27ページ目 革ジャン先輩のベッド

 私は革ジャン先輩の働く印刷工場の門の前に立つ。

 白い大きなその建物を見あげて大きく息を吸う。そして、吐く。

 あの日以来、どうにも革ジャン先輩と顔を合わせるのが気まずくて、あの時代には行っていない。


 別に革ジャン先輩と上条さんの関係をズタボロにして逃げてきたという訳じゃない。革ジャン先輩に迫ったのは事実だけど、上条さんは許してくれた。

 自分の彼氏が寝取られそうになったって言うのに。や、何かこの言い方は語弊がある。寝取るなんてそんな気はなかった。ただ一度だけでいいから、私にも幸せを分けて欲しかっただけ。その方法が正しくなかったと言えばそうなんだけど。

 それよりも、許すなんてそんな事できる人いる?

 私だったら絶対に許さない。


 それどころか、上条さんは私と一緒に寝てくれた。

 一人だと色々考えちゃうだろうからって。

 革ジャン先輩のシングルベッドに二人で寝転がり、肩と肩がくっつく距離で、部屋の灯りを消した後にいっぱいいっぱい話をした。

 私はもう、上条さんの前では自分の気持ちを偽らなかった。それが上条さんに対する誠意だと思った。

 上条さんはカーテンの隙間から差し込む月明りに照らされて、目を大きく瞬かせた。



「ヒナちゃんの言う好きって、本当に好きなのかな? そりゃあね、女だもん。抱きしめて欲しいって気持ちはあると思うよ。大切にされていればされているほど、気持ちいいしね」



 明け透けなく言う上条さんの言葉に、私の方が照れてしまう。

 そうなんだ。大切にされた方が気持ちいいんだ。なんて……



「けどヒナちゃんは、この人を抱きしめたいって思った事、ある? 抱きしめて欲しいだけじゃなくて、抱きしめたい。受け身ばかりだと、長くは続かない。相手の弱みが許せなくなる。そんなの可笑しいじゃない? ハリボテに恋している訳じゃあないんだから」



 この時代の上条さんは、今の私とほとんど年は変わらない。なのに、こんなにも大人だ。自分が恥ずかしくなってくる。

 私はいつも、自分の事ばかりだ。

 何かしてもらった、されなかった、自分から積極的に動く事なんてまるでなかった。いつだって、何でもない風を装って、本を読んできただけ。

 小学校でも中学校でも高校でも、そして今だって、本を読みながら私の周りが変わるのを待っていただけ。そんな私が人を好きになるなんておこがましいにも程がある。



「それでも、彼が――革ジャンさんが欲しい?」



 ここは頷いていいのだろうか?

 欲しくないと言えば嘘になる。少なくとも抱かれたいと思ったくらいは好きだ。私にとっては一世一代の好きだ。けど、現実世界の事で自棄になっている事も否めない。正直に言えば、サカエくんの事も気になっている。

 私ってば、こんなにも気の多い女だったのかと、自分ながらに幻滅した。

 まだ、誰とも交際した事ないのに。


 結局、一人じゃないからこそ余計に色々な事を考えちゃって、気づいた時にはもう眠っていた。じゃない、気づいた時には朝だった。

 私は上条さんに抱きついて寝ていた。

 上条さんのその温かさは、やっぱりお婆ちゃんのそれと同じだった。



   *    *    *


 私は工場のアルミサッシをそっと開く。

 開いた隙間から相変わらずの熱気が漏れ出してくる。

 


「こんにちはー! お邪魔しまーす!」



 私は元気に挨拶して、奥の革ジャン先輩が使う印刷機まで小走りした。

 緑色の床にうっすらと積もったブロッキングパウダーがふわりと舞い上がる。


 今日は一つの目的があってここへ来た。

 過去の革ジャン先輩が行っていた印刷――見えないのに見えるようになる印刷の事を聞きに来たんだ。

 その名も、コピー防止印刷。

 直接本には関係ないけど、重要書類に使われる事が多い印刷らしい。

 私の時代では紙媒体で使う書類が激減しているので、見る事なんてないけど。

 過去の革ジャン先輩は、コピー防止印刷というものがある事は知っているけど、詳しくはわからないと言っていた。そこで、この時代だ。

 バキュン年経った革ジャン先輩なら、その印刷の事を知っているかもしれない。



「おう、ヒナちゃん。今日は何を聞きに来たんだ?」

「ごめんなさい!」

「は!?」

「過去の革ジャン先輩を誘惑しちゃいました」

「…………は?」

「革ジャン先輩とお酒飲んで、家まで押しかけて、今日は帰りたくないって」



 革ジャン先輩は眉間に皺を寄せて頭を押さえる。そして、私の顔をチラッと見て、左手を突き出した。



「え、や、ちょっと待てよ? それは、その、なんだ? まさか、おやりになってしまった――と?」

「おやりになったって、何ですか?」

「その、あれだ、えーっと、せっ……」

「せっ?」

「雪隠?」

「ブフッ! 何でトイレなんですか!? そりゃあ、一晩中革ジャン先輩の部屋にいた訳ですから、トイレくらいは行きましたよ!」



 もう、どうやっても考えたくないみたい。

 革ジャン先輩は両手で頭を抱え、オぺスタに突っ伏す。

 ちょっとだけ、乙女の純情を踏みにじった仕返しをしてやろうと思ったのに。

 この時代の革ジャン先輩じゃあないけど。



「冗談ですよ、冗談」

「はぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~」



 途端に顔をあげ胸を押さえ、全身の空気が抜けるくらいの息を吐き出す革ジャン先輩。何か釈然としない。

 こんな美少女と一晩共にできるなんて願ったり叶ったりじゃないんですか?

 革ジャン先輩はニヘラと笑って私の肩をポンポンと叩く。



「頼むよ、ヒナちゃん。心臓に悪いわ。オレはもういい年なんだから、あまり刺激すると心臓止まっちゃうよ?」

「私って魅力ないですか?」

「ん? や、可愛いと思うよ。相対的に見てもだいぶ」

「じゃあ、なんでそんなにホッとするんですか?」

「それとこれとは話が別! 手を出せる相手と手を出せない相手の他に、手を出していい相手と手を出しちゃいけない相手がいるんだよ。手を出したくない相手もいるけど」



 もう、どこまでも理屈臭い。間違ってはいないんだろうけど、そういう事って、もっと感情の盛りあがりが大切なんじゃないかな?

 盛りあがりすぎて先走っちゃったのは私だけど。

 何か、冗談だとわかって必要以上に浮かれている革ジャン先輩が癇に障る。



「けど、泊まったのは本当ですよ?」

「はい?」

「革ジャン先輩のベッド、気持ちよかったです」

「ベッドで寝たの。……念のために聞くけど、誰と?」

「それを私に聞きます? そんなの一人しかいないじゃないですか! か……」

「か?」

「上条さんです」

「はぁ…………はぁ!? 何で? オレのベッドで嫁さんとヒナちゃんが一緒に寝てる訳?」

「だから言ったじゃないですか。革ジャン先輩を誘惑したって。で、お風呂から出てきたら上条さんが正座してて……」



 チーン……



 革ジャン先輩の心のリンが聞こえた。

 真っ白になった革ジャン先輩はそれ以上何も聞いてはこなかった。

 こう言っちゃなんだけど、革ジャン先輩の反応が面白い。原因は私だけど。

 そう考えるとVRの世界って異質だ。

 私の行動でその世界のすべてが変わるのに、時間に継続性はない。

 過去の革ジャン先輩と、私が今いる時代の革ジャン先輩は同一人物であっても同一ではない。そこに連続した時間の経過はないから、反応も違う。

 並行世界の革ジャン先輩に印刷を教わっている感じって言えば一番しっくりくるかもしれない。

 だからと言って、印刷にファンタジーはない。



「ファンタジーかぁ……」

「何?」

「や、過去の革ジャン先輩に聞いたんです。ファンタジーみたいな話ですけど、見えないのに見える印刷があるって本当ですか? えっと、コピー防止印刷って言うのらしいんですけど、わかりますか? 若い頃の革ジャン先輩は詳しく知らないって言ってたんで」

「ああ、コピー防止印刷? 見えないのに見えるって言うと、コピー機にかけたら文字が浮き出てくる印刷の事だろうな」

「文字が浮き出てくるんですか!?」



 印刷が見えないのに、文字が浮き出てくる? 想像がつかない。意味がわからない。

 今まで教わってきた知識を総動員しても、どんなものかまるでわからない。

 私が見た印刷は、コピーすると薄いブルーの罫線が消えてしまう原稿用紙だった。それを見て、自分やVRの世界に不信感を持って落ち込んだ。それとはまったく逆の印刷。

 誰にも見えないVRの世界は確かにそこにあると、きっと自信を持って言えるような気がする。

 見えないけど、見えるのだから。見えないけど、そこにあるのだから。



「じゃあ、コピー防止印刷を教えようか」

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