6ページ目 ヒナ二号
雲一つない澄んだ青空が視界の上半分を綺麗に塗り潰す。
っと、こんな言い方をしたら、きっと革ジャン先輩に怒られちゃう。『インキの何を勉強したんだ?』なんて。
空一面の青空なんて、この世には存在しないんだよ。
一番濃い青の真上から山の向こう――視界のずっと先に向かって緩やかにグラデーションがかかって見える。
革ジャン先輩の所で印刷を教えて貰う度に、ちょこちょことカラーチャートを見て色の勉強もしてきたから、最近はそんな風景の色にも敏感だ。
景色を見ながらそれに当てはまる色をあれこれ思い浮かべたりして。
澄んだ空の色は、差し詰めDIC182くらいかな? それが段々と薄くなって、ずっと遠くに見える山の上では白に近いブルーに変わる。
色って、本当に不思議。
光の加減で変化する色。それを紙に再現するインキ。
色って、本当に面白い。
私の通う大学のキャンパス中央の時計塔下。それをグルリと囲むように並んだ背もたれのある木製ベンチに座る私。見あげると丁度時計の文字盤が見える、塔の真正面が私の定位置。
暖かくて心地いい風が私の頬を撫で、絹のような艶やかな髪を微かに揺らし通り抜ける。陽の光に映える、目が痛くなるほどの鮮やかな緑の植え込みが、カサカサと小さな音を立てて踊るように揺れている。
こんな気持ちのいい日は、読書が最高だ。
「60て~ん」
自然光を柔らかく反射する、端が少し黄ばみかかった書籍用紙。そこに、まるで美しい絵画のように並ぶ明朝体の小さな文字。
「78て~ん、65て~ん」
左親指で本を支え、開いた手で一枚一枚ページを捲る。
一枚の紙を抓んだ指先に、滑るような、そしてザラザラもしたような手触りを感じる。
指と紙の擦れるパリッとした小さな音が耳を……
「おー、86点! 今の所最高得点です!」
「あー、もうッ! 五月蠅~い!!」
周りを行きかう人達が、何事かと私を振り返る。
私の隣に座り、蜻蛉の眼鏡の向こうの大きな目を、ビックリするくらいに剥くマキちゃん。なんで私が怒鳴ったのか、まるでわかっていない風に。
私は一番最初のページに挟んであった栞を、今まで読んでいたページに移してパタンと本を閉じる。
「私が何をやっていたかわかってる?」
「本を読んでいたよねぇ」
「ちゃんと、わかっていたんだ。それはそれで、ちょっと驚いたよ。で、何で私の隣に座ってるの?」
「やだなぁ、ヒナったら。私と貴方の仲じゃなぁい?」
マキちゃんはライトブラウンの髪先を指で弄びながら、短めのスカートから覗く白磁のような私の太腿に空いた方の指先でいくつものの字を書き、甘ったるい声で囁いた。
私はブルルッと細い体を震わせる。
「ヤメてよ、くすぐったい。まぁ、百歩譲って隣に座っているのは良しとします。で、私の読書の邪魔をしてまで、いったい何をやってるのよ?」
「物色?」
「は?」
「だから、物色。私好みの男がいないかなぁって、物色してたの」
可愛らしく小首を傾げ、ペロッと舌を出すマキちゃん。小悪魔――この娘は紛うことなく悪魔に違いない。
こう言っちゃ何だけど、マキちゃんはホント男好きだ。や、不特定多数の男性と如何わしい関係を持っているとかそういうのではなく、彼女は単に男の人というものが大好きらしい。その神経が少しも理解できないけど。
私は男の人が苦手だ。いい思い出なんかまるでない。
それこそ薄っすらと記憶に残る幼稚園の頃から、本の事で男の子に意地悪されてきた。小学校にあがっても、中学生になっても、高校に通うようになってまで、人付き合いが悪いとか根暗とか陰口を叩かれてきた。
本が好きというだけで。
本好きが暗いとか大人しいなんて誰が言い始めたんだろう?
「本なんか家でも読めるでしょ? こんなに天気がいいんだから、そんな不健康な事やってないで、ヒナも男を愛でない?」
「アンタだ! アンタみたいな人が本好きを根暗って言うんだ! 不健康どころかそっちの方がよっぽど不健全だよ!」
「何よぉ~、もう。失礼しちゃう~」
プゥッと頬を膨らませるマキちゃん。
ボーイッシュでラフな服装を好む癖に、表情や仕草は女を前面に出してくる。そのギャップに魅かれた男の人が寄ってくるのも無理はない。たとえて言うなら、蜜に群る蟻だ。その蜜が思いのほか渋くても、それはそれで蟻も満足なんだろう。
言い寄られるのは好き。でも、そう簡単に靡かない。本当に恐ろしい娘だ。
「もう、私の幸せな読書の時間を返してよ。それに、こんな所で男の人に点数なんかつけていると、いつか痛い目に合うから。失礼だからヤメなって」
「え~、男だって女の人見てやってるじゃない。顔何点、体何点とか。同じだよ。ヒナの大好きな革ジャン先輩もやってるって」
「やってない!」
マキちゃんは大きな目をパチクリさせて、気持ち体を引く。
「そんなの、わからな……」
「やってない! 絶対にそんな事しないから! 革ジャン先輩はそんな人じゃ……あっ」
感情に任せて大きな声をあげた事を後悔する。
マキちゃんはニマニマと嫌な笑みを浮かべ、上目づかいで私を見た。私はバツが悪く、モゴモゴと語尾を濁してそっぽを向く。
「ねぇ、革ジャン先輩ってどんな男? こんな鰹節並みの堅物娘を落とすような男って興味あるわ」
「お願いだからマキちゃんは興味持たないで! それに誰が鰹節よ。そこはダイアモンドとか――って、そこまで堅くないから」
「なぁ~んだ、つれないなぁ。あっ、あの子……ヒナ二号!」
マキちゃんが指差す方向を目で追う私。そこには分厚い本を読みながら歩く、柔らかそうなウエーブのかかった髪の男の人がいた。
「何よ、私二号って?」
「最近、大学で見かけるんだけど、今時本を読んでる人なんていないじゃない? で、みんなでヒナ二号だって笑ってたの」
「みんなで、何だって?」
「あっ、いや、ヒナに似てるなぁって」
「みんなって誰と誰よ? その、笑っていたって人の名前を言いなさい!」
「あー!! 私、今日バイトだった。忙しい、忙しい。じゃぁ、もう行くね? また明日!」
早い。男の人の前では緩くフワフワしている癖に、こんな時は何よりも早い。
マキちゃんは私が止める間もなく、疾風のように走り去った。
嵐の去った昼下がり。
私はベンチに寄り掛かって、手を組みグッと背筋を伸ばす。そして捻る。
目の前を、私二号と揶揄された男の人が歩いていく。
小さめの青いナップサックを背負い、俯き前に垂れる黒髪を揺らしながら歩く私二号。開いた本に顔を埋める程近づけ、前も見ずに読み耽っている。私二号っていう言い方はあれだけど、親近感が湧いているのは否めない。
けどいくら私でも、歩きながら本は読まない。だって、危ないから。
何て思っている傍から、前から来た人にぶつかって本を落とす私二号。
選りに選って、相手はこれはまた怖そうな人。
ライダースジャケットにブラックジーンズを合わせた全身黒づくめの厳つい男の人が、私二号を思い切り睨みつける。
私二号は眉を八の字に歪め、ビクビクと首を窄めながら何度も何度も強面の男に頭を下げる。強面の男は落ちた本に手を伸ばし……
「大丈夫ですか?」
強面の男よりも素早く落ちた本を拾い上げ、私二号の前でニコッと笑う私。
こんな所で暴力沙汰なんてゾッとしない。折角の読書日和が台無しになる。
私二号はパァッと表情を明るくさせ、私の手を握り締め上下に振りながら再び何度も頭を下げた。
スベスベの温かい手。よく見ると綺麗な顔をしている。どこか中性的で、ナヨナヨしているようにも見えるけど。男はもうちょっとヤンチャでもいいと思う。
「チッ……」
舌打ちが聞こえた。
振り返ると、強面の男の人がボリボリと頭を掻きながら歩き去る背中が見えた。
ああ、そこまで粗暴なのはちょっとねぇ。もっと革ジャン先輩みたいに……って、何かおかしい。私の男の人の基準が革ジャン先輩になっている。そんなつもり全然……たぶん……少しくらいはあるのかな?
私は肩を竦めて小さなため息を吐いた。
「あ――の、本、ありがとうございました」
「えっ? ああ、大丈夫ですか?」
私二号はハードカバーの本を抱え小さく頷く。
何の本だろう? ちょっと興味があるけど、いきなりそんな事を聞くのは変だよね。けど、私以外にも本を読んでいる人がいるんだなぁ。自分で言うのもなんだけど、かなり少数派――むしろ希少人物だと思う。ちょっと嬉しいけど。
「歩きながら本を読むのはやめた方がいいですよ。危ないから」
「笑わないんですね?」
「は?」
「イヤ、本を読んでいるといつも笑われるから。女性なんか特に……」
ああ、彼は私と同じなんだ。
本が好きで読んでいるだけなのに、時代遅れだ何だと、周りから言われてきたに違いない。まるでそれが、悪い事かのように。
私だって電子書籍を読むし、別にネット社会を否定したりしない。それなのに、いつだってマイノリティは社会的な偏見や差別の対象になる。
本が好きと言えない時代がやってくる――なんて、若い頃の革ジャン先輩は思いもしなかっただろう。
本が好きで、本を書きたくて、印刷の世界に足を踏み入れたような人なんだから。
「全然そんな事ないですよ。本を読んでいる人は素敵だと思います。私も本が大好きですから」
大切に大切に本を抱えながら眉を潜める彼に向かって、私は飛び切りの笑顔を向けた。お世辞でも何でもなく、私の心の赴くままに。
私二号と揶揄された彼はホッと息をついて嬉しそうに小さく頭を下げると、情報処理教育センターのある三号館へと消えて行った。
そうだ、これから革ジャン先輩に会いに行こう。
若い頃の革ジャン先輩と話したい。そんな気持ちで胸がいっぱいになった。
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