40ページ目 あしのゆび
アルミサッシの引き戸に手を掛ける私。
革ジャン先輩のグチャグチャになった指先が脳裏を霞め、バクンと大きく心臓が跳ねる。
戸を開けるのが怖い。けど、私が革ジャン先輩を止める事が出来れば、彼は大怪我しなくて済む筈。
大きく息を吸って、私は勢いよく戸を引いた。
正面の壁に掛けられた丸時計は十二時二十分を指している。前に私が来た時より十分早い。工場の電気が半分消えている。そして、前と同じように、カタンカタンと音を響かせながらゆっくりと動く印刷機。
一度見た光景。そしてこの後、革ジャン先輩は……
急がなきゃ。私が革ジャン先輩を助けるんだ。
「革ジャン先輩~! どこですか~?」
返ってこない言葉を待ちもしないで、私はオぺスタから吸紙部の方へ回り込んだ。
工場奥の大きな大きな引き戸の前に、紙の包みが何本も積まれた緑色の台車が置かれている。
給紙台いっぱいに積まれた真っ白な紙。
印刷機の音が私の苛立ちに拍車を掛ける。
革ジャン先輩がいない。こっちの方から出て来た筈なのに。
私は給紙部を通り過ぎ、インキ棚と機械の間のステップを小走りで駆け抜ける。
いない。機械が動いているのにどこにもいない。
時間だけがすぎていく。
隣の印刷機の影、軽オフ印刷機の向こう、インキ棚の裏――何度も何度も、革ジャン先輩が使っている印刷機の周りをグルグル回る。
いない、いない、いない、いないいないいないいないいないいないいない……
「うわぁぁぁぁ!」
一番聞きたくない声が私の耳に突き刺さる。
私は両手できつく耳を塞ぎ、オぺスタの前でペタリと座り込んだ。
耳に当てた手に力を込め、飛散したブロッキングパウダーで汚れた床の上で土下座するように丸まり、何度も何度も首を振る。
何で? どうして? 何で何も変えられないの?
駄目だ。もっと前――もっと前の時間に飛ばなくちゃ。
* * *
アルミサッシの引き戸を開けて工場に飛び込む。
半分消された電気。人っ子一人見当たらない工場で動き続ける印刷機。
十二時十分。
時間以外に変わった所は何もない。
今度は他の場所には目もくれず、私は給紙部の台車の横に陣取った。
ゆっくりと動き続ける印刷機の音と重なるように跳ねる心臓。大きく息を吸って、そして吐いて、瞬きも忘れたかのように印刷機に目を凝らす。
まるで一つの塊のように美しく棒積みされた紙。その向こうの印刷機内部を灰色のカバーに、毛羽立つような埃が溜まっている。
革ジャン先輩はいない。けど、ここで待っていれば絶対に現れる筈。何故なら、血塗れの指を押さえた革ジャン先輩が立っていたのは、今ここにいる私の目の前だったのだから。
絶対に私が革ジャン先輩を助ける。
ここからだとインキ棚が邪魔をして時計を見る事が出来ない。PaFウォッチは時計としての機能はない。スマホは――過去では使えないスマホなんかそもそも持ち歩いていない。当然、ピジョンも。
今、何分だろう?
カタン……
インキ棚の向こうで小さな音が鳴った。印刷機の音に紛れて確かに聞こえた。
私は台車に積まれた紙に手をつき、台車に乗り上げるような形でインキ棚の向こうを覗き込む。
「革ジャン先輩? そこにいるんですか? 革ジャン先……」
「うわぁぁぁぁ!」
何で!? どうして!?
今の今まで革ジャン先輩の姿なんてなかったのに、呼んだって返事もなかったのに、給紙台の隣から突然、左手首を押さえた彼が現れた。
「イヤァァァァ! 何で? どうなってるの? 何で革ジャン先輩を止められないの?」
フラフラと覚束ない足取りで歩く、革ジャン先輩の足元に縋りつく。
私の目の前に、革ジャン先輩の赤い――鮮やかな赤い水滴が落ち、薄汚れた緑色の床の上に飛び散った。
蛍光灯の光を受けて、生々しく、そしてどこか物悲しくスッと広がる血だまり。
総てをなかった事にしたくて、私は床の血を両手で一生懸命拭った。
もっと前――お昼休みに入る前に飛ばなきゃ駄目だ。
タイムパラドックスなんてどうだっていい。
工場のみんなに革ジャン先輩を止めてもわなきゃ。
* * *
「革ジャン先輩が怪我しちゃうんです!」
「は? 革ジャンが怪我? 何で?」
「お昼休み中、機械に手を巻き込まれて……」
「革ジャンさんが? そんなミスする人じゃないんだけど」
「信じてください。誰か――誰か革ジャン先輩を止めてください」
「ははは、そこにいるんだから自分で止めればいいじゃん」
駄目だ。誰も話を聞いてくれない。
みんな、訝し気に首を折り、まるで可哀想な子供を見るような目を私に向ける。
鼻で笑い、そっぽを向き、軽くあしらう人たちに怒りさえ覚えた。
けど、今回は革ジャン先輩がすぐそこにいる。今なら止められる。
私は革ジャン先輩の背中に飛びついた。そして、決して離さないように回した両手をきつく握り締める。
革ジャン先輩は肩越しに私を振り返り、驚いたように長い睫毛を何度もはためかせた。
「なっ、何だよ突然。何ジョーク? そんなサービスしても何も出ないぞ?」
「馬鹿……馬鹿ですよ、革ジャン先輩は! ここにいてください。ちょっとだけでいいんです。お願いですから、ここから動かないでください!」
「どうした? 仕事片付けたら話聞くからちょっと待っ……」
「駄目ですって!!」
ガッタン……ピー、ピー、ピー……
突然、大きな音を立てて印刷機が止まり、けたたましい発信音が鳴り響く。
「クソッ、調子悪いなぁ。給紙のタイミングが悪いかぁ? ヒナちゃん、ちょっと調整してくるから離して……」
「ヤです! 絶対に離しません!」
「何で!? こんな事で残業したくないんだけど……」
『怪我しちゃうからです!』
なっ、声が出ない。
パクパクと口は動けど、唸り声すら出せない。
革ジャン先輩は私の腕をいとも容易く引き剥がす。そして、私の頭に大きな手を乗せて優しい笑みを浮かべた。
『嫌ッ! 行かないで! 行っちゃ駄目!』
「何て顔してんだよ。ちゃんと、話は聞くからちょっと――ちょっとだけな?」
『嫌だ! 何で? 声…声出てよ! 駄目、駄目、駄目……』
溢れる涙を撒き散らすようにかぶりを振る。必死に革ジャン先輩の足にしがみつき、彼をこの場に留めようと試みる。
そんな私をヒョイッと軽々抱き上げ、まるで子供をあやすように、革ジャン先輩は私の頭を優しく撫でた。
「ありがとう」
『え!? 何? 何でお礼? ちょっ、革ジャン先輩、行かないで!』
足も手も、まったく動かせない。
私の目だけが、給紙部へ向かう革ジャン先輩の背中を追う。
機械のエラー音が止まり、機械がゆっくりと動き出す。そう、何度も見た、もう二度と見たくない光景と同じように。
そしてすぐ、私と革ジャン先輩以外誰もいない工場で、彼のどこまでも情けない叫び声が響き渡った。
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ヒナ……もういい。
もう、いいんだ。ヤメろ。
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今度こそ、みんなに残ってもらわないと。
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よせ。お前が傷つくだけだ。もういい。
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革ジャン先輩、ギター弾けなくなっちゃう。
好きな事が出来なくなっちゃう。
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何をやっても無駄だ。もう戻るな。
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ごめんなさい、ごめんなさい。もうしません。
もう、黙って機械に近づいたりしませんから。だから……
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ヒナ……可愛いヒナ……お前に未来は変えられない。
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行かないで、革ジャン先輩!
行っちゃ駄目ー!
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そこは、過去ではないのだから。
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革ジャン先輩ー!
* * *
救急車がものものしいサイレンを引き連れて到着する。革ジャン先輩は一度私の頭をポンッと叩き、自ら救急車に乗り込んだ。
私は革ジャン先輩の背中を、ただ見送る事しか出来なかった。
何度も何度も時を遡っても、何も出来なかった。何一つ変えられなかった。
工場の外で救急車のサイレンが聞こえなくなるまでボーッと立ちつくす私。溢れる涙が頬から顎を伝い、駐車場のアスファルトを黒く濡らした。
『ひとさしゆび、あしのゆびみたい~。へんなの~』
幼い頃――幼稚園くらいの頃、笑い交じりに発した私の言葉がふと頭に蘇る。
苦々しく唇を噛み、私は寄り掛かった壁に背中を擦りつけるように力なく崩れ落ちる。そして、突っ伏すようにアスファルトの上で丸まり、肩を振るわせながら咽び泣いた。
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