14ページ目 工場のオバケ

「…………ん?」


「……ちゃん?」


「ヒナちゃん?」

「ひゃいッ!」



 大きく肩を弾ませて、ハッと我に返る。

 広い工場の大きな印刷機の隣で、ガシャンガシャンと大きな音を立てながら次から次へと積み上げられていく紙の一枚を抜き取りオぺスタに広げ、印刷面にペン型のルーペを立てながら心配そうに私を振り返る革ジャン先輩。



「大丈夫か? 浮かない顔してるけど」

「平気です。ちょと、疲れてる――のかな?」

「そう? じゃぁ、少し待ってて」



 ガシャンガシャンとリズミカルな音が工場内に響き渡る。時折、エアーコンプレッサーが思い出したように動き出し、印刷機の音と重なって私の耳を刺激する。

 ちょっとボーッとしていた。

 色々な事が起こりすぎて、心が疲弊している。

 VRの世界では、私の体に出来た生々しい傷は、ない。綺麗なものだ。まるで何もなかったかのように。


 私は昨日、男の人に襲われた。

 それくらいしか、昨日の事は覚えていない。

 お母さんの話だと、マキちゃんに連れられて帰ってきたらしい。

 擦り傷は綺麗に消毒されて手当てが施されていた。酔って転んでしまったと、深く深く、とても申し訳なさそうに頭をさげながらマキちゃんが言っていたそうだ。

 私はそのまま着替えもせずベッドに倒れ込んだらしい。朝まで一度も目を覚まさなかった。泥のように眠っていた。

 起きてすぐ頭を掠めた昨晩の出来事に、私は布団をギュッと抱きしめて身を震わせた。

 触られた。触られれてはいけない場所を、いいように弄ばされた。唇に、イヤな感触の覚えはない。覚えはないだけかもしれない。

 布団を抱きしめる腕に力が籠る。

 恐るおそる、見た。そんな馬鹿な事、なんて思われるかもしれないけれど、本当に、本当に怖かった。スキニージーンズの下、ピンク色の薄い布きれの中、そこに何の痕跡も見つからず、張りつめていた緊張の糸が切れ、思わず涙が零れ出た。

 よかった。あんな男に奪われなくて。

 これもみんな、マキちゃんのおか――げ?

 電話の向こうの、私を探すマキちゃんの声を覚えている。じゃぁ、私を助けてくれたのは、誰? 革ジャン先輩に抱かれているような、心地よさがあった気がする。けど、革ジャン先輩は、現実じゃぁない。

 マキちゃんと帰ってきたのなら、きっと彼女が知っているはず。


 私が電話をかける前に、マキちゃんから電話が入った。

 マキちゃんは親身になって私の体の事を心配してくれていた。私は意を決して、昨晩の事を聞いてみた。けど、マキちゃんはハッキリとは教えてくれなかった。

「カタをつけるから、二、三日学校休んでて」とだけ言い残して、マキちゃんは電話を切った。

 学校を休めと言われても、私は本を読む事くらいしか出来ない。今のこんな気分では、本を読んでも心の底から楽しめない。それどころか、余計に昨日の事を考えてしまう。だから、私は革ジャン先輩に会いに来た。

 革ジャン先輩に印刷を教えて貰っていれば、少しは気が紛れるんじゃないかと思って。それでも結局、この体たらくだ。

 気を取り直そう。今は、印刷の勉強だ。



「ヒナちゃん、お待たせ。ホント、大丈夫か? 椅子もってこようか?」



 まあるい眼鏡の向こうの瞳に心配の色を浮かべ、私の顔を覗き込む革ジャン先輩。

 そんな革ジャン先輩の優しさが胸に沁みる。みんな、男の人みんな、革ジャン先輩のように優しければいいのに。



「大丈夫ですよ。さぁ、印刷の事を教えてください!」



 私は精一杯の笑顔を返して、ススッと革ジャン先輩の隣に寄った。革ジャン先輩は小さな溜息をつき、私の小さな頭をポンポンと叩く。まるで、子供をあやすように。

 まぁ確かに、この時代の革ジャン先輩の子供くらいの年ですけど。



   *    *    *


 オぺスタに広げられた一枚の大きな紙。印刷面は多分A4の四面付けだから、紙のサイズは菊判だ。私は凄い。もう、印刷物を見ただけで、紙のサイズがわかる。

 青と墨の二色刷り。四面の右二面と左二面が同じ柄。という事は、ドンテン版に間違いない。



「菊判ドンテン、墨と藍2/2の印刷だ。印刷の後に折り加工に行くから紙は横目。ちなみに凄く刷り辛い」

「またですか? 若い革ジャン先輩が言ってましたけど、ボコボコの紙が刷り辛くて、ツルツルの紙も刷り辛くて……私が見た印刷物で、刷りやすい印刷物って見た事ないんですけど」

「簡単そうに見えて、印刷は難しいんだよ」

「それは、まぁ、わかりますけど」



 何か言いくるめられたようで腑に落ちない。

 けど、印刷物の柄を見ると、やっぱりそう、簡単には見えない。

 A4サイズに仕上げた時、その淵っこ1㎝くらいの幅で、ぐるりとベタが取り囲んでいる。



「この枠ベタが曲者でね」

「枠ベタって、この青くて太いベタの事ですよね? これがそんなに難しいんですか?」

「ここを見てごらんよ」



 そう言って、革ジャン先輩は縦のベタと横のベタの交わる角を指差す。

 横のベタと交わる縦のベタの境目に色の違いが見て取れる。よくよく見ると、縦のベタの方が濃度が薄い。薄い? 見事に縦のベタだけ薄いって、何で?



「革ジャン先輩ッ! ここ、ここ! ベタが薄いです。ん? 縦のベタが薄いんですか? 横のベタが濃いんですか? ん? ん?」



 私は腕を組み、眉間に皺を寄せて首を捻る。

 濃い、薄い、薄い、濃い……枠ベタの縦が薄くなる。

 家庭用プリンターってそんな風になりましたっけ? 印刷との違いって、何?



「これがゴーストだ」

「はぁ?」



 私は目をぱちくりさせ、革ジャン先輩の指先に再び視線を落とした。

 


「ゴーストってオバケですか? 印刷会社ってオバケが出るんですか?」

「何で印刷物の話をしてるのにオバケの話になるんだよ。これが刷り辛い理由の一つなんだよ」

「はぁ……じゃぁ、これは直らないんですか? このまま?」

「印刷機の機構上ね。軽減はできるけど完全になくなる事はないな」

「何でですか? 教えてください、革ジャン先輩! よろしくお願いします!」



 革ジャン先輩は印刷された紙を裏返してボールペンを立てると、私の方を振り返ってニヤリと笑った。



「説明しようッ! 耳の穴かっぽじってよく聞けよ、ヒナちゃん!」



   *    *    *


 インキツボ――インキを入れる所に、インキの量を調節するモーターがあるんだ。19個。そのモーターがブロックを前後させてインキの量を調節していると思ってもらえればいい。

 で――だ、この機械の仕様が660㎜とした場合、一個のブロックの幅は?

 そこの電卓を使っていいよ。うん、そう、そう、34.73㎜――大体、35㎜って事。

 その35㎜のブロックをインキツボのローラーから離せば、隙間が大きくなってインキの量が増える。でも考えてごらん? 35㎜のブロックが前後する事でインキ量を調節するって事は、その35㎜の幅の中は柄が多かろうが少なかろうが、同じインキ量になるって事だろ?

 印刷機はピンポイントでインキの量を増やす事は出来ない。そもそも、何本もあるローラーで練り上げられたインキで、ピンポイントで濃くしたり薄くしたり出来っこないんだよ。

 そんなに難しそうな顔しなくてもいいって。簡単に考えてみよう。

 例えばローラーが二本くっついている。そこにインキをちょんとつけてみる。どうなる? インキをつけた所から、のびて左右に広がっていくよな?

 その時、一番インキが濃い場所がインキをつけた所で、そこから左右に離れるにつれてインキが薄くなっていく。

 インキの量を増やした所から、インキは横に流れていっちゃうんだ。

 それを踏まえて、もう一つ考えてみよう。


 例えばそうだな、今度は4ブロック――140㎜の幅でインキの増やしてみる。

 さっきの話から、140㎜の幅の中で一番インキが濃いのは真ん中くらいだね。端っこは横に流れていくから少し薄くなる。

 さて、この140㎜の幅の中に、幅1㎝、長さ10㎝の縦ベタと横ベタがあったとする。その場合、一番柄が多い箇所は?

 印刷の柄の量は縦で考える。だって、紙がそうやって出てくるだろ?

 この場合、柄が一番多い箇所は、幅1㎝の縦ベタのある所になる訳。

 ここで、ローラーに均等にインキが乗っていたとした場合、柄の多い縦ベタの箇所が一番ローラーのインキを消費するだろ? 同じ量インキが乗っているのに、柄によって消費するインキ量が違う。

 供給量も均一、消費量が違う。さて、一番薄くなるのは? そう、一番柄が多い場所って訳。


 薄くなった所を濃くするには? 当然だな。インキの量を増やせばいい。

 じゃぁ、増やしてみよう。35㎜のブロックの隙間を増やしてインキの量を縦ベタの箇所だけ増やしました――と。そうすると、35㎜の幅のインキが濃くなりました。

 確かに幅1㎝の縦ベタが濃くなったかもしれないけど、柄が多くない横ベタも一緒に濃くなるよね。だから、枠ベタにはインキの濃淡が出ちゃうんだよ。

 これをゴーストって言う。

 印刷をやっていると、必ずぶち当たる問題だな。この機械はまだいい方だよ。ベビーの機械は、もっとゴーストが酷い。これも機構上の問題なんだけどね。

 同人作家は結構ベタが好きが多いから、本当に苦労した記憶しかない。まぁ、濃淡の目立たない墨インキなのが救いだけどね。



   *    *    *


 はぁ、色々な問題があるんですね。

 ゴーストですか。もう、デザイン変更するしか方法はないって事ですね。

 同人誌作家の方々は、枠ベタ厳禁です。

 けど、これが刷り辛い原因の一つって事は他にも……



「この枠ベタで、ゴーストの他にも刷り辛い理由ってあるんですか?」

「あるよ。今度の理由は枠ベタに限らず、ベタの多い印刷物全般だけどね」

「枠ベタも駄目、ベタの多い印刷物も駄目って、じゃぁどうするんですか? 文字しか印刷できないじゃないですか!?」

「別に駄目だなんて言ってないだろ? 刷り辛いってだけで。じゃぁ、今度は全ベタ印刷の説明をしようか」



 革ジャン先輩は印刷機の向こう側に一旦姿を消すと、戻って来た時には手に一枚の紙をピラピラと揺らしていた。片面を真っ赤に印刷された紙を。

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