13ページ目 For Whom the Tel Tolls

 ん……うん……



 革ジャン……セン……パイ……



 駄目……駄目ですよ……そんなとこ……触っちゃ……



 ヒャッ……気持ち……いい……



 あっ……や……もっと……うん……やさしく……ああ……



 はっ……はぁ……はぁはぁ……ん……んッ……はぁ……




 あ――れ?

 ここは、どこだろう? 何だかフワフワする。

 革ジャン先輩? 革ジャン先輩?

 あっ……革ジャン先輩の手が……

 私、このまま革ジャン先輩と……


 革ジャン先輩――と?

 私は何をしていた? どこに、いた? ここは、どこ? 今は、いつ?

 思い出せ。

 頭が痛い。目を開けていないのに、何だかグルグル回っているような気がする。


 んッ……やッ……

 抱き締められてる。革ジャン先輩? そんな訳、ない。

 私と革ジャン先輩はそんな関係じゃない。


 何かが聞こえる。車の音。人の声。誰? 何て言ってるの?



・・・・・・・・・・・チッ、何で今日に限ってジーンズなんだよ



 声が遠い? よく聞こえない。何て言ってるの? 頭がぼんやりしていて、今の状況がまるで飲み込めない。

 私はその場から離れたくて体に力を込める。けど、力が入らなくて、私を抱くその力にまったく抗えない。


 チリリーン、チリリーン、チリリーン……


 オールドタイプのスマートフォンの着信音が聞こえる。たぶん、私のスマホだ。

 ピジョンは普段持ち歩いていない。VRの――『ようこそ、街の印刷屋さんへ!』の起動ファイルが入っているから。もしそれが壊れたりしたら……なんて考えると、怖くてとても持ち歩けなかった。


 チリリーン、チリリーン、チリ……


 スマホは20回ほど着信音を繰り返して、再び眠りにつく。誰からだろう? 何の用だろう? そうじゃ、ない。私は何をしているんだろう?


 チリリーン、チリリーン、チリリーン……


 すぐに再び鳴りだす着信音。誰も止めない着信音。

 閉じた目の裏の、深い深い暗闇に吸い込まれるように、オールドタイプの電話のベルが沈んでいく。



 チリリーン、チリリーン、チリリーン……

・・・・・・・・・・・五月蠅いな。どうせ、あの女だろ? 一度、出ておくか



 男の人の声。聞き覚えのある声。この声は……

 段々と意識がハッキリしてくる。けど、まだ体の自由が利かない。

 私は耳に全神経を集中させ、一言も漏らさぬよう聞き耳を立てた。



「ヒナッ! 今どこ? 聞こえる? ヒナッ!」

「もしもし……」

「アンタ……ヒナは? ヒナはどうしたの? ヒナに代わって!」



 マキちゃんの小さな声が聞こえる。

 聞いただけで、わかる。声が怒気を帯びている。



「ヒナちゃんが帰るって言うから、送って行こうと思ったんだよ。体調悪そうだったからね。今、タクシーを待ってる……」

「ウソッ! 全部、聞いたわ! アンタ、ヒナに薬を盛ったでしょ?」

「なーんだ、もうバレたのかよ。口の軽い連中だな。貰った金くらいの働きはしろってーの」

「ふざけないで! ヒナに何かあったら承知しないから!」



 何かあったら? 何があるの、マキちゃん?

 私は何を……そうだ! お酒飲んでたんだ。マキちゃん達と、男の人――サカエくん達と。それで、どうした? 

 貴重な本を貰って……や、あれは返した。帰り際に。そう、帰ろうとしてたんだ。

 マキちゃんがお手洗いに行っている時、サカエくんに貰ったお酒を飲んでからの記憶がまったくない。

 薬を盛られた? 今、マキちゃんがそう言ってた。

 えっ? 何? 私、もしかして……



「別に酷いことはしないって。ちょっと天国へ連れてってやるだけだから」

「ちょっ、駄目。ヤメて。お願い、ヒナを帰して。お願いだから」

「ハハッ、何? お前、馬鹿なの? 今度は懐柔策に出た? 家に帰って指でも咥えて待ってろよ。多分、明日には帰してやるから。明日には、帰りたくないなんて言い出すかもすれないけどな」

「ヤメて! ヒナッ! ヒナッ! 聞こえる? ヒナッ!」



 それ以降、マキちゃんの声は聞こえなくなった。

 私の体が不快に震える。


 チリリーン、チリリーン、チリリーン……


 鳴り出すスマホ。もう、マキちゃんに繋がる事は、ない。



「馬鹿だねぇ。こんなにいい女、何もしないで帰す訳ねぇじゃん」



 私の太腿に指が這う。

 ヤダ、ヤダ、ヤダ、ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ……

 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

 私の目がやっと光を拾い上げる。

 暗い濃紺の、高く高く浮かぶ純白の月光の、その周りで星のように煌めく電灯の、静かな夜の美しい絵の中に、サカエくんの顔があった。


 私は必至に体を捩る。叫びたいのに、呻き声しか出てこない。そんな私を見下ろして、サカエくんはこの世の物とは思えない下卑た笑みを満面に浮かべた。

 信じられない。こんな事をするような子に思えなかったのに。

 私は騙されてたんだ。私の大好きな本を利用して。本なんか、全然好きじゃない癖に。悔しい。本を馬鹿にしてる。

 視界が滲む。光が歪む。

 弱々しく瞬きした拍子に、目から涙がこぼれ落ちる。



「チッ、目ぇ覚ましちまったじゃねぇか。ちょっと待ってろよ。すぐにタクシーがくるから。そんなに怖がる事ないって。すぐに気持ちよくしてやるから」



 ヤダ。助けて。誰か、助けて。

 怖いよ。怖い。革ジャン先輩。革ジャン先輩ッ!

 私は力いっぱい首を振る。実際には大した抵抗になっていないのかもしれないけど、諦めたりなんかしない。こんな男に、自分を差し出す気はない。


 ニヤニヤと、醜悪な笑みを浮かべたまま、私の頬を撫でるサカエくん。

 触れられるのも気持ち悪い。虫唾が走る。私は力の限り、嚙み千切るくらいの勢いでその手に歯を立てた。



「イテッー!! イテェって! 放せこのクソアマ!」

「あうッ!」



 地面に転がる私。

 頭がジンジンする。目がチカチカする。

 まだ自由に体が動かない。それでも私は地面に爪を立て這いつくばり、必至になってその場から逃げようと試みた。逃げられる訳もないのに。



「おいおい、付け上がんじゃねぇぞ? ガキを産めない体にしてやろうか?」

「ううッ……」

 助けて、助けて、助けて、たすけてたすけてたすけてたすけてたすけて……



 チリリーン、チリリーン、チリリーン、チリリーン、チリリーン……


 サカエくんが倒れた私を乱暴に抱き起し、体中を執拗に撫でまわす。

 腕も太腿も、胸も、お尻も……

 そして、私の首に厚い吐息をからめ、私の口に……


 ドガッ!!


 本当に、そんな音が聞こえてくるくらいの勢いで、サカエくんの首が一気に横に振れる。地面に転がるサカエくんと、私を後ろから抱きかかえる誰か。誰か?

 冷たい革の、擦れる音と感触。



「革ジャン……先……輩?」



 瞳から溢れる涙で世界が滲んで、よく見えない。濡れた頬に吹き付ける風が、私の体温を奪っていく。

 けど、私はその冷たさの中に、不思議なくらいの安堵感を覚えていた。


 チリリーン、チリリーン、チリリーン……


 鳴りだすスマホ。私のスマホ。

 私を心配してくれるマキちゃんの、私の大切な友達の、唯一繋がるスマホの、ベルが鳴る。

 私のためにベルが鳴る。私のためにTelが鳴る。



「ああ、オレだ。見つけた。大丈夫だ。駅裏の公園にいる」



 誰だか知らない人の声。私を助けてくれた人の、声。

 私はその声と、ぼんやりと見えるシルエットに、革ジャン先輩の姿を重ねていた。

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