21ページ目 破れた絵本
薄暗い部屋の中、メンズサイズのダボッとしたTシャツをヒラヒラと揺らしながら、私はオレンジ色の厚手のカーテンを勢いよく開けた。
太陽が黄色い。
すがすがしい、朝の陽ざしが目に沁みる。
革ジャン先輩の所でカラー印刷を教えて貰って、少し気持ちも落ち着いた。
まだまだカラー印刷の事は不十分だったけど、ちょっと心が疲れやすくなっちゃったので、一度帰って眠る事にした。寝て起きれば心の疲れも取れるかな、なんて。
もう、寝た寝た。泥のように。
途中、晩御飯時だけ起きて何か食べた記憶があるけど、よく覚えていない。
VRの世界に入り浸っているせいか、時々どこまでが現実なのかわからなくなる事がある。これって、もしかしたらマズい事になってたりしないよね?
VRを使っちゃ駄目と言われたら、それこそ私の心は生きる拠り所をなくして死んでしまう。
そう言えば、そう言えば、マキちゃんからメッセージが入ってた気が……
私は机の上のスタンドにかけられたピジョンを取り、ポスンとベッドに腰をおろす。
そして、それを鼻背にのせると、左親指と人差し指でL字を作る。すぐさまその先に現れるディスプレイ。
私は指先でディスプレイをタッチして、メッセージボックスを開く。
未読のメールは一件。
友だちが少ないのは、今に始まった事じゃあない。私のメッセージボックスは家族とマキちゃんだけで埋まっている。ごくたまに、他の子からメッセージがくる事もあるけど、そんなの月に一度あるかないかだ。
えっと、マキちゃんは何て?
『大丈夫? 気晴らしにどこか遊びに行こうよ』
どこかって、どこ? 古書街なら行きたいかも。
私は本以外の物欲が少ない。可愛い服とかは好きだけど、別に流行の最先端にいる必要性は感じない。自分の好きな服を、好きなように着れればいいだけだ。
後はキエモノくらい? その最たる食べ物は大好き。
美味しい物を食べると、心が満たされる。体重も満たされないように注意しなきゃいけないけど。
マキちゃんへの返信は後回しで問題ないから、まずは顔を洗ってこよう。
そして、今日も……
「さぁ、今日も元気に印刷の事を教えて貰おっと」
* * *
洗面所の鏡の前で、ジッと自分の顔を見ながら歯を磨く。
起きたばかり。ノーメイク。
少し上がった大きな目に、長いまつ毛とパッチリ二重。すっと通った鼻筋に、桜貝のような艶やかな唇。
うんっ、今日も可愛いぞ、ヒナッ!
ちょっとだけ、まゆ毛は薄目だけど。お母さんもお婆ちゃんも同じだから、こればかりはどうにもならない。
ガチャッ。
「わ、おひいはん」
「おー、グッドおはよう! 何だ、口の周りが泡だらけだぞ? 可愛い顔が台無しだ。まずは口をゆずぎなさい」
「ふぁひ」
お爺ちゃんは、私に甘い。もう、コーヒーが砂糖でトロットロになるくらい甘い。
お母さんには厳しいんだけど。だから、よくお母さんと喧嘩している。私を甘やかすなって。
お爺ちゃんは知ってるんだよ。私は褒めてのびる子だって。
私は口いっぱいに水を含んで、念入りに口をゆすぐと、それを流しに吐き出した。
そしてポンポンと叩くように、モフモフのタオルで口を拭いた。
「おはよう、お爺ちゃん。今日も散歩行って来たの?」
「朝が一番気持ちいいからな。若い頃はネオンが似合う男だったのに、めっきり年を取ったもんだ」
「お爺ちゃん……何で普通の年寄りぶってるのよ。夜じゃなくて、朝に走るようになっただけでしょ? バイクで」
フフンと鼻で笑うお爺ちゃんは、何歳になってもヤンチャな悪ガキみたいだ。
男の人って、みんなそうだと思ってた。それが違うんだとわかった時、少しガッカリしたのを覚えている。
やっぱり、男の人はお爺ちゃんみたいじゃなくちゃ、
ポンッと頭に浮かんだのはサカエくんだった。
革ジャン先輩を差し置いて、私の頭に登場するなんて、なかなか太々しい野郎だ。助けてもらったのは事実だけど、私はまだ幼稚園の頃の事を許していない。
「そう言えば、荻原――じゃなかった、市村サカエくんって覚えてる?」
「んほ? あほほひのやふちゃな……」
「お爺ちゃんこそ、ゆすいでからしゃべってよ」
絶対にお爺ちゃんの影響だ。
いっつもお爺ちゃんに遊んでもらっていて、お爺ちゃんと同じ事をしていた結果だ。絶対にそうだ。
お爺ちゃんは顔と口を一緒にふいて、タオルを首にかけた。
ん、大丈夫。私はまだそこまでオヤジ化していない。
「あの時のヤンチャなガキだろ? ヒナを泣かした許すまじクソガキ。バイクの後ろに括りつけて、市中引き回しの刑にしてやろうかと思ったわ」
カンラカンラと笑いながら、トンデモナイ事を口にするお爺ちゃん。
「ヤメて。捕まっちゃうから」
「大丈夫! オレのバイクは後ろに人は乗せられないから」
そういう問題じゃあない。どこか論点がズレている。このズレ加減が、お母さんの癇に障るらしい。何十年も一緒に暮らしているんだから慣れればいいのに。
「で、そのクソガキがどうしたって?」
「会ったの」
「ん?」
「大学が一緒だったの」
「はっ、アイツにヒナと同じ大学に行けるだけの頭があったのか? そりゃあ驚きだ」
お爺ちゃんは目を丸めて感心したように顎を撫でる。
何か、私よりもサカエくんの事を知っている気がするんだけど。気のせいかな?
「オレに恐れをなして、泣きそうになってたクソガキに言ってやったんだ。悪いと思ったんなら態度で示せってな。ヒナに謝らせようと思ったんだけど、あのクソガキは何を勘違いしたのかオレに謝りやがった。阿呆だろ?」
「園児相手に大人気ないって思わなかったの?」
「園児だろうが赤ん坊だろうが、大統領だろうが王様だろうが、ヒナを泣かす男は俺の敵だ。いかなる手段を用いても……」
「……もう、いい」
深い深いため息が、マントルを突き抜ける。
良かった。マキちゃんとサカエくんがカタをつけてくれて。
あの日、私を送ってくれたマキちゃんが、本当の事をお爺ちゃんに話していたら、今頃あの男は海に沈んでいたかもしれない。や、間違いなく沈んでいる。
それはどうでもいいけど、お爺ちゃんが警察に捕まっちゃうのはイヤだ。
「ヒナの本を探すって……おっと」
慌てて両手で口を塞ぐお爺ちゃん。一瞬私と目が合って、すぐに視線を逸らす。
ん? 私の本を探す? 誰が? 何の話?
腕を組んで、斜め上を見ながら口笛を吹く。まるで絵に描いたようなすっとぼけ方。これじゃあ、聞くなと言う方がおかしい。
「何か隠してるでしょ!」
「別に、何も」
「もう、口聞いてあげないから!」
「ごめんなさい!」
「早ッ!」
「話す、話すからそれだけはご勘弁を、お代官様~!」
摩擦で煙が出るくらい、激しく手を擦り合わせるお爺ちゃん
お爺ちゃんはチョロい。愛すべきチョロさだ。あんまりにもチョロすぎて、あまり頼み事ができない。私がお母さんに怒られる。
「ヒナを泣かした日からずっと、あのクソガキは絵本を探していたらしい。古書街やらネットやら、オレにも聞きに来たな。破ったのは自分だから、何とかして手に入れたいって」
「へっ?」
寝耳に水とはまさにこの事だ。
そんな事、知らなかった。って、お爺ちゃんが教えてくれなきゃ、私が知るなんて事はありっこない。
「何日かしたら、自分の貯金はたいて、家の手伝いして小遣い貰って、古書街で見つけたその絵本を手にオレのもとを訪ねて来た。ヒナに渡してくれって」
「そんな事……何で言ってくれなかったのよ! ずっと恨んでた私が馬鹿みたいじゃない!」
「自分からだと言わなくていいからって。もう引っ越すからって。あのガキがそう言ったんだ。今の今まで忘れてたけどな。まぁ、あの時だけは、ガキでもいっちょまえな男だねぇ、なんて感心したわ」
「謝らなきゃ、今日学校来るかな?」
「あのガキ、ヒナがいるかもしれないからこの街の大学に入ったんじゃないだろうな? トンデモネェクソガキだぞ! ちょいと躾てやらねぇと……」
「もうッ、黙ってて!」
私は洗面所を飛び出した。
革ジャン先輩に印刷の事を教えて貰いに行く前に、学校へ行かなきゃ。
サカエくんに会って、ありがとうって言わなきゃ。
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