 印刷って、インキの量とかを調整しますよね? 見える見えないはわかりましたけど、濃い薄いっていうのはどうやって調整するんですか?」

「出来ません」

「は!?」

「濃度調節は出来ないよ。だって、見えないから。けど、これもオペレーターの匙加減でね……」



 革ジャン先輩は印刷機排紙部横の黒いボタンを押す。

 ピーピーと発信音が鳴った後、もう一度ボタンを押すと、印刷機が重そうな音を立てて動き出した。



「こっちへおいで」



 私は革ジャン先輩の手招く先、印刷機とインキ棚の間のステップへ駆けあがる。

 そして、革ジャン先輩は印刷機のローラーを指差した。

 濃い青色が乗ってインキローラーがシャーッと小さな音を立てている。



「音、聞こえる?」

「シャーッて音ですか?」

「そう、この音を聞いてインキの量を確認する」

「音で!?」

「他にもこうやって、ローラーを触って……」



 停止ボタンを押して、泊まった印刷機のローラーに指先をペタペタと押しつける。



「これがベストなインキ量だ」



 何なんですか、この世界は?

 目で見て、耳で聞いて、指で触って印刷するって。

 こんな事、今教わるまで思いもよらなかった。



「印刷オペレーターって、みんなこんな事やってるんですか?」

「や、ウチが特殊なだけだよ。これも、経験の積み重ねだから」



 信じられない世界が目の前にある。

 この技術が、時代の流れに飲まれて廃れていくなんて、とても寂しい事だ。

 どこまでも、奥が深い。

 誰もが何も考えずに当たり前のように使っているものが、こんなにも職人的な技で成り立っていたなんて。

 たった一言、凄いとしか言いようがない。



「何だよ、まだ透かしだけしか話してないのに、目玉がこぼれ落ちそうだぞ? 印刷は科学と職人技の融合だから、ボーッとしてると聞き逃すからな?」



 革ジャン先輩は目をスゥッと細めて、私の頭にポンポンと大きな手を置いた。

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