2ページ目 魔術師

 本――同人誌だ。しかも、エッチな本じゃない。

 シンプルだけど、見ているだけで引き込まれそうな美しい表紙の同人誌が一、二……五冊。全部、A5サイズの無線綴じ。本の厚さは様々。

 私はその内の一冊を手に取った。

 艶々した濃いブルーの紙に銀色で印刷された表紙。表は幾何学模様とタイトルのみ。裏表紙は女の子を中心に、不思議なイラストが隅々まで描かれている。

 その本に魅了され、私は自然とページをめくっていた。表紙裏に丸い額縁に描かれたような男の人の横顔と、シェイクスピアの一文が印刷されている。

 パラパラとめくってみると、癖はあるけど細部までキッチリ書き込まれた美麗なキャラクターが、笑い、泣き、紙の中で踊っていた。



「これ、同人誌だよね? 商業誌じゃない――よね? オリジナル?」



 それ程のクオリティがあった。出てくる女性は可愛いし美しい。くるくると表情を変え、見ているこっちの顔が自然と綻んでくるのがわかる。

 魔術師の話。

 私は開けっ広げのクローゼットに向かい、夢中でその本を読み耽っていた。



カチャッ……

「おぅ? ヒナ、何やってんだ?」



 ビクンと大きく肩を弾ませ勢いよく振り返る。別に疚しい事している訳じゃないけど、いきなり後ろから声をかけられると流石に吃驚した。

 お爺ちゃんは床にペタリと座り込む私を見おろして小首をかしげる。そして何かに気づいたように目を剥きパカッと口を開けると、大きく頷きながら手を叩いた。

 そして、ニヤァと嫌な笑みを浮かべる。



「そこにはないぞ?」

「は? 何が?」

「エロ本」



 私は無言で立ち上がり、ニヤニヤと笑いながら顎を撫でるお爺ちゃんのお尻を力いっぱい蹴りあげた。奈落から飛び出る役者のように、勢いよく跳ねるお爺ちゃん。



「そんなの探してないから!」



 探してない。うん、絶対。あるかもしれないなぁって思っただけで。

 お爺ちゃんは両手でお尻を撫でながら、ゆっくりと椅子に腰をおろす。お爺ちゃんの重みを支え、気持ち軋むエグゼクティブチェア。



「お爺ちゃん、この本……」



 私はお菓子の缶を拾いあげ、お爺ちゃんの前に差し出した。お爺ちゃんは缶の中の本と私の顔を見比べて、ふむと鼻を鳴らす。



「読んだのか?」

「うん、まだ青い表紙の本だけだけど。この本、同人誌だよね? 全部同じ作者だけど」

「ああ、いい本だろ? ヒナが読んだ青い表紙の本は、ずっと昔に俺が印刷したんだ。一目惚れ――ってヤツかな? 一発で気に入っちゃってな」



 わかる気がする。たとえばこれが、本屋と呼ばれるお店に並んでいたら、即購入決定だ。今は、本屋なんてないんだけど。

 いい意味で癖のある絵。下手とかではなく、むしろ上手いと思う。他に見ない独特なタッチで細部まで書き込まれたその絵は、読み手の心をギュッと掴んで離さない。

 それ以上に、ストーリーが秀逸だ。

 口元がニヤけ、胸が苦しくなり、最後には涙が頬を伝っていた。

 総ページ数百ページの、ウチにある過去の単行本と比べれば半分くらいの薄い本。

 初めて読む本。

 初めて読むストーリー。

 なのに、何でこんなにも心を穿つのだろう?



「この本、全部お爺ちゃんが印刷したの?」

「あー、いや、青い表紙の本だけだ。あとは、貰った」

「えっ? あっ、面白かったですとか何とか言っちゃって、お客さんに……あれ? 印刷してないのに貰った? ん?」



 お爺ちゃんは椅子に座ったまま僅かに体を倒し、膝に肘をつき、祈るような格好で手を組む。そして、フッと視線を落としたかと思うと、おもむろに話し始めた。



    *    *    *


 ずっとずっと昔の話だ。

 その本を印刷したのは、街の小さな印刷屋で働くようになって二年ほどが過ぎた頃だった。

 印刷のの字も知らずに働き出した俺も、そこそこに腕を上げ、なんとか常連の客からも慕われるオペレーターになっていた。

 忙しく印刷機を動かしながらも、チラリチラリと漫画の内容まで読んで面白い本はないかと物色していたな。

 この漫画は面付けの段階で、俺の心を鷲掴みにしていた。

 こんな事はあっちゃいけないんだが、印刷するのも気合いが入ったね。素晴らしい漫画を素晴らしい印刷で仕上げてやろうって。

 あっ、別に他の仕事の手を抜いていた訳じゃないからな、念の為。


 俺は仕上がったその本を、印刷屋特権で一冊自分の懐に入れた。作者の断りなくだ。まぁ、製本屋から返ってくる本には余分があったからな。

 何で余分が出来るのかって? そりゃぁ当然だろ? 製本屋に出す段階で多く印刷しているんだから。製本屋だって、百冊本を製本するのに、きっちり百枚しかなかったら製本なんて出来っこないじゃないか。


 不老不死の、魔術師と呼ばれる称号を与えられた男の話。

 俺はこれまでの人生で、同人誌は疎か商業誌に至るまで、これ程美しいファンタジーに出会った事がない。

 斬った張ったの派手な冒険譚じゃなく、世界観こそファンタジーだが、どちらかと言うとヒューマンドラマに近いストーリー。

 異世界転生してハーレムでチートで俺TUEEEE的なファンタジーとはまるで違う、心に爪痕を残すような深い漫画だった。

 ん? 何その変なファンタジーってか? そういったファンタジーが一時期流行ったんだよ。今は影も形も残ってないけどな。


 よかっただろ、その本。

 語り継がれる、百余年前の美しき邦姫に纏わる魔術師伝説の真実。

 一目邦姫を見ようと城へ忍び込んだ魔術師は、幼き第二邦女に見つかってしまう。そして自ら魔術師だと明かすも、歯牙にもかけられず、本物の魔術師かどうか証明するために、毎年毎年決まった日に城へ訪れる羽目になった。

 何年も何年も、年を取らない魔術師が、第二邦女が死ぬまで彼女のもとを訪ねる――そんな話だ。


 あの小さな印刷屋を辞めた後も、俺のお気に入りの一冊だった。

 それから十年ほど経った頃、ふとあの作者の女性はその後、本を出しているのだろうか? と、気になった。

 印刷した当時はまだ一般的ではなかったインターネットも、その頃にはだいぶメジャーになっていたから、俺はその漫画の個人サークルをサーチエンジンで検索したんだよ。インターネットも使いようだからな。

 するとどうだ、作者の女性が個人サイトを開設して活動しているじゃないか。

 俺は歓喜の声をあげた。 直ぐ様、メッセージを送ったね。

 昔、印刷屋で働いていた事、その本を印刷した事、貴女の書いた作品がどれだけ素晴らしいか、そしてどれだけ自分の心に響いたかを、これでもかと言う程書き連ねた。

 そして、当時印刷した本の余分を勝手に貰い受けた事を明かした上で、シリーズすべてを購入したい旨を伝えた。


 彼女からの返信を見て俺は驚いた。

 送料だけで手元にある本を総て送ってくれると。もう本は作っていないけど、自分の書いた作品を気に入ってくれた事が本当に嬉しいと。

 正直、涙が出た。

 そんな事は悪いから――なんて、とても言えなかった。

 それは、読者に愛される物語を書いた作者の心からの好意であって、拒否する方が返って失礼にあたると感じたんだ。

 俺はすぐに送料を送った。

 感謝の気持ちを書きしたためて。

 その缶に入っている本は、最高の作者に貰った、最高の宝物なんだよ。



    *    *    *


 お爺ちゃんの言葉が胸に沁みた。

 印刷の仕事をしていると、他の人が経験できないような色々な出会いがあって、そこに素敵な物語が紡がれていくんだ。

 私は缶に入った五冊の本に視線を落とす。

 これは、お爺ちゃんの宝物。お爺ちゃんの今を築く大切な大切なピースの一つ。



「それから数年後、個人サイトは閉鎖し、もう二度と彼女と連絡を取る術がなくなった。俺がその本を手に入れてから十年もすると、サーチエンジンで検索に引っかかる事もなくなった。彼女が商業誌デビュー飾ったという話は聞かなかった。何でかな? こんなにも秀逸な物語が時代に埋もれていくのは」



 そう言うと、お爺ちゃんは酷く寂しそうに笑った。

 私はそんなお爺ちゃんの顔を見て、ギュッと胸を押さえる。

 印刷オペレーターの物語の、ほんの一ページ。

 革ジャン先輩に会いたい。



「ねぇ、お爺ちゃん? 私、もう過去に飛んだりできないのかな? もっともっと、革ジャン先輩から印刷の事を教わりたい」

「何だ? そんなのオレが教えて……」

「そうじゃなくて! ………教わりたいんだよ」



 私はフッと顔を背け、モジモジと体を揺すった。

 わかってる――わかってる筈なのに、何言っちゃってるんだろう? 私に色々と教えてくれた革ジャン先輩は、お爺ちゃんの記憶でしかないのに。



「会いたいのか?」



 チラッと横目でお爺ちゃんを見る。お爺ちゃんは少し不貞くされたように口を尖らせていた。私は力なく頷く。



「確か、ピジョンに変なデータが残っていたって言ってなかったか?」

「でも! それはただのゴミだってお父さんが……」

「ピジョンのバグとは言え、俺の記憶を元に作成されたデータがただのゴミとは思えないんだけどな。ヒナは使ってみたのか?」



 使ってない。試してもみていない。お父さんが「読み込めない」って言ってたから、考えもしなかった。

 私はいてもたってもいられず、勢いよく駆け出した。本の入った缶を胸にしっかりと抱え、お爺ちゃんを振り返りもせず。



「ちょっ、おい、ヒナ!」

「あっ、この本借りてくね!」

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