3ページ目 Back to the Past
ドタドタと転がり込むように自分の部屋に戻り、お爺ちゃんに借りた本を棚の上に置くと、真っ直ぐ机の一番上の引き出しを引く。乱雑に詰め込まれたノートや筆記用具を押し退けるように、真鍮の装飾が施されたアンティークのジュエリーボックスが場違いな姿を晒している。私の大切な宝箱。
掃き溜めに鶴。 泥中の蓮。けど、ノートもジュエリーボックスも時代的には即した組み合わせだと思う。
以前よりノートや筆記用具さえも少なくなったと、お爺ちゃんは言っていた。
私はジュエリーボックスを机の上に取り出し、充電スタンドにかけられたピジョンを取り外す。そして、ジュエリーボックスとピジョンを並べ、胸を押さえる。
胸が激しく踊っている。かなりのアップテンポ。差し詰めヒップホップ。要所要所でブレイキングを織り交ぜながら。
落ち着け――落ち着け、私。
吸って、吐いて、吸って、吸って、吸って……
最後に一度、全身がペタンこになってしまう程の勢いで大きく息を吐き出すと、私は恐るおそるピジョンを鼻背に乗せた。
瞬間、電源がONになる。
目を寄せればチラリと見える程度の極小のデバイスに世界的技術の粋が詰まっているなんて、父親がその技術開発しているとは言え俄に信じ難い。仕組みはともかく現実に使っているのだから、信じるも信じないもないんだけど。
私は左親指と人差し指でL字を作る。そこに浮かびあがる仮想タブレット。
急く気持ちを抑え、私はTrash boxを指先でタップした。
仮想タブレットの画面いっぱいにファイル管理画面が表示されるも、そこには意味不明な文字の羅列で『、隍ヲ、ウ、ス。「ウケ、ホー??イー、オ、?リ。ェ』と表記されたファイルが一つ入っているだけだった。
このファイルに間違いない――よね?
必要に迫られた時以外ピジョンなんて使わないから、当然Trash boxにファイルを捨てる事もない。お父さんが「読み込めない」と言っていた、正体不明のVRデータ――取り敢えず、このフォルダを元の場所に戻さないと。
文字化けしたファイルを指先でVRフォルダにドラッグ・アンド・ドロップしてみる。
『、隍ヲ、ウ、ス。「ウケ、ホー??イー、オ、?リ。ェ』
ザザッ……
視界にモノクロームの砂嵐が走る。鼻骨を伝い、頭の中にまで響く短いノイズ。
実際には存在しない、私の目の中だけの画面が揺れる。霞む。滲む。
私は焦点を掴もうと、しきりに瞼をしばたたかせた。
プツン……
こ、壊れた!?
私の瞳から仮想タブレット自体が消え、煌びやかなジュエリーボックスの存在だけがいつもとは違う、見なれた机が視界の大部分を占めている。
私は指先でコツコツとピジョンを叩く。電化製品を叩いてどうにかしようという行為は、もしかしたら人間のDNAに起因しているのかもしれない。
ブンッ……
も、戻ったぁ。よかった、ただの接触不良だったのかな? えっ!?
仮想タブレット再び現れた仮想タブレットのディスプレイにある、たった一つのデータファイル。「読み込めない」と言われてTrash boxに捨てられていた、ピジョンのVRシステムが作り出したゴミファイル。
私はグリグリと目に掌を押し当てる。そして再び仮想デバイスに視線を落とす。何度も何度もそれを繰り返す。まるでカメラのシャッターを切るように。
『ようこそ、街の印刷屋さんへ!』
文字化けしていたファイル名が変わっている。
私が震える指先でVRファイルをタップすると、しんと静まり返った部屋で、カネタタキの声のような音が聞こえてくる。規則正しく、そして微かになり続けるその音は、目の前の小さな箱を抜け、ハッキリと私の時を刻んでいた。
私は鼻息を荒くしてジュエリーボックスの蓋をそっと開けた。
ジュエリーボックス――宝箱の中で、上条さんのデザインした名刺とPaFウォッチが、紅葉の葉っぱの栞や安物アクセサリーに飾られ、薄っすらと白い光を放っているように見えた。
「動いてる……動いてる! PaFウォッチが動いてる!」
目頭が熱くなる。私は考えるまでもなくPaFウォッチを左手首に巻き、それを胸に押し当てた。一瞬、心地よい風が私の体を吹き抜けたような気がした。
あっ、時が――飛ぶ。
お爺ちゃんの記憶、革ジャン先輩に会うため、過去へ……
* * *
「革ジャン先輩ー!」
大きな大きな排紙台の前にパイプイスを置いて、座りながら印刷物をジッと見つめる革ジャン先輩の背中に向かってダイブする。
革ジャン先輩は大きく肩を弾ませて私を振り返り、老眼鏡の位置を調整する。
「なっ!? ヒナちゃん!? どうした……」
「ごめんなさい!」
「は?」
「革ジャン先輩の言った事を守らなくてごめんなさい!」
革ジャン先輩の広い背中にグリグリと顔を押しつけ、回した腕に力を込める。印刷工場独特のインキと薬品に混じって、革ジャン先輩の汗の匂いが鼻孔を擽る。お爺ちゃんの匂いともちょっと違う、革ジャン先輩の匂いだ。
革ジャン先輩だ。温かい大きな背中。えへへ、革ジャン先輩だ。
「わかったんなら、もういいよ。それより、何て格好だ? 靴も履いてないし」
「!?」
黒いモコモコのスウェットに裸足。加えて、どスッピン。
私、革ジャン先輩に会える事しか考えてなかった。周りが見えてなさすぎ。どうりで足が痛かった筈だ。恥ずかしいったらありゃしない。
今までは過去に飛んでいると思っていたから、ちゃんと身嗜みを整えていた。そのまま面接会場へも出かけられるくらい。
ちょっと短いスカートは……遊び心? 本当に面接しに行く訳じゃないしね。
今まで着ていた服や持っていた物が、そのままVRに反映されるなんて考えた事もなかったよ。さっきの革ジャン先輩の匂いといい体温といい、これ本当にVRなの?
「服はともかく裸足は危ないな。インキ棚の裏に二階にあがるドアがあるから、そこでスリッパを履いておいで」
「はいッ!」
顔が火照る。こんなにもラフな格好で革ジャン先輩の前に出るなんて。家族にしか見せた事ないのに。……革ジャン先輩も家族と言えば家族だけど。
私がスリッパを履いて戻っても、革ジャン先輩は排紙台の前に置かれたパイプイスに座ったままだった。
印刷機がとてもゆっくり動いている。
確か前に言っていたっけ。薄い上質紙は静電気が起こるからスピードをあげない方がいいって。それにしても遅すぎやしないだろうか? 過去で見た、両面機の印刷スピードより遥かに遅い。
私はジャン先輩の隣で膝に手をつき中腰になり、アクリルカバーの向こうの印刷物を覗き見る。
フワッ、フワッと、揺れ落ちる木の葉のように、静かにゆっくりと積み重なる印刷物。
「革ジャン先輩、これは何を印刷しているんですか?」
「ああ、ケーキ屋だか何だかの包装紙だな」
「この紙、薄そうですね」
「最低最悪の薄さだな」
「ティッシュペーパーみたいですよね?」
「よく見てるな。あそこまで腰がなくはないけど、厚さはそれ以下だよ」
「それ以下!?」
「二枚重ねのティッシュをわけた一枚の厚さは0.07㎜。この紙は0.03㎜」
「は!? ティッシュ一枚の半分以下ですか!?」
置物のように固まったまま注意深く印刷物を見つめ口だけを動かす革ジャン先輩と、どれだけ積み重なっても高くなっていかない紙を見比べ、私は驚きのあまりポカンと口を開ける。
0.03㎜の紙って、どんな世界? そんな紙に印刷するって。
「スピードがゆっくりなのは、静電気が凄いからですか?」
「ほう、よく覚えてた……ぶッ! ああ、まぁ、その、あれだ。静電気はエアーからも……ゴニョゴニョ」
『ぶっ』て何、『ぶっ』て?
私の方を振り向きいきなり吹き出したかと思うと、革ジャン先輩は視線を固定したまま言葉を濁す。私の顔を見ていない。視線はもっと下の方。どこを見て……!?
勢いよく体を起こす。革ジャン先輩の視線を追って下を向き、初めて気づく。ダブっとしたラフな部屋着用のスウェット。首元がきついのが嫌で、ファスナーをあげきっていない。その下は襟ぐりが広いTシャツ。
中腰の体勢で、革ジャン先輩の目の前に広がった景色は、私のTシャツの中で十中八九間違いない。
革ジャン先輩はサッと、印刷機に視線を戻す。心なしか首筋まで赤く染まっているように見えた。
「その、まぁ、気にすんな。俺も気にしないから」
気にしてよ!
見られた。絶対に見られた。私は両掌で包み込むように胸を押さえる。
ザッと、一気に血の気が引く。その場で気を失ってしまった方が幾分幸せだったに違いない。
私の掌にマシュマロのような柔らかい感触しかない。
当然だ。してないのだから。
家から出る予定もなくダラダラするだけの一日で、わざわざブラをしなきゃいけない意味がわからない。と、日々のだらけた生活が悔やんでも悔やみきれない。
お母さん、なんでもっと私にきつく言ってくれなかったの? お母さんのせいで、革ジャン先輩に見られちゃったじゃない!
「あの、えっと……」
「見てない!」
「見ました……」
「見てない!」
「私のふくよかな胸を……」
「ふくよか!? ささやかじゃなくて!?」
「やっぱり、見たんだ」
「見てない! 断じて、見てない! 暗くて何も見えなかった!」
「忘れてください」
「忘れなきゃいけないものなんて、これっぽっちも見てない!」
「責任とってくれます?」
「忘れます!」
「酷ッ!」
もうッ! ホント、相変わらずだ。
けど、革ジャン先輩だ。私、また革ジャン先輩に会えたんだ。これからも、革ジャン先輩に印刷の事を教えて貰えるんだ。
胸を押さえながらも、私の口元が堪えきれずに緩む。嬉しくて堪らない。でも……
「今日は帰ります。また今度、印刷の事を教えてください。これからも、よろしくお願いします!」
深々と頭をさげる。ハッと我に返り、再び襟ぐりを押さえる。
革ジャン先輩はそんな私をチラッと見て、笑いながら頷きヒラヒラと手を振った。
「今度はちゃんとした格好で来いよ」
ギロッ!
「忘れます! 忘れました!」
私だけの物語がまた始まった。
本で言ったら第二巻。『ようこそ、街の印刷屋さんへ! 第二巻』本日発売だ。
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