15ページ目 逃げちゃ駄目だ

「さてさて、これはもう見たまんまだろ?」



 革ジャン先輩の手にした片面全面赤ベタの紙――A判半裁、もしくは菊判半裁くらいの大きな紙。全面ベタと言っても、どこかの会社の白抜き文字とロゴマークが入っている。

 え――っと、どれどれ? あっ、これは全国に何店舗かある複合アミューズメント施設の印刷物ですね?



「見たまんまって、ベタって事しかわかりませんけど」

「おいおい、今まで何を勉強してきたんだ? この紙を見てその感想じゃあ、素人丸出しだぞ?」



 革ジャン先輩の目が驚くほど丸くなる。

 そんな馬鹿にした顔しなくてもいいと思いますけど。今の私は心が疲弊しているから、ちょっとした事で傷つきますよ? いいんですか? 泣いちゃっても。

 ピラピラと揺らした紙をオぺスタの上に置いて私を振り返る革ジャン先輩。

 オぺスタに置かれた紙が、ふわっと少し浮いて見える。

 浮いて見える?

 …………丸まってる? じゃない、カールしてるんだ。



「わかりました、この紙は横目ですッ! 紙が短い方向に丸まってますから。紙を濡らすと目と交差する方向に丸まるんですよね? へぇ~、インキでもこんな風になっちゃうんですね~」



 感心して鼻を鳴らす私。

 オぺスタに顔を寄せて、紙の上部、くるりと丸まって浮いた部分を指先で押してみる。何の抵抗もなく平たくなった紙は、指先を放すとまるで形状記憶合金のように元の形に戻った。

 革ジャン先輩は目を細めてうんうんと何度も頷く。



「よく気づいた」

「当然ですよ。ちゃんと真面目に勉強してきましたから」

「でも、ハズレ」

「は!? なっ、何でですか? 革ジャン先輩教えてくれたじゃないですか! 紙は目と交差する方向に丸まるって」

「それは、紙の目を調べる方法。ん~、そうだなぁ……このガムテープを使って説明してみよう」



 そう言うと、革ジャン先輩は印刷機の表面をボロキレで拭いて、10㎝くらいに切ったガムテープを貼りつけた。

 乳白色の印刷機のボティに茶色いガムテープ。大きな機械が何だか一気にボロ臭くなって思わず笑える。



「そんなに強く貼りつけてないから、一気にこれを引っ剥がしてみな」



 若い革ジャン先輩に教えて貰った、コートが印刷し辛い理由で、同じような説明を受けた記憶がある。足に貼られたガムテープを、一気に剥がさせる絵が頭に浮かんで、ゾゾッと冷たい物が背筋を駆けあがる。

 妙な絵を振り払うように頭を何度も振って、一度革ジャン先輩の顔色を伺う。

 革ジャン先輩の目が「さぁ、やれ」と、私を急かしている。



「括目せよッ!」



 革ジャン先輩のかけ声を合図に、私はゴクリと唾を飲み込んで、少し捲れたガムテープの端を指先で抓むと一気にそれを剥がした。

 ベリッと小さな音を立てて剥がれたガムテープは、私の指先で……丸まってる!?

 丸まってる。くるっと。剥がした方向に。

 私は指先の筒状になったガムテープを目の高さにあげて穴が空くほど見つめる。縦にしてみる。横にしてみる。丸まったガムテープをのばしてみる。



「どう? オぺスタの印刷物のように丸まっちゃうだろ?」

「はい……けど、何でですか?」

「くっつこうとする力と剥がそうとする力が引っぱり合って、横方向に逆反りのクセをつけちゃうんだよ。印刷物の場合、上にあるブランケットと下にある版胴の間を紙が通ってくるだろ? 上にくっつく力とそれを剥がして引っ張り出す力で、下方向――印刷されていない方向に丸まっちゃうって訳」

「それって、目は関係ないんですか?」

「関係あるよ。結果は同じだけど。この紙は縦目だからこの程度で済んでるんだ。これが横目だったら死ぬほど刷り辛い」

「死ぬほどって、大げさですよ」

「や、マジで御免被りたい」



 革ジャン先輩は眉を八の字に歪めて肩を竦めた。

 本気で嫌がってる。

 


「横目の紙だったらそのガムテープ並みに丸まるんだよ」

「このガムテープ並みに!?」



 や、ちょっと待ってください。

 印刷機の中を紙が通過してきて、排紙台の上に印刷物が積まれていくじゃないですか? フワッ、フワッと。

 前後左右に紙を揃えるガイドがあって、紙を綺麗に揃えるんですよ。ベビーの印刷機もそうでした。それが丸まって紙が出てくるんですよね? どうやって紙を揃えるんでしょう? そもそも、積む事だって出来ないじゃないですか。



「それって、印刷出来るんですか?」

「そこはオペレーターの腕の見せ所」



 ニィッと笑う。得意気に。自信満々に。こういう所を見ると、ああお爺ちゃんなんだなって感じる。

 結局革ジャン先輩は、今も昔も未来も、自信家の革ジャン先輩なんだ。でも私は知っている。失敗するとシュンってヘコんだりもするんだ。



「まず第一に、インキを軟らかくする」

「はぁ、軟らかくですか」

「第二に、印刷スピードを落とす」

「――!? ちょっと待ってください。過去の革ジャン先輩も同じ事言ってましたよ? 軽オフの印刷機でコートを刷る時に、今言ったような事をするって」

「その通り!」



 私の頭を優しく包む革ジャン先輩の大きな手。温かい手。優しい手。

 私に振れる男の人の手が、みんなこれくらい安心できるといいのに。これがもし若い革ジャン先輩だったら、安心どころか逆に血圧が上がっちゃうんだろうけど。

 や、今は考えるのをヤメよう。忘れよう。

 今はまだ、若い革ジャン先輩に会うのも怖い。私に触れる手を拒絶してしまいそうな自分が、怖い。



「ベビーは紙を掴む爪の力が弱いからブランケットにくっつく。この機械は剥がす力が強いから紙がカールする。原理は同じ。ガムテープも一気に剥がすより、ゆっくり剥がした方が丸まり方が少ないから」

「自分で言うのも何ですけど、私って凄いですよね?」

「ん、ちゃんと勉強している証拠だな。教え甲斐があるよ」

「ありがとうございます!」



 革ジャン先輩に頭を撫でられるの、好きです。私は褒められて成長する子ですから。



「他にも、下から紙を吸い込んで逆反りを加えるカール防止の装置があったりするのが大きい印刷機のメリットだね。だからと言って刷り辛い事に違いはないんだけど。後は、紙の表にベタを印刷するとか」

「表?」

「紙を濡らすと表側に反るって教えただろ? 印刷後の下反りが軽減するんだ」

「なるほど」

「ベタの部分が反るから、余白部分を多くすれば改善するしね。この印刷の場合、六面付けのA半裁ほぼ全ベタだから、面付け数を減らして天――上方向にベタがこないようにするだけでも刷りやすくなる」



 今回の話を纏めると、ベタ印刷をする場合、紙を引っくり返して表を向け、インキを軟らかくし、印刷機のスピードを落として、カール防止を使った上に、ベタ面積がすくなくなるように印刷すれば完璧な訳ですね。

 刷り辛いって言うのがよくわかりました。



「出来ない訳じゃない。けど、知識がなければ、その印刷は不可能になる。そこは経験だな。あの手この手、手を変え品を変え、オペレーターは日々難しい印刷を克服しているんだ。仕事だから、お手上げなんて言ってられないだろ? 人間関係もそう。逃げてちゃ始まらないし、一生逃げ続けるのも馬鹿らしいだろ?」

「――!?」



 革ジャン先輩がジッと私の目を見つめる。心の中の全部が見透かされてしまうようなその強い眼差し。

 知ってる訳――ないよね? でも……

 私は視線を逸らして気持ち俯く。

 逃げたっていいじゃないですか。それくらい私は傷ついたんです。怖かったんです。面白おかしく笑ってなんていられないんですよ。

 革ジャン先輩がすぅっと私の頬に触れる。そして、指先でペチペチを頬を叩いた。



「何があったかなんて聞かない。けど、何があってもヒナちゃんには味方がいるだろ? 家族や友だちや、もちろんオレもだ」

「そんな……VRのクセに」

「VR?」

「や、ごめんなさい。何でもないです」

「ヒナちゃんをイジメるヤツがいたら、バイク仲間引き連れて特攻かけてやろうか?」

「やーめーてー! 私の品位が地に落ちますから」

「何だと、コラッ!」



 コツンと革ジャン先輩の拳が頭に落ちる。

 笑った。自然と口から笑い声が出た。

 現実世界では、マキちゃんが私の為に動いてくれている。私は逃げたままでいいの? 隠れたままでいいの?

 革ジャン先輩の冗談じゃないけど、お爺ちゃんに言ったって今の革ジャン先輩と同じ台詞が返ってくると思う。多分、本気でバイク仲間を連れてくる。1950年代のイギリス発祥のRockersと呼ばれたバイク乗りをリスペクトした、男臭く厳つい集団を。

 幸いにも未遂で済んだ。けど、このまま泣き寝入りなんてしちゃ駄目だ。私には味方がいる。被害者が引き籠るなんて、そんな世の中は絶対におかしい。



「そう――ですね。このままだと、若い革ジャン先輩の顔を真っ直ぐ見れなくなっちゃいますから」

「ちょっ、まさか過去の俺との修羅場が原因じゃないよな?」

「ち、違いますよ! 何ですか、修羅場って」

「言っていいの?」

「結構です!」

「エッチ」

「誰がですか!?」



 もう、革ジャン先輩は、どこまでも革ジャン先輩だ。よく知っている。お爺ちゃんもそのまんまだから。

 私は対決しなきゃいけない。もっと笑える為に。私の大切な時間を、あんなにも下らない事の為に、沈ませておくなんて勿体ない。

 行こう。明日は学校に。

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