7ページ目 誰?

 ゴクッ……


 大きく喉を上下させ、周りに音が聞こえるくらいの勢いで唾を飲み込む。

 赤を基調とした二階建ての木造の建物。

 私は歩道の並びに等間隔に植えられた太い街路樹の影に隠れ、正面ガラス張りのお店の中をそっと覗き込む。

 お店の前を行き来する人達が、挙って不審な視線を私に向ける。ちょっと、ピョコピョコと街路樹から顔を覗かせているだけなのに、そんな目で見なくてもいいと思う。

 心臓のスピードがグングンあがる。フルスロットル、レッドゾーン。

 ゴツゴツした街路樹にもたれて、何度も深呼吸を繰り返す。


 どんなテンションでお店のガラス戸を開ければいいのかわからない。再び会えるようになったらなったで、すぐこの時代へ来る事ができなかった。

 革ジャン先輩の顔を見たら思わず泣いてしまいそうで、ずっと二の足を踏んでいた。

 もう二度と会えないと思っていた若い頃の革ジャン先輩が、お店の奥のドアの向こうにいる。

 彼の笑顔を脳裏に浮かべただけで、私の大きな瞳に滾々と涙が湧いてきた。革ジャン先輩に会うのに、崩れたメイクなんてあり得ない。

 淡いピンクの大人可愛いショルダーバッグから手探りでハンカチを取り出し、軽く叩くように目尻の涙を拭き取る。そして、もう一度大きく息を吸い込むと、顔の半分を街路樹から覗かせた。


 あっ、革ジャン先輩だ!


 大きなガラス戸に飾られた真っ赤なカッティングシートの向こう、奥のドアから出て来た革ジャン先輩が、桧山さんと何か話している。店内の壁側で、旧タイプのマッキントッシュの前に座る上条さんと園田さんが見える。

 今がチャンス。

 みんなの前なら、いつも通り明るく挨拶できるに違いない。

 私は意を決して店の前に躍り出る。そして緊張の波に飲み込まれるよりも早く、ガラス戸に手を掛けた。



「こんにちはー!」



 私の快活な声が店内に木霊する。一斉に私を振り向くみんな。

 上条さんが席を立ち、爽やかな笑顔を私に飛ばす。



「いらっしゃ……」

「誰?」



 えっ!?

 上条さんの言葉を遮るように、革ジャン先輩の冷たい一言が私の胸に深々と突き刺さる。私はただ呆然とその場に立ち尽した。

 ちょっとよく聞こえなかった。今、革ジャン先輩は何て言ったんだろう? 『誰?』って言ったような気がしたけど。

 私は慌てて革ジャン先輩に駆け寄り、深々と小さな頭をさげる。



「革ジャン先輩、また印刷の事を教えて貰いに来ました! よろしくお願いします!」

「あっ、同人誌のお客さんですか? でしたら、まず受付を……」

「ちょっ、何言ってるんですか? ヒナですよ、ヒナッ!」

「え――っと、どちらのヒナさんでしょうか?」

「ヤメてください、そんな冗談は。いっぱい印刷の事を教えてくれたじゃないですか!」

「誰が?」



 そんな……革ジャン先輩が私の事を忘れちゃった。あんなに沢山、印刷の色々な事を教えてくれたのに。

 優しく笑いかけてくれた。飴玉も貰った。名刺を作ってもらった。一緒に同人誌即売会に行って手も繋いだ。その全部――全部を忘れちゃった?

 もしかして、間違えて最初に飛んだ過去よりももっと前に来ちゃったんじゃ……ううん、そんな事はない。若い革ジャン先輩と最後に会ったのは、同人誌即売会デートした日だったから。男の人とデートしたのなんて生まれて初めてだったんだよ。そんな日を私が忘れっこない。

 ガクガクと足が震える。胸がギューッと締めつけられる。

 私は小さく首を振り、弱々しくその場に崩れ落ちる。

 一気に涙が込みあげてくる。

 鼻先で我慢するも虚しく、私の堤防はあっという間に決壊した。



「わーん! 革ジャン先輩が~! わだじをわずれじゃっだよぉ~!」



 店の冷たい床に突っ伏すように体を丸め、人目も憚らず私は全身を大きく振るわせた。滝のように流れ落ちる涙がみるみる袖を濡らしていく。

 


「ッグ……ヒックヒック……スン……ッグ……革ジャン先輩~……わーん!」

「ちょっと、革ジャンさん、やりすぎ! ヒナちゃん、可哀想」

「わわっ、嘘、嘘! ヒナちゃん、冗談だって!」



 オロオロしながら私の目の前で膝を折り、必死に弁解する革ジャン先輩。それを呆れたように見おろし、小さなため息をつく上条さん。

 私は勢いよく体を起こし、土下座するような体勢で革ジャン先輩を見あげた。



「嘘――ですか?」

「当たり前じゃないか。俺がヒナちゃんを忘れっこない」

「本――当?」

「ホント!」



 嘘のように涙が止まった。

 革ジャン先輩は腫れ物に触るように、私の周りで両手を大きく泳がせる。

 ホッと胸を撫でおろすのと同時に、枯れたはずの涙が再びブワッと吹き出す。



「わーん、よかったよ~! 革ジャン先輩が忘れてなかった~」



 私は勢いよく革ジャン先輩に飛びつき、倒れた彼の胸に顔を押しつけ号泣した。



    *    *    *


 ああああああぁぁぁぁ~!!

 

 私は背中を丸め濃緑のデスクマットに両肘をつき、挟み込むように頭を抱えた。頭に立てた十本の指が私の絹のような髪を掻き乱す。

 ホッとして、ひとしきり泣いて、落ち着いて、自分の仕出かした行動に後悔だけが残る。

 いったい私は何をした?

 仰向けに倒れた革ジャン先輩に馬乗りになり、しがみつくように彼の胸に顔を埋め大泣きした。それって、どうなの? はた目から見てどうなの?

 短いスカートで男の人に跨っているその体勢って、どうなの?


 ああああああああああああぁぁぁぁ~!!


 思い出したくない。消えろ! 消えてしまえ、この記憶!

 そう思えば思う程、革ジャン先輩の温かさが、匂いが、全身で感じた感触が、頭の中で何度も何度も繰り返し鮮明に蘇る。

 顔が熱い。ただ只管、悶々とする。体中の至る所がむず痒い。

 恥ずか死ぬ。悶え苦しみ、恥ずか死ぬ。


 ああああああああああああああああああぁぁぁぁ~!!


 声にならない異音を発し、俯きデスクマットの白い方眼を睨み、頭に立てた細い指先を前後に細かく揺する。窓から差し込む光でキラキラ輝く髪の毛が小刻みに揺れ、デスクマットの上を掃除する。

 何で私がこんな辱めを受けなきゃいけないのだろう?

 涙が出るくらいは予想していたけど、革ジャン先輩の胸で泣くなんて想定外だ。

 全部、革ジャン先輩のせいだ。段々腹が立ってきた。缶ジュースくらいじゃ絶対に許してやらないから。



「ヒナちゃん、革ジャンさんを押し倒したんだってぇ?」

「なー、何でそんな言い方するんですか!」



 私は叩きつけるように机に手をつき、髪を振り乱して振り返る。

 作業部屋入口の煤けた襖の横に、明るい茶色の前スリットのロングスカートに、襟ぐりが広い大き目のプリントTシャツを着た、ユルフワな女性が立っていた。

 私はその女性を見てポカンと口を開ける。

 誰――でしょうか? 初めて見る……初めて見る?

 もしかして、その途轍もない破壊力を秘めたぶきの持ち主は、同人誌即売会であられもない姿を晒していた川口さんじゃないですか?



「一瞬、誰だかわかりませんでしたよ。前に会った時と全然格好が違うから」

「ふふっ、あの格好で仕事はないでしょ。私は全然あの格好でもいいけど」

「何て事言うんですか!? 駄目ですよ。あんなエッチな格好」

「エッチって……革ジャンさんも見るから?」

「なっ、そっ、そんな事……」



 完全に見透かされている。私の頭の中は川口さんに筒抜けだ。

 川口さんは口を手で隠し、含み笑いを漏らす。



「ヒナちゃんもやるわねぇ。お店で革ジャンさんを押し倒……」

「……してません!」

「えー? 革ジャンさんに跨って体を擦りつけ……」

「……てません!」

「じゃぁ、革ジャンさんの厚い胸板に頬ずり……」

「……してません! ただ泣かされただけです! 何でいちいちエッチな言い方をするんですか!?」



 私は眉間に皺よ寄せて口を尖らせる。

 絶対に揶揄ってるだけだ。困っている私を見て楽しんでいるだけだ。

 襖に寄り掛かって、俯き口に手を当てたまま、小さく肩を振るわせる川口さん。



「そんなに怒らなくてもいいのに。革ジャンさんが戻ってくる前に御暇す、る、か、ら」



 もう怒る気力も起きない。本来ならこういったタイプは苦手な部類に入る。

 どこかマキちゃんに似ている気がする。所持している武器は格段に上だけど。

 川口さんは部屋の隅の段ボールの前で膝を折り、中から原稿の入ったビニール袋を選別し始めた。

 二階の作業部屋の奥。窓際の大きな机の前で椅子に座る私の目線は斜め下。

 おおぅ!?

 作業をする川口さんのスカートの深すぎるスリットの奥に、見えてはいけない鮮やかな薄い布切れが覗いている。しかも、屈んだ体勢で重力によって広がる襟ぐりの奥にも、見えてはいけないふくよかなが――けっ、けしからーんッ!!



「かっ、川口さんッ! 全部、見えてますよ!」

「んー、気にしなくていいよ」

「気にしてください! いつもそうなんですか!? 革ジャン先輩に見られたらどうするんですか!?」

「えー、いつも見られてるよ」



 いつも見られてるって……わかってて見せてるんですか!?

 危険すぎる。自ら獲物を狙う肉食獣の方がまだマシです。誘い込んで食らいつく、食虫植物並みに危険な女ですよ。

 まったく気にする素振りもなく同じ体勢のまま作業を続け、目的の原稿を抱えて立ち上がる川口さん。

そこへ紙袋とビニール袋を下げた革ジャン先輩が戻ってくる。



「ヒナちゃん、お待たせ。さっきのお詫びにデザートも買って……」



 私は全力で革ジャン先輩に駆け寄り、彼の腕を力いっぱい引き寄せた。

 頬をパンパンに膨らませる私を、キョトンと見おろす革ジャン先輩。



「……してください」

「は?」

「転職してください」

「はぁ!?」

「今すぐ仕事を変えましょう! ここは、教育的にも精神衛生的にも好ましくありません。ああっ、でも上条さんが……もうッ!! どうすればいいの?」

「ちょっ、落ち着きなよ。何がどうしてそうなった?」



 狼狽える革ジャン先輩の首筋に手を伸ばしスゥッと撫であげた川口さんは、さも楽しそうにクスクスと笑いながら階段をおりていった。

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