38ページ目 トラブル対処法

 楽しかったなぁ、同人誌即売会。

 ネットで小説や漫画を読んでいるだけじゃ体験できない、興奮冷めやらぬ一日でしたよ。やっぱり生が一番! ビールも生が最高ですよね。

 けど、その後の革ジャン先輩との食事は本当にガッカリした。

 何ですかね、ラーメン屋って。こんな美少女を連れて行くようなお店ですか? センスを疑います。

 オマケに、なんて言っておきながら、革ジャン先輩は一銭も払ってないじゃないですか。全部、社長さんから頂いたお金ですよ。

 ホント、ムードもへったくれもあったもんじゃない。

『頑固オヤジの気まぐれAセット』、美味しかったですけど。


 こんにちはー、ヒナでーす。

 今日は未来の革ジャン先輩に、同人誌即売会に行った事を報告に来ました。

 散々、「基礎から勉強して来い!」って言われましたからね。

 印刷や製版や面付け、加えてインキも学んだし、あろう事かエッチな漫画まで読まされましからね。そして遂に、イベントにまで行っちゃったんですよ。

 成長したんです、私は。そろそろ上級者向けの話を聞かせてもらってもいいんじゃないでしょうか?

 ステップアップですよ、ステップアップ!



    *    *    *


 アルミサッシの引き戸をを開けると、工場の中はムンッとした熱気で充満していた。作業している人たちの額に汗が浮いている。

 外と工場内の温度差が激しい。天井に備え付けられた大きな業務用エアコンを見る限り、ルーバーは正常動作している。それなのにこの暑さ。


 ガシャンガシャンと等間隔で鳴り続ける機械音。今まで聞いた事がないくらいの短い間隔。まるで、印刷機に急かされているような気さえ覚える。

 その印刷機の排紙部で、アクリルカバー越しに印刷物を凝視している革ジャン先輩。腰辺りまでおりた排紙台に積まれた紙を、両手指先を細かく動かし揃えている。

 私は革ジャン先輩に駆け寄り、彼の後ろで大きな声を張りあげた。



「レベルアップヒナ、ただ今戻りました!」

「おう、ビックリした」



 革ジャン先輩は僅かに肩をあげはしたものの、その体勢を崩すことなくチラリを私を一瞥すると、再び印刷物に目を落とした。

 何か手が離せないようですね。

 私は手持無沙汰にオぺスタに置かれた印刷物を見おろす。

 革ジャン先輩が今印刷している紙が蛍光灯の明かりに照らされている。



「レベルアップって、どの程度?」



 革ジャン先輩は首だけをググッと捻り、私を振り返る。

 私は手を腰に、これでもかと胸を張った。



「最初の頃がレベル1だとすると、今は――50です!」

「おー! 大きく出たな。ちょっと天狗になってないか?」

「なっ、そんな事ないですよ! なんてったって同人誌即売会にも行ってきましたからね」

「へぇ……楽しかった?」

「はいッ!」



 革ジャン先輩は動かし続ける指先を徐々に止め、次から次へと積み重なっていく印刷物を注視しながら、そろりそろりと後ずさりした。そして1mほど離れた所でマネキンのように動きを止め、高速で積まれていく紙を穴が開くほど見つめた。



「ん、もうだいじょうぶかな。よしっ、ヒナちゃんお待たせ」

「革ジャン先輩、今何やってたんですか?」

「紙を揃えてた」

「そんなの見ればわかりますよ。何でですか?」

「静電気がね……あっ」



 印刷機から排出された一枚の紙が、先の紙の上に上手に着地せず、少しばかり横に飛び出す。それを見つけ、革ジャン先輩は慌てて再び紙を揃えに行く。



「上質の薄紙は、静電気が起きやすいんだ。パウダーを振ってるから裏移りの心配はないけど、後工程で紙が揃ってないと大変だから」



 革ジャン先輩は排紙部左側にあるいくつものツマミを動かし、再び排紙が安定しするのを確認すると、オぺスタの前でディスプレイを指差した。

 真っ黒の画面に色々な情報が表示されている。



「ここ、12000rphって表示されてるだろ? これは今、一時間に12000枚印刷出来るって意味なんだ。ちなみにヒナちゃんが勉強してきた両面機は精々一時間に8000枚って所だな。要するにかなりのスピードで印刷してるって訳。薄い上質紙で回転をあげると紙が揃い辛いんだよ。上質紙は静電気も発生しやすいしね」

「はぁ、じゃぁ回転を落とせばいいんじゃないんですか?」

「うん……まぁ、計算すればわかるって。そうだな、たとえば48000枚印刷するとして計算してみようか」



 オぺスタの紙を引っくり返して印刷されていない方を上に向けると、革ジャン先輩は数字を書き込み出した。そして私を見て、「いい?」と確認するように小さく頷く。



「12000回転だと単純計算で何時間で印刷出来る?」

「えっと、4時間ですね」

「じゃぁ、8000回転だと?」

「6時間です」

「ね?」

「ね? って時間がかかるって事ですか? 今印刷しているのは何枚印刷なんですか?」

「60000枚」

「なっ!?」



 それは確かに回転を落としたくないですね。たとえば今より2000回転落としただけで、刷りあがりが1時間も違うんですから。印刷って、そんな事まで考えないといけないんですね。



「ヒナちゃん、ちょっとそこで排紙を見ててよ。見てるだけでいいから。絶対に近づくんじゃないぞ。紙が引っ掛かったりしたら大きな声で呼んで」

「革ジャン先輩はどうするんですか?」

「給紙に紙を積んでくる」



 革ジャン先輩はそう言うと、小走りで印刷機の向こうへ駆けて行った。

 ええ、任せてください。なんてったって私はレベル50ですからね。

 私は1m程離れた排紙部に目を凝らす。とても目では追えない早さで紙が積み重なっていく。ずっと見ていると目が回りそう。

 そんな時だった。

 一枚の紙が手前の方で浮き上がり、斜めになって飛び出した。

 そこへ次から次へと印刷された紙が積み重なる。




************


 革ジャン先輩です。

 大ロットの印刷物にもなると、一点の印刷に何時間もかかる事があります。

 当然、その間に排紙部から離れる事も多々あります。何時間も同じ場所にいる訳にはいきませんし、トイレにだって行きたくなりますからね。

 減った傍から紙だって積んでいかないといけません。


 菊全機にもなると二人で印刷作業する事もありますが、ここで私が使っている印刷機――菊半5色機は、通常一人で作業しています。

 印刷の仕上がりやインキの減り具合を確認しつつ、紙積みもやらないといけません。大ロットであってものんびりはしていられないんです。

 そして、排紙部から離れた時に限って、紙が排紙部で巻きあがったり、印刷物が汚れてきたりします。


 不具合は現場から離れると発生する。見ている時には発生しない。

 現場あるあるですね。本当に嫌な法則です。


 すぐに対処しないと、時には何百枚もの紙のロスが発生してしまいます。数分目を離しただけなのに500枚汚れが出てしまったとか、珍しい事ではありません。

 今回の場合はヒナが不具合を確認しているので、そんな事にはならないでしょう。

 紙積みをしている私を呼べばいいだけですから。


 ん? ヒナ? どこへ行く?


 オイッ! 


 人の話を聞いてなかったのか?


 ヒナ、近づくな!


 ヒナッ!


************




 飛び出した紙を皮切りに印刷された紙があちこちに飛び出し、とても揃っているとは言い難い状態になっている。

 それでも印刷機は止まることなく、もの凄い早さで紙を排出し続ける。

 革ジャン先輩を呼ばなきゃ。

 や、さっき革ジャン先輩が紙を揃えるのを見ていましたからね。あれくらいだったら私にも出来そうです。

 革ジャン先輩忙しそうですし、ちょっと私がやっておきましょう。

「ヒナちゃん、成長したなぁ」なんて、褒められちゃうかもしれませんよ。

 ありがとうございます。今度はラーメンじゃなくてホテルのディナーでも。

 ……けど、若い革ジャン先輩の方がいいかな? なんちゃって。


 私は印刷機の排出部に寄る。

 アクリルカバー越しに見た印刷物は、クシャクシャにはなっていないものの、左右から押さえつけるガイドの上まで乗りあげている。

 私は印刷物を抱きかかえるように腕を広げ、指先で……



「何やってんだ!!」



 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 大きな音を立てて印刷機が急停止する。コンスタントに鳴り続ける機械のエラー音が時を刻む。

 勢いよく襟首を掴まれ引き倒された私は、尻もちをついた格好でポカンと革ジャン先輩を見あげた。

 ハッと我に返り、スカートの裾が大きく捲れあがっている事に気づく。パンツが丸見えだ。

 私は慌ててスカートを押さえた。



「何するんですか! パンツ見えちゃったじゃ……」

「そんな事、どうだっていい!!」



 私は肩を大きく弾ませきつく目を瞑る。

 減り込むくらいに首を窄め頭を垂れ、薄目で革ジャン先輩の姿を探す。

 足だけ見える。

 ボロボロになった仕事用のスニーカーが私の膝のすぐ先にある。私は恐るおそる顔をあげると、今まで見た事もない怒気を放つ革ジャン先輩の顔があった。

 ギリリと食い縛った歯が震える唇から見え隠れしている。

 目元はピクピクと痙攣し、荒い鼻息の音まで聞こえてくる。


 怒ってる――んですよね?

 革ジャン先輩のを見ちゃった時とは比べものにならないくらい怖い。

 あの時は怒っていたんじゃなく、ただ不機嫌になっていただけなのかもしれない。



「あ――の、ごめんな……さい」

「近づくなって言っただろ! ちょっと印刷の事を覚えた程度で、気分はもう一丁前か? 調子に乗るな!」

「なっ、調子になんか乗ってませんよ!」



 私の甲高い声が工場に響く。

 ちょっとムッときた。

 何でそこまで言われなきゃいけないのか、サッパリわからない。私は革ジャン先輩の手を煩わせたくなくてお手伝いしようと思っただけなのに。

 革ジャン先輩は私に背を向けると、握りしめた拳をオぺスタに押しつけ、グリッと捻り込む。オぺスタに置かれた紙が皺くちゃになるくらい。



「出ていけ」

「は?」


「言われた事も守れない奴は出ていけ」

「何でそんな……」


「出ていけッ!!」


「や、イヤですよ。私、まだ印刷の事……」

「二度と俺の前に姿を見せるな!!」



 呆然とした。

 革ジャン先輩が何を言っているのかわからなかった。

 気づいた時、私は泣きながら工場を飛び出していた。

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