28ページ目 目の錯覚

 革ジャン先輩は「ちょっと待ってて」と言って、インキが詰まった棚の向こうがわのドアへ消える。

 私は印刷機とインキ棚の間のステップにヒョイッと乗り、ギュウギュウに並べられたインキを順繰りに眺め見る。

 一見、雑多に並んでいるように見えるインキも、缶の横に黒ペンで記入してある数字を見ると、なるほどちゃんと100番台、200番台と、ちゃんと分けて置かれている。

 この中に、コピー防止に使うインキがある――のかな?

 そもそも私はコピー防止というものがどんなものかまるで知らない。

 確かにそこにあるのに見えなくなってしまう印刷――原稿用紙も、コピー防止と言えばそれで通じるようにな気もするのだけれど。

 コピーすると見える? 常識的に考えても、そんな印刷なんて出来るのだろうか?

 だって、見えない訳で、それが見えるようになる?

 ない、のに、ある。

 他の誰にもない、VRのこの世界がと思えなくて悩みもした。

 私が逃げ込んだ世界。

 そんな世界で本当のが見つかるかもしれない。


 目の前の三段に積まれたインキの缶の蓋を、ツゥッと指先で撫でる。

 ホコリのような白い粉が人差し指の先につく。

 工場の籠った熱気とインキのニオイと、そんな感覚の中で、私は実感のある世界に身を顰める。



「ヒナちゃん、お待たせ! こっちへおいで」



 革ジャン先輩が数枚の紙を持ってオぺスタ前で私を呼ぶ。

 私は飼い主に呼ばれた犬のように、すぐさま革ジャン先輩に駆け寄る。



「これが、ヒナちゃんが見たがっていたコピー防止印刷」



 革ジャン先輩はそう言うと、持っている紙の内の一枚をオぺスタの蛍光灯の下に置いた。

 薄いグレー? や、薄いブルーのA4サイズの紙。

 何も印刷されていない。ただただ、薄いブルーの紙。

 これがコピー防止印刷だと言われても、印刷されているようには見えない。



「紙――ですよね? ただの」

「印刷されてるだろ? ほらっ」



 革ジャン先輩が薄いブルーの紙の端っこをぺラリと捲ると、裏は白い紙だった。



「えっ、じゃあ、薄いブルーで印刷されてる紙なんですか? それって、漫画の原稿用紙のように、コピーすると消えちゃうんじゃないですか?」

「消えるよ。で、コピーしてきたのがこれ」



 革ジャン先輩がコピー防止印刷の隣に置いた紙は、薄いブルーでCOPYの文字がいくつも浮かびあがっていた。

 私はこぼれ落ちそうなくらい大きく目をあけて、マジマジと薄いブルーの紙を見る。

 何の変哲もない薄いブルーの紙。ただ、よく見ると薄いブルーじゃなくて、青のアミ点で印刷されている。

 アミ点? コピーに出ないって事はアミ点を再現できないんであって、コピーに出る文字はアミ点が再現される……そうか!


 私は薄いブルーの紙に顔を近づける。

 片手で髪の毛を束ねて、その距離10㎝くらいまで。



「もしかして、よ~く見るとアミ点の大きさが違いませんか?」

「ほう、目が肥えてきたな」

「どんなもんですか!」

「ヒナちゃんの言った通り、一見ただの薄い青色の紙に見えるけど、大きなアミと小さなアミで印刷されているんだ。で、コピーすると小さなアミ点はコピーされなくて、大きなアミ点だけがコピーされるって仕組み」

「はぁ~、どうしてそんな事ができるんですか?」

「コピー機は光を当ててその柄を複写するんだけど、その光にアミ点が消えちゃうくらい細かいんだ。100%がベタだとすると、細かいアミ点は10%くらい」



 もうここまでくると、反応のしようがない。

 実際、本当にただの薄い色の紙にしか見えない。

 革ジャン先輩はフフッと鼻を鳴らすと、小さな箱型のルーペをコピー防止印刷の上に置いた。



「覗いてごらん」



 私は箱型のルーペを覗き込む。

 そこには細かい小さなアミ点と、密度が薄い大きなアミ点が見えた。

 COPYの文字の方が大きなアミ点で、それ以外が細かいアミ点。

 細かいアミ点と大きなアミ点……? ちょっとおかしくないですか? 普通に考えると大きなアミ点の方は見えてもよさそうなのに。何で?



「二種類の大きさのアミ点が見えるんですけど、何でこれでCOPYの文字が見えないんですか? アミ点が大きいですよ?」

「そう、これが人の目の錯覚」

「目の錯覚?」

「アミ点は大きい程、濃く見える」

「はぁ、そうですね。究極はベタですからね」

「じゃあ、密度が薄い程?」



 密度が薄い?

 大きなアミ点が100個並んでたとした場合……はっ、一か所にキュッて固まってた方が濃く見える。そうか、そうなんだ。



「薄く見えるんですね?」

「そう。この印刷は密度が濃い小さなアミ点と、密度が薄い大きなアミ点のバランスで視覚的に錯覚させているんだ。同じ方法で、太い線と細い線を使ったコピー防止もある」

「細い文字と太い文字ですか?」

「人間は細い文字は薄く見えるんだよ。太い文字に比べて。その密度のバランスを上手く使うとコピー防止印刷が可能なんだ。凄く細い文字はコピーで再現できないからね」



 もうただ呆然だ。

 印刷の世界は目の錯覚まで利用する。

 そしてさらに、コピー機のデメリットも利用する。



「こんな印刷があるなんて、思ってもみませんでした」

「ん? ヒナちゃんは住民票とか取った事ないの?」

「あー! あれってコピー防止印刷だったんですか? 知らなかった」



 お役所の書類はネット上でも利用が可能になっている。

 不正コピーを防ぐために作られたインビジブルと言うプログラムで、データはコピーができなくなった。けど、まだ完全にはデータに移行してはいない。何年かに一度は、それでも不正流出のニュースが流れるから、重要書類は紙でという人も少なからずいる。

 あっ、そう言えば、私は持ち歩かないけどお札だって複製できないように作られていますよね。



「う~ん……コピー防止印刷、奥が深いですね」

「ははは、まだこんなのは触りだけなんだけど。見えないからってそれを信じちゃいけない。見えなくともそこにはあるんだから」



 私はハッとした。「見えなくともそこにはある」という言葉に。

 他の誰にも見えない世界。私だけの世界。

 ファイル名「ようこそ街の印刷屋さんへ」のVRデータ。

 信じなければ見えない世界も、信じればそこに

 疑う必要なんてなかったんだ。私があると信じている以上、この世界は確かに存在する。革ジャン先輩も、上条さんも、他のみんなも。

 そうだよね。私、上条さんに怒られちゃったんだし。

 ただの作り物の世界で、そんな事はあり得ない。

 どういった世界なのかはわからないし、どんな経緯でこのファイルがあるのかもわからない。けど、この世界は私の思いの結晶だ。

 私が本を――印刷を勉強したいという気持ちに嘘はない。それだけは胸を張って言える。だから、

 それが総てなのに、私は何をモヤモヤとしていたんだろう?

 私は私だけのこの世界で、私の思うように勉強すればいいだけだ。

 革ジャン先輩に甘えて……や、もう誘惑したりなんてしないけど。

 好きだけど、大好きだけど、きっとそれは違う気がする。

 私だけの物語だけど、だからって好き勝手にしていいわけじゃあない。この世界はそんな世界じゃあない。


 私は何をやっていたんだろう?

 ここは逃げ場所なんかじゃあないのに。私の心の底からの学びたいを実現する世界なのに。

 ひとりで、その、いたすような、アダルトVRじゃあないんだ。

 自分のやってしまった事が凄く恥ずかしい。けど、それも学んだ。

 私はもっともっと印刷の事が知りたい。

 現実世界は現実世界で、真正面からぶつかってみせる。

 逃げたりなんかしない。逃げ場所なんかない。

 私にはどっちの世界も現実世界なんだから。



「どうした?」

「あ、いえ、ちょっと思う所があって」



 革ジャン先輩は澄ました顔で鼻を鳴らす。

 私は革ジャン先輩の作業着の袖をクイッと引っ張って、上目づかいで彼の顔を見あげた。



「まだ触りだけなんですよね。もっと、コピー防止印刷の事を教えてください」

 

 

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