巻末告知( 第一巻、約15万文字)

ヒナの休日

 真正面に広がる銀幕を眺めつつ、私は手にしたバケツのような紙パックからポップコーンを掴み口に放り込む。キュムキュムと顎の骨を伝って耳に飛び込む、ポップコーンの潰れる音。

 館内はまだ明るい。

 沢山の人達の後頭部が、波に揺らめく海藻のように、あっちへこっちへ落ち着きなく揺れている。

 密室に充満する喧騒が、ポップコーンの音と重なって、滑稽なリズムを刻んでいた。

 私の隣には、丸い老眼鏡を鼻背にかけ、手元のパンフレットを前後させながら、見づらそうに顔を顰める男の人がいる。

 私のお父さんと同い年くらいの、髪を後ろで束ねた少しヤンチャな中年男性。



「革ジャ……監督?」



 パンフレットを読むのに夢中で私の声にまったく気づかず、監督は探るように肘掛けをパタパタと叩く。そして目的の赤い紙コップを掴み、その先から飛び出すストローを口に含んだ。



「監督ッ!」

「ふ?」



 やっと視線だけを私に向け、間の抜けた声を漏らす監督。私は再び紙パックに手を突っ込み、フカフカのポップコーンを口に入れた。



「さっひからようれるなに、うんっ……聞いてませんよね?」

「食べながら喋るなよ。聞いてるも何も、何言ってるのかわからんわ」

「あっ、スイマセン」

「で、何?」

「自分の作品を見る気分ってどうですか?」

「どうも何も……」



 監督は難しい顔をして私の円らな瞳をジッと見つめる。

 や、やですよ。そんな熱い眼差しを向けないでください。照れちゃいますから。

 いいんですよ、「可愛い」って言ってくれても。



「足りない」

「は?」

「足りない」

「可愛さが?」

「何じゃそりゃ? じゃなく、ヒナちゃんは印刷を勉強してきた訳だよな?」

「はい、もう印刷マイスターですよ。何でも聞いてください」



 私は胸を張って得意満面に顎を突き出す。

 散々勉強してきましたからね。革ジャン先輩の酷いセクハラにも耐えて。

 監督は私から顔を背け、フッと鼻で笑った。



「ど阿呆……」

「はっ!?」

「このど阿呆が! たったあれくらいの事で何こいてけつかる! ヘソで茶が沸くわ! ヒナちゃんが印刷マイスターだったら、何だ? 俺は神か? 印刷神か? 全宇宙を統べる印刷の創造主か? たかが印刷のの字を知った程度で……」

「はいはいはいはい、わーかーりーまーしーたー! ほら、もう始まりますから落ち着いてください革ジャン……監督ッ!」



    *    *    *


 響き渡る重低音に加え、明滅するスクリーン。そこに映し出される、髪を後ろで束ねた一人の男の背中。


【あの男が――】




 ガシャンガシャンと大きな音を響かせる機械の上でビニール製のヘラを持ち、束ねた髪を揺らしながら、深紅の粘土のような塊をリズミカルに混ぜ合わせる男。

 頭に巻いたタオルの隙間から頬を伝い流れ落ちる汗を、グッと袖口で拭う。


【あの男が――】




「こんにちはー! 今日も印刷の事を教えてください」

 どこかあどけなさを残す顔に満面の笑みを浮かべ、男のもとへ全力で走る女。男はヘラを機械の上に置くと、灰色の柵に手を掛けステップから飛び降りた。

「おう、今日は何を聞きにきたんだ?」


【帰ってきた!】




「革ジャン先輩! よろしくお願いします!」

「耳の穴かっぽじってよく聞けよ、ヒナちゃん!」


【ようこそ、街の印刷屋さんへ!】




 ヒナの背丈ほどの高さに積まれた紙の山を、真っ赤なハンドリフトを操り、息も絶え絶え力いっぱい引っ張る革ジャン先輩。何も手伝えず、不安気な面持ちでそれを見守るヒナ。

「そんな、無茶ですよ。死んじゃいますよ」

 紙の山から顔を覗かせ、革ジャン先輩は小さなため息をつく。

「無茶でも、無理じゃあない。待ってるお客がいるんだ。それが俺の仕事だからな」


【革ジャン先輩が――】




「どうですか? 私って凄くないですか?」

 カラーチャートとコート紙にのばしたインキを見比べて胸を張るヒナ。革ジャン先輩はウインクして、ヒナの小さな頭をポンポンと叩く。

「目が肥えてきたな。けど、まだまだインキは奥が深いぞ。ついてこれるか?」

 ヒナは天を貫く勢いで、細くしなやかな手を高々とあげる。

「はいッ!」


【ヒナが――】




 煌々と照らされるオぺスタに置かれた印刷物。そのトンボの上にペンルーペを乗せ、ヒナはサラサラの髪を手で束ね顔をそっと近づける。

「わっ、確かにズレてますね。こんなにシビアなもんなんですか?」

 華奢な体躯をくの字に曲げ、まるで頬ずりするような格好で印刷物を夢中で見続けるヒナ。

「ヒナちゃん、よく見えるだろ?」

「はい」

 ヒナの後ろで眉間に皺を寄せ深いため息をつく革ジャン先輩。

 革ジャン先輩の視界に飛び込む、チラリ、チラリと、薄い布きれの向こうに覗く淡いピンクのそれ。

「こっちも見えてるんだけど」

「なー! もっと早く言ってください!」


【パンツが――】




 ピンクのフォークリフトを巧みに操り、まるで昔の倉庫ゲームのように、紙の積まれたパレットを出し入れする革ジャン先輩。そしてそのまま、駐車場の真ん中をグルグルと回った。

 「何、遊んでるんですかぁ! 早く紙を運び込まないと、給紙の紙終わっちゃいますよ! ほら、早く早く!」


【印刷工場を駆け回る!】




 菊判半裁の大きなコート紙を両手で抱え引っくり返す革ジャン先輩。ツルンとした膝に手をつきそれを見おろすヒナを一瞥して、革ジャン先輩は紙の上で真っ直ぐ指を走らせる。

「こっちが目ね。紙の目は重要だから」

「紙に目があるんですか!? どこかの妖怪みたい……」

「オイッ!」


【聞いた事もない印刷業界の常識と】




「革ジャン先輩なんて大嫌いッ!!」

「おっ、オイッ!」

 絹のような髪を振り乱し、革ジャン先輩を振り返りもせず工場から飛び出すヒナ。革ジャン先輩はヒナを追うことも出来ず、大きなため息をつき肩を竦める。


【それを取り巻く人間模様】




 真っ白な髪の厳つい顔をした男が、一枚の紙を手に革ジャン先輩の肩を叩く。

「これ印刷したの革ジャンか?」

「はぁ」

「クレームだ」

「げっ……」

 男から紙を奪い取り、穴が開くほど凝視する革ジャン先輩。その顔がみるみる青ざめていく。

「まさか……先祖返り?」


【迫りくるクレーム




 オぺスタに置かれた、半分以上をベタが占める印刷物。それをなぞるように指さし、革ジャン先輩はヒナを振り返る。

「これがゴーストだ」

 ヒナは目をぱちくりさせ、革ジャン先輩の指先に視線を落とした。

「ゴーストってオバケですか? 印刷会社ってオバケが出るんですか?」


【不可解な現象】




「革ジャン先輩、泊めてください」

「はぁ!? ちょっ、まっ……」

 アパートの玄関で、今にも泣き出しそうなヒナが、若い革ジャン先輩に抱きつく。

 革ジャン先輩は両手を宙に泳がせ、小さく震えるヒナを肩を優しく撫でる。


【愛と】




 ザァー……

 乳白色の壁にかけたままのシャワーから降るお湯が、ヒナの透き通るような白い背中を伝い、丸みを帯びた腰を撫でるように流れ落ちる。

 ヒナは目を閉じ、真正面にシャワーの水滴を浴びると、細い指先で柔らかな髪に手櫛を通した。


【欲】




 メンズサイズのダボッとしたTシャツからのびる、美麗な曲線を描く足。

 薄暗い部屋の中、ヒナはオレンジ色の厚手のカーテンを勢いよく開けた。

 窓から差し込む強い光が、Tシャツに細いシルエットを浮かびあがらせる。

「さて、今日も元気に印刷の事を教えて貰おっと」


【そして物語はクライマックスへ……】





「私、印刷の勉強が出来て、本当に幸せでした」





【ようこそ、街の印刷屋さんへ! 教えて、革ジャン先輩! ― Over Print】





 本を愛する、すべての作者と読者に捧ぐ。 

 さぁ、印刷の話をしようか――





【Coming Soon……】




 ハンドリフトに乗り床を蹴り、まるでキックボードのように工場を移動する革ジャン先輩。ヒナは呆れたように小さなため息をつく。

「革ジャン先輩ッ……遊んでる暇があったら、私に色々と教えてくださいよ」

「どけぇ、どけどけぇ! 革ジャン先輩のお通りだ~!」



    *    *    *


「ねぇ、革ジャン先……監督?」



 私はグッと体を前に倒し、隣に座る監督の顔を覗き込むように見る。スクリーンの光を受けて、赤や黄色に変化する監督の顔。

 瞬きを忘れたように正面を見据えたまま、あろう事か私のポップコーンを霞め盗ろうと手をのばす。

 私はその手を勢いよく叩き落とした。

 監督は素早く手を引き戻し、もう一方の手で円を描くように撫で回す。



「一つ聞きたいんですけど、私のシャワーシーンなんていつ撮ったんですか?」

「あ? 俺はヒナちゃんの未来のお爺ちゃんな訳だ。ほら、そこはやっぱり、お爺ちゃん特権ってヤツで……ウグッ」



 私の腰を利かした黄金の左が監督の鳩尾に入る。

 監督はお腹を抱えてペタリと体を倒した。



「孫のお風呂を覗くなぁ! このセクハラ大王!」



―― To be continued.

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