39ページ目 ごめんなさい

 ひとしきり泣いた。

 それなのに革ジャン先輩の言葉を思い出す度に、何度も涙が溢れてきた。

 革ジャン先輩が何であんなに怒ったのか、まるでわからない。ちょっと機械を触ろうとしただけであんなに怒鳴るなんて。

 ――大げさだと思う。

 注意するにしても、もっと優しく言ってくれればいいのに。

 だなんて。

 あっ、駄目……また……



 ヒッ、ヒック……



 私はしゃくりあげ、毛足が長いピンク色のタオルを顔に押しつけた。そのまま、ベッドの上に転がるもふもふクッションを引き寄せ、きつく抱き締める。

 柔らかく心地のいい肌触りが、私の絶対零度まで冷えた心を優しく温めてくれる。

 犬がブルブルと濡れた体を振るように、私は髪を振り乱しタオルに顔を擦りつけた。そして、部屋の隅の姿見を見る。

 不細工だ。

 泣きすぎて目がパンパンに腫れている。髪はボサボサ、涙を拭き続けて目の周りは真っ赤。


 もう、印刷の事教えてもらえないのかなぁ。

 謝れば――いっぱい謝れば許してくれるかな?

 あれだけの事を言われちゃったんだ。私に出来る事はもう、謝る事しか残ってない。

 こんな事で折れるな、私のか弱い心。


 私は今一度タオルで顔を拭くと、それをベッドに放り投げて、パンッと両手で頬を張った。

 そして、ベッドから転がりおり、姿見の前でギュッと拳を握った。


 怒られるよりももっと前の革ジャン先輩に教わりに行けば――いや、駄目だ。

 やっぱり謝りに行こう。ごめんなさいって言おう。

 でも、ちょっと怖い。もう来るなって言われちゃったし。どうしよう?


 あっ、そうだッ!


 私は美少女アシスタント、タイムトラベラーヒナ。

 革ジャン先輩が怒る前に飛んで、先に謝っちゃえばいいんだ。

 え――っと、直前はちょっと怖いと言うか何と言うか……かと言ってバキュン年前は昔すぎるから、怒られた時から五年くらい前に遡ればどうかな? そこから半年に一回くらいずつ心の底から謝り続ければ、当日許してもらえるかもしれない。仮に当日は駄目でも、後日に謝りやすくなると思う。

 どう、この頭脳プレイ! 私の灰色の脳細胞がスーパーコンピューターを凌駕した瞬間ですよ!


 外堀を埋める――将を射んと欲すれば先ず馬を射よ!

 将も馬も革ジャン先輩だけど。

 よしっ、早速明日、革ジャン先輩に会いに行こう。

 こんな泣き腫らした顔じゃ革ジャン先輩に顔向けできないから、まずお風呂に入ってこなきゃ。

 待っててください、革ジャン先輩!



    *    *    *


 私は何度も革ジャン先輩に謝った。

 革ジャン先輩を真正面に、最も深いお辞儀――最敬礼をする。それも、すぐ頭をあげたりなんかしない。目いっぱいの大きな声でと言い、最低でも五秒間は頭をさげ続けた。

 その都度、革ジャン先輩は不思議そうに首を傾げていた。

 一応、「未来の革ジャン先輩をちょっと怒らせちゃって」と毎回伝えてはいる。フワッとした言い方と言えばそれまでなんだけど。


 印刷工場のアルミサッシの引き戸の前。

 私は背筋をのばし深呼吸する。もう六回ほど謝ってきたけど、未だ革ジャン先輩と顔を合わせるのは緊張する。

 それくらい、あの日の革ジャン先輩は怖かった。

 あの時は大げさだなんて思ったけど、何回か謝る内に、やっぱり自分が悪い事をしたんだなと思えるようになってきた。

 じゃなければ、革ジャン先輩はあんなに怒ったりなんかしない。


 スーツは――汚れてないな。髪もよし。メイクはナチュラルに。

 では、いよいよ謝りに行きましょう。

 私はゴクッとツバを飲み込み、アルミサッシの引き戸に手を掛けた。



 あれ? 今気づいたけど、怒られる前の私を止めればよかったじゃないかな?



 ――ううん、やっぱり謝る方がいいや。

 気持ちの問題だ、そこは。



「こんにちは」



 スッと引き戸を開けはするものの、いきなり飛び込んだりしないように、一呼吸置いてから静かに工場へ入る。引き戸を閉めグルリと工場内を見渡し、私は深く頭をさげた。

 工場の電気が半分消えている。正面天井付近の壁に掛けられた丸時計が十二時半を指している。

 お昼休みに来てしまった。

 けど、革ジャン先輩が使っている印刷機は、カタンカタンと最低スピードで動いている。排紙台には高さ5㎝程の紙が積まれていて、オぺスタには印刷された紙が何枚か重ねて置かれている。

 けどそこに、革ジャン先輩の姿はない。

 機械を動かしたまま、お昼ご飯を食べに行っちゃったの……



「うわぁぁぁぁ!」



 多分、革ジャン先輩と思われる、どこまでも情けない叫び声があがる。

 何て声をあげてるんでしょうか?

 もしかして、ゴキブリでも出たんですかね? 本当にそんな感じの声だった。

 私は印刷機をグルッと回り込み、吸紙部の方へ――いた。



「革ジャン……先……輩?」



 様子がおかしい。

 革ジャン先輩は背中を丸め左手首を押さえて――えっ!? 何!?

 ――血?

 転がるように革ジャン先輩に駆け寄る。



「革ジャン先輩! どうしたんですか!? 大丈夫ですか!? 血が出てるじゃ……な……い!? きゃぁぁぁぁぁ!!」



 心臓が大きく弾み、キュッと締めつけられる。

 イヤだ。ウソ……ウソですよね? 誰か……誰か……

 眉間に深い皺を寄せて苦痛に顔を歪める革ジャン先輩。左手人差し指の先から止めどなく血が流れ落ちる。

 指の先が……指の先がグチャグチャに潰れている。

 


「誰かぁ~! 革ジャン先輩がぁ~! 指が、指が……助けてくださ~い!」



 今言った言葉、今やった行動が何一つ頭に残らない。

 目の前の凄惨な光景だけが、どこまでもクリアに目の裏に焼きついている。

 怖い。怖くてたまらない。ガチガチと嫌な音を立てているのが自分の歯だと気づくのに、かなりの時間がかかった。

 ただ、必死になって革ジャン先輩の左手首を両手で握り締める。そんな事してもどうにもならないのに。


 止まらない。血が止まらない。涙も止まらない。

 私の悲鳴にも似た叫び声だけが、工場の中に木霊する。

 誰か、助けて。革ジャン先輩の指が……



「革ジャンさん! 大丈夫で……んな訳ない! 課長~、課長~! 革ジャンさんが機械に手を巻き込まれました!」



 駆けつけた工員の男性が大声で上司の人を呼ぶ。すぐに、何人もの人たちが革ジャン先輩を取り囲んだ。



「救急車呼んでください! 救急車!」

「革ジャン、こっちへ来てまず座れ。手は上にあげておけよ」

「革ジャンさん――」

「革ジャン――」



 みんなの声が頭に入ってこない。指に巻かれた白い布に赤いシミが広がる。

 私は革ジャン先輩の背中に抱きつき泣いた。

 声が枯れるくらい、大声で泣いた。



    *    *    *


 「ヒナちゃん……ごめん」



 工場の外、沢山の紙が置かれた一角の段差に座り、革ジャン先輩は私に向かって薄い笑みを浮かべた。

 顔色が真っ白だ。痛みで時々顔を歪めている。

 革ジャン先輩の横に座り、彼を抱き締める手に力を込める。そして私は、革ジャン先輩の作業着に顔を押しつけ、擦りつけるように頭を振った。

 涙でぐちゃぐちゃになったメイクで革ジャン先輩の作業着が汚れる。それを見ても、革ジャン先輩は嫌がる素振りも見せず、怪我をしていない右手を私の頭にポンッと置いた。


 少し落ち着いてきたものの、まだ鼓動が早い。

 赤く染まった布の下を思い出すだけで、胸を殴打されたような痛みが走る。

 革ジャン先輩の指の先、潰れてた。

 いくらパニックを起こしていたからと言っても、その怪我が尋常じゃない事くらいはハッキリと理解できた。

 

 印刷機の調子が悪く、点検調整する為にカバーを開けて作業していたらしい。

 革ジャン先輩が上司の人に話していたのを、私は一言一句漏らさず聞いていた。

 機械がロクに動かない。けど仕事は山のようにある。

 焦った革ジャン先輩はふと――本当にふと、回転しているチェーンに触れてしまった。

 それは、あっと言う間の出来事だった。

 革ジャン先輩の指は小さなギアを通り過ぎた。

 

 救急車がものものしいサイレンを引き連れて到着する。

 革ジャン先輩は一度私の頭をポンッと叩き、自ら救急車に乗り込んだ。

 私は革ジャン先輩の背中を見送る事しか出来なかった。


 謝りに来た筈なのに、謝れなかった。ごめんなさいって言えなかった。

 それどころか、何でこんな事になってしまったんだろう?

 私がもっと早くに来ていれば――来ていれば?

 革ジャン先輩は怪我をしなかった?


 そうだ! 私はタイムトラベラーヒナ!

 革ジャン先輩が怪我をする前に飛べば、きっとこんな事にならない筈。


 私は左手を胸に当てて、PaFウォッチを右掌で包み込んだ。

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