25ページ目 光とインキと私の目

「さっき中間色のインキを見せた時にヒナちゃんが言った事を覚えてる?」

「真ん中の――色ですか?」

「違う違う。カラーのインキだと特色は作れないんですか? って言ってたろ?」

「はい、言いましたね。だって違いがわからないですから」



 革ジャン先輩は小走りで印刷機のステップに上がると、印刷機横の取っ手に手を掛けた。



「じゃぁ、実際に作ってみよう!」



 全身で勢いをつけ機械にのぼると、革ジャン先輩は機械の上に置かれていたクリーム色のヘラを手にする。そしてまるで手旗信号のようにそのヘラを振った。



「そっち側にまわってヒナちゃんもおいでよ」



 私は革ジャン先輩がヘラで指した方――階段状になっているステップの方へ回って、機械の真ん中に立つ彼のすぐ左下につく。

 革ジャン先輩は得意満面にニヤッと笑い私を見おろした。



「機械に寄り掛かったりはナシで。インキがついているかもしれないからね。インキで汚れていい服じゃないから」

「はい、まぁ……気にしていただいてありがたいんですけど、革ジャン先輩の隣までのぼってもいいですか?」

「ん? インキを練ってる所をもっとよく見たいって事?」

「もちろんです」

「じゃぁ、ちょっと待ってて」



 革ジャン先輩はそう言うと、私のいるステップとは対面の向こう側へ飛び降り、体を屈めてオぺスタの前を通り抜ける。機械の影に隠れた革ジャン先輩はすぐに私の方へ回り込んできた。その手に小さな木製の足台を持って。



「これ使って」



 腰を屈め私の足元に木製の足台を置く革ジャン先輩。私は咄嗟にスカートを押さえる。その体勢で顔を上げられたら、またパンツ見られちゃいますから。

 そんな私の心配をよそに、革ジャン先輩はスラリとのびた私の足にすら見向きもせず、すぐに再び機械の真ん中に飛び移る。

 エヘエヘといやらしい笑みを浮かべられるのも嫌ですけど、見向きもされないのも何だか気に障りますね。まるで私に魅力がないって言われているようで。



「何で隣じゃ駄目なんですか? 邪魔だから?」

「邪魔と言うか、確かに作業し辛くはあるけど。理由はそれ」



 若ジャン先輩は片目を歪め私を指差す。

 下を向いて、体を捻り、後ろまで見回しても何が理由なのかサッパリわからない。私はただひたすら首を傾げる。



「あのねぇ、ここまでのぼると結構高いだろ? それで、オレがインキを練っている所を体を屈めてじっくり見ちゃったりしてみろよ。何も工場内の人間にサービスする事はない」

「あっ……」



 両手でお尻を押さえ、キョロキョロと工場内を見回す。そして、作業している革ジャン先輩の同僚の方々を順繰りに眺めた。私の顔の温度が一気に急上昇する。

 革ジャン先輩の隣は絶対に駄目ですね。こんなに沢山の人に見られたら、ショックで引き籠る自信がありますよ。

 少しは気にしてくれていたんですね。ちょっと――嬉しいです。


 私はおとなしく足元の台に乗る。

 機械の上にイエローМマゼンタの缶が並べて置いてある。その向こうに、軽オフ両面機よりも大きく幅広いインキツボがある。

 インキを入れておく箇所のローラーが、自動でゆっくり動き続けていた。これは軽オフの印刷機では見られない動きだった。

 インキツボのローラーを動かす手動レバーがついていない。きっと自動化ってヤツなんでしょう。



「今からプロセスインキのイエローМマゼンタを混ぜるけど、さぁ何色になるでしょう?」

「黄色と赤色を混ぜるって事ですよね? もちろんオレンジです」

「うん、概ね正解だね」

「概ね?」

「まぁ、見てなって」



 そう言うと、革ジャン先輩はインキ缶から黄色と赤色のインキをヘラで水飴のように巻き取り、インキツボの動き続けるローラーでそれをこそぎ落とした。

 動き続けるローラーのせいで、インキツボの中をゆっくりと左右に広がっていく黄色と赤色のインキ。その中途半端にすら混ざっていないインキに、革ジャン先輩は手にしたヘラを下に向けて握り、拳を振り下ろすようにそれを押し当てた。そして、ヘラを大きく左右に動かす。

 大きく大きく――八の字……もとい無限大の形を描くように、リズミカルにヘラを動かす革ジャン先輩。時には両端のインキをヘラで掬い上げ、それをローラーの真ん中辺りでこそぎ落とし、満遍なく均等にインキを混ぜていく。一見簡単そうに見えるこの動きでさえ、実際にやるとなると出来る気がしない。


 ものの二、三分で練り作業を中断した革ジャン先輩は、印刷機の取っ手を掴みながらもう一方の手をのばし、インキ棚に置かれた紙を一枚手に取った。

 はがき大の白く光沢がある紙を親指と人差し指で抓む。そのしなり具合から、薄い紙に違いない。

 革ジャン先輩はその紙を帯状に手で千切ると、小さい方の先をインキにちょんと付ける。つけたのかな? ついているようには見えないけど。

 そして、小さい紙と大きい紙を指の先で支えるように、何度も何度もペタペタと重ね合わせた。



「何やっているんですか?」

「あ、これ? 練り合わせたインキの色を確認してるんだ。これがなかなか難しいらしくて、初心者は出来ないみたいだよ」

「出来ないみたいだよって、他人事ですか?」

「慣れだからね。もう何年もやってるから、出来ない理由がわからない」



 フフッと小さく笑いながら、革ジャン先輩が私の目の前に大きい方の紙を差し出す。白いツルツルとした紙の隅の方に、オレンジ色のインキがぼんやりと、小さく丸く春の花のように咲いていた。



「私もやってみていいですか?」

「いいけど、手や服を汚さないようにね」

「服は気をつけます。手は汚れたら洗います」

「ん、立派」



 私は革ジャン先輩からツルツルの紙を受け取ると、彼を真似て帯状に千切る。そして汚れないようにその先をインキツボの中のインキに付けた。

 わっ、付けすぎた。けど、まぁいいや。

 帯状の紙の先についたオレンジ色のインキを左手に持つ紙に押し付け、ペタペタと擦り合わせる。濃いオレンジ色が広がり――広がり――広がり、手にもついた。



「わぁ! 革ジャン先輩~、汚れちゃいましたぁ!」



 私の指の人差し指の先に、オレンジ色の塊が『どんなもんだい』と胸を張る。

 そんなに存在感を主張しなくてもいいです、ホント。

 革ジャン先輩は慌てて棚の横の段ボール箱から白い布を一枚取った。



「ほら、言ってる傍から」



 私の手を握りしめ、指の先を丁寧に拭いてくれる。そして、ベビーの機械の方――工場の隅を指差した。



「あそこで手を洗えるから。洗剤もあるから洗っておいで」

「はい」



 工場の隅に備え付けられた水道で手を洗い戻って来ると、革ジャン先輩はオぺスタの前で私を待っていた。



「綺麗に落ちた?」

「はいッ!」

「じゃぁ、これ……」



 革ジャン先輩がオぺスタの明かりの下に並べた二枚の紙切れ。左が私で、右が革ジャン先輩のペタペタした紙。

 ハッキリ言って、全然色が違う。

 色と言うか、濃さが違う。

 私がのばしたインキは基本濃い上に、大きくてムラだらけ。これだと、作ったインキの本当の色がどの部分なのかさっぱりわからない。比べて革ジャン先輩がのばしたインキは小さく均一なオレンジ色。どうやったらこんなに綺麗にのばせるんでしょうか?



「まぁ、この違いは年季の差って事で。で――だ。カラーチャートの566番が中間色の橙だから探してみて」



 私はオぺスタに置かれたカラーチャートを広げて566番を探す。

 色っていっぱいありますね。566番が末尾じゃなさそうですから、少なくともそれ以上色があるんですよね? えっと、566番……566番……



「わっ……全然違いますよ。凄く綺麗なオレンジ色です!」



 一瞬、自分の目を疑った。

 革ジャン先輩が紙の上にのばしたインキは確かにオレンジだ。けど、カラーチャートのオレンジはもっと、遥かに鮮やかなキレイなオレンジだった。横に並べて比べるとさらによくわかる。練って作った方のオレンジは少し暗い。



「光の三原色は色を足せば明るくなり最後には白くなる。逆に色の三原色は色を足せば暗くなるだろ? だから、プロセスインクだけで特色を作ると、暗くなって鮮やかな色が作れない。じゃぁ、鮮やかな色を作るにはどうすればいいか。そこで中間色の登場って訳。全部が全部じゃないけど、中間色のインキの中には、鮮やかな特色を作る事が出来るインキがあるんだ」

「へぇ~! 驚きました。ホント、感心しました。凄いです、革ジャン先輩! 尊敬します!」

「いや、凄いのはオレじゃないから」



 革ジャン先輩は謙遜しながらも照れくさそうに笑う。

 私は手にしたカラーチャートの他の色をじっと眺めた。

 暗い色から明るい色、冷たい色から暖かい色、本当に沢山の色がある。それぞれの色の配合が記されているけど、理屈まで書いてある訳じゃない。これは革ジャン先輩が長い年月かけて学んできた事なんだ。

 それを私が教えてもらっている。感謝してもしきれない。

 ありがとうございます、革ジャン先輩。

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