26ページ目 見えない世界で

 薄いオレンジ色の暖色の灯りが目に沁みる狭い浴室で、わたしは乳白色の壁にかけたままのシャワーから降り注ぐ温めのお湯を全身に浴びていた。

 備え付けの鏡が湯気で白く曇っている。私はそこへ勢いの弱いシャワーをかける。

 鏡に映るのは、私。何も着ていない裸の私。

 オレンジ色の光の中で、私の体が薄く赤く高揚しているのがハッキリとわかる。

 私の体を優しく包み込み、そして撫でていくお湯。両手を上に向け、掌に残ったお湯で顔を洗いそのまま指先で髪に手櫛を通す。


 泣いてしまった。革ジャン先輩の前で、まるで捨てられた子犬のように。


 革ジャン先輩のアパートの近くで美味しいお酒をいっぱい飲んで、美味しい料理をたらふく食べて、顔が溶けるくらいの夢心地になって、そして奈落に落ちるくらい寂しくなった。

 帰りたくなかった。現実の世界になんて。

 VRの世界に逃げているなんて事はわかってはいるのだけれども、ただ今この瞬間の幸せを失いたくはなかった。


 私は帰途につく革ジャン先輩の後を追った。「おやすみなさい」と言って別れた後、少し離れた距離を保ち、路上駐車してある車や電柱に隠れながら。そして、革ジャン先輩が部屋に戻ってすぐ、チャイムを鳴らす。

 ドアを開けた革ジャン先輩の驚く顔を見て、わたしは彼に飛びついた。



「革ジャン先輩、泊めてください」

「はぁ!?」

「帰りたくないんです」

「ちょっ、まっ……」



 昔の女性向けの漫画や小説で見た事があるけど、自分がまさかこんな台詞を言うとは思ってもみなかった。だって、こんな事を言える女はあざといと思っていたから。

 私はそんな女に成り下がった。自分の心の欲を満たすために。


 革ジャン先輩に回した腕に力を込めて、彼の首元に顔を埋める。

 汗とインキが入り混じった革ジャン先輩のニオイが私の鼻をくすぐる。

 一度、上目使いで革ジャン先輩を見あげ、その瞳を潤ませて、彼の言葉を待つ。

 革ジャン先輩は私の目を真っ直ぐ見返して、私の肩に手を置いた。震える肩に手を置いた。

 もう、どうにも止まらなかった。込み上げてくる感情も、そして涙も。

 革ジャン先輩は何も言わず、私を部屋に招き入れてくれた。

 嬉しかった。私の居場所が見つかったようで。


 私はシャワーに向かって顔をあげる。

 お酒で火照った顔を気持ちよく沈めてくれるお湯の雨。

 少しだけ酔いが醒めてきた。凄い事をした。そしてこれから、もっと凄い事をしようとしている。

 もう、覚悟はできている。誰から非難されても構わない。

 私はこれから革ジャン先輩と……



    *    *    *


 ガチャッ。


 ドアを開けて、その隙間から浴室の外をのぞき込む。

 すぐ右手にトイレのドア。浴室を出た所にカーキ色のバスマットが敷かれ、その上に私の服やバスタオルが入った籠が置かれている。

 革ジャン先輩の部屋には脱衣所がない。男一人暮らしのせいか、仕切りになるカーテンもない。それは以前、革ジャン先輩のゴニョゴニョを見てしまった時に確認している。


 要するに浴室の方をのぞき込めば、脱ぎ着しているのは丸見えだ。

 私は浴室の外に出るのを躊躇う。これからこの格好のまま、革ジャン先輩に抱かれると言うのに。だからと言って、こんな事は初めてだ。勇気がいる。

 私は籠からバスタオルを取り、浴室で体を拭いた。革ジャン先輩が覗くはずないのに。裸でいるのが恥ずかしくて。そして、革ジャン先輩の大きなスエットを着る。

 ブカブカで、袖も裾もだいぶ余っている。その格好で浴室を出てふと思う。

 全然色っぽくないと。

 何かこう、もっとムードのある展開を期待していたことは否めない。なのに、スッピンで少し幼くなった顔で、ブカブカのスエットで、小学生のお泊り会のような感じにも思える。

 けどどうせ、ベッドの中では裸だ。気にする事はない。なんて思いながら髪の水気をバスタオルで取りつつ革ジャン先輩の部屋の襖を開ける。



「お先に失礼しました。革ジャン先輩、次いいですよ」



 一歩、革ジャン先輩の寝室に足を踏み入れた私は、固まった。

 自分の目を疑った。頭が真っ白になった。

 お風呂から出てきたばかりなのに、冷や汗が止まらなかった。

 寝室の奥、革ジャン先輩が胡坐をかいているシングルベッドの前の小さなローテーブルの横で、正座して私を真っ直ぐ見あげる上条さん。



「な――んで?」



 私はすがるように革ジャン先輩を見る。

 革ジャン先輩は私の瞳を真っ直ぐ見返して、小さく肩を竦めた。



「座って」



 上条さんが静かに重い口を開く。

 私はただ呆然と寝室の入口で立ち尽くすだけだった。



「座って」

「は、い」



 それ以外、何も言えない。

 自分の足とは思えないくらい程重い足を必死に動かして、私は上条さんの向かいに正座する。そして、膝の上で拳を握りしめローテーブルに視線を落とした。

 真っ直ぐ上条さんの目を見る事が出来なかった。出来る訳がなかった。

 だって私は、上条さんから革ジャン先輩を奪おうとしていたんだから。



「どういうつもり?」



 真正面から上条さんの声が聞こえてくる。

 どういうつもりも何も、革ジャン先輩に抱いて貰おうとしていたなんて、そんな事言えるはずがない。

 最悪感はあった。ずっとあった。お婆ちゃん――この頃の上条さんも大好きだったし。けど、私はそれを裏切った。言い訳なんて、これっぽっちもない。



「黙ってちゃわからないんだけど」」



 上条さんの言葉が胸に刺さる。

 何で私はいきなり修羅場を体験しているんだろう?

 初めてなのに。イヤ、もしていないのに。現実でも上手くいかず、逃げ込んだ先のVRでさえこんな有様。私の心はどこまでも宙ぶらりんだ。

 それでも何とか言葉をしぼり出す。間違いなくそれも私の気持ちだから。



「ごめん、なさい」

「何が?」

「や、あの、革ジャン先輩を……ごめんなさい」

「謝るんだ」



 はい? 上条さんの言っている事がまるでわからない。

 思わず顔をあげて、上条さんを見る。

 上条さんは凄く静かな表情で私を真っ直ぐ見つめていた。



「謝るくらいなら、こんな事しなきゃいいのに」

「ごめんなさい、ごめんなさい」



 壊れたオールドタイプの音楽再生機のように、同じ言葉を繰り返す私。それしか言えない。悪いと思っているのは本当だ。これが私の本当の気持ちだ。



「謝れちゃう程度の気持ちで彼をものに出来るなんて思わない方がいいわよ」

「なっ……」

「いつも印刷の勉強に一生懸命だったからいい娘だなぁなんて思っていたのに、こんな情けない娘だったなんてね」

「情けないって……」

「だってそうでしょ? 自分の気持ちに真っ直ぐ彼を求めたんじゃないじゃない。謝れちゃうんだから。まだ川口さんの方がマシよ。彼女は絶対に謝らないから」

「おい、余計な事は……」

「黙ってて! いつも鼻の下を長くして川口さんを見てるクセに」

「見せて貰えるものは、見る! 別に犯罪じゃないだろ?」

「バカ」



 革ジャン先輩ってそんな人だったんですね? ……それもそうだ、お爺ちゃんなんだから。

 そんな事よりも、あんなエッチな格好で革ジャン先輩を誘惑する人よりも私が下だなんて。確かに悪い事をしたのは私だけど、失礼にも程がある。

 私は本気で革ジャン先輩の事が……



「好きなんでしょ?」

「は?」

「彼の事が好きなんでしょ?」

「…………」

「好きなんでしょ?」

「好きですよ! 好きだから何なんですか? 好きじゃあいけないんですか? 好きな人と、って思っちゃいけないんですか? だいたい、革ジャン先輩も酷いですよ。気だけ持たせて、上条さんが来るなんて一言も教えてくれなかったクセに」



 もういっぱいいっぱいだった。

 次から次へと酷い言葉が口をつく。開き直りもいい所だ。頭ではわかっているんだけど、もう感情が溢れ出してきて止まらない。



「それが彼の優しさよ。自分に好意をもってくれている娘をこんな夜中に帰れと放り出す訳にもいかないし、かといって軽い気持ちで手を出す訳にもいかない。だから私が呼ばれたの。それだけ大切にされてるんじゃない。そんな事もわからないの?」

「わかりませんよ。どうせこんな世界、見えない世界じゃないですか! 確かにそこにあるのに見えないんですよ」

「何、言ってるの?」



 もう、無茶苦茶だ。VRの世界の革ジャン先輩や上条さんに、VRの話をした所で通じる訳がない。所詮はVR。私以外の誰にも見えない世界。



「私だって見えないんですよ。誰にも見えないんです。誰も気にしないんです。私は一人ぼっちなんです!」



 感情に任せた言葉が口から次々と飛び出してくるのに、頭の中はイヤに冷静だった。馬鹿な事を言っているとも思ったし、飛んだ甘ちゃんだとも思っていた。けど、何かに縋りたかったのも確かで、私は我儘な幼児のように泣いた。



「見えるぞ」

「えっ!?」



 私は革ジャン先輩を振り返る。

 シングルベッドの上で胡坐をかいたまま、少しお道化た表情で笑う革ジャン先輩。

 私の涙はそのたった一言の言葉で止まった。



「オレには見えるぞ。ヒナちゃんはここにいるじゃないか」

「いますよ。いるけど見えないんです。原稿用紙の青と同じです」

「ふはっ、こんな時まで印刷の話か。よっぽど好きなんだな」

「好きですよ。印刷も、本も、革ジャン先輩も、上条さんだって」

「ヒナちゃん……」



 やっと心の底からの本音を上条さんに言えた気がする。

 上条さんは呆れたように小さく溜息をついた。

 革ジャン先輩はベッドの端に座り直して、私の瞳の奥をジッと見据えて言った。



「見えないのに、そこに確かにある印刷もあるんだよ?」

「はい? 見えないのに、ある? 原稿用紙じゃなくて?」

「原稿用紙はコピーすると見えなくなる。その印刷物は、コピーすると見えるようになる。みんなが見えないと思っていても、見えるヤツはいる。オレはヒナちゃんが見える」

「そんな嘘、信じるとでも……」

「嘘じゃないさ。その印刷は……」


 

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