26ページ目 紙とインキと貴方の目
私の熱い視線に気づいて革ジャン先輩は大きく目を見開く。そして、眉間に皺を寄せ目を細めた。
「何、その目? 気持ち悪いんだけど」
「失礼しちゃいます! 羨望の眼差しですよッ!」
「からかってるの? 謀ってるの? もしくは馬鹿にしてるの?」
「どれだけネガティブなんですか!? 革ジャン先輩は女性からこういう目で見られた事がないんですか?」
「怖がられた事しかないけど……」
可哀想です、革ジャン先輩。けど、その風貌じゃ仕方がないですよ。
革ジャン先輩は頭に巻いたタオルを取り髪の毛を縛り直す。
うん、どこからどう見ても、逆立ちして見たって人相が悪いです。
肩より長い髪なのにサイドは刈り上げていて目つきも悪い。しかも普段の服装は、オールシーズン革ジャンなので、女性が寄ってくる筈がない。
私は込み上げてくる涙を鼻先で堪え、口元に手を当てた。
「ううっ……大丈夫ですよ。私だけは革ジャン先輩の味方ですから」
「絶対に馬鹿にしてるだろ」
「やー!」
革ジャン先輩の大きな手で、私の髪の毛がグチャグチャに掻き乱される。
私は頬をパンパンに膨らませて口を尖らせた。そして、乱れた髪に手櫛を通す。
もうッ! そんなんだからモテないんですよ。
ベッと舌を出して鼻に皺を寄せる。
「ホント、教えてもらう側の態度じゃねぇよな。それでも一生懸命なのは伝わるから無下にも出来ないんだけど。まっ、そういうヤツは好きだよ」
「なっ、何言ってるんですか、突然!? ヤメてください、そういう事言うの。そうやっていつも女性を誑かすんですね!?」
「誑かされたの?」
「されてませんッ!」
腕を組み、凄い勢いでそっぽを向く私。わかってる。顔が真っ赤になっているのは。顔の温度がいつもより10℃は急上昇しているに違いない。今なら特撮番組の巨大怪獣さながら口から火を吐けそうな気がします。
革ジャン先輩はクスクスと笑いながら私の肩を抱くように手を添え、ポンポンッと優しく叩く。そして私の目の前に飴の袋をぶら下げた。
「それはもういいから、次の話に移ろう。飴でも舐めながら」
革ジャン先輩からもらった飴を口に放り込み、チラッと目だけで彼を振り返る。革ジャン先輩は、少し意地悪そうな顔でニッと笑った。少し小馬鹿にされた感じがして、下唇を突き出す私。
「
「だから舐めながら話すなよ」
「あっ、スイマセン」
「さっきは光と色の三原色から中間色の必要性を話した訳だ。じゃぁ、今度は紙とインキの関係を話す事にしよう」
そう言うと、革ジャン先輩はオぺスタの上の印刷物を横にずらす。
オぺスタの上にその大部分を占めるくらい大きな印刷物が二枚、白い光に照らされている。ずらした上の紙の半分は、隣の棚の上にだらりと垂れさがっている。
上の紙も下の紙も、黒と紺色の二色刷りの印刷物だ。
この紙はA判半裁でしょうか? それとも菊判半裁でしょうか?
「さて問題です。さて、この印刷物の違いは何でしょうか?」
「違いって、見たまんまですよね? 引っ掛けとか、意地悪とかないですよね?」
「ヒナちゃんって、オレの事をどういう目で見てる訳?」
「印刷している時の気分が違うとか、そんなのなしですよ?」
「そんな訳あるかぁ! いいから、早く答えなさい」
私はオぺスタに並べられた二枚の印刷物を見る。
目を凝らして見るまでもない。
同じ柄の印刷物。新築戸建てのチラシ。残り一棟3800万。
下の紙は上質紙で、上の紙は光沢のあるツルツルした紙。上質紙の方が落ち着いた感じだろうか? ツルツルした紙の方が同じ柄なのに派手に見える。
紺色も違う。
「えっと、まず紙が違いますよね? 上質紙とツルツルした紙」
「コートな? コート紙。上質紙や中質紙を白土(クレー)でコーティングした紙の事だ。他にも艶消しコーティングされたしっとりとした質感のマット紙もあるから覚えておくように。印刷の基本の紙だから」
コート紙はわかります。漫画本の表紙のカバーがコート紙ですよね? マット紙は……マット紙、マット紙……よくわかりません。
眉をひそめ首を傾げる私を察して、革ジャン先輩は棒積みされた印刷物の山から別の一枚を持ってきてくれる。
ああ、これがマット紙ですか。滅多に見ませんけど、これってスクラッチくじですよね? 確かに触った感じがしっとりサラッとしています。
「他には?」
「はい、後は色が違います。黒は――同じ黒なんですか? 上質紙の方が薄く見えますけど。もしかして濃いグレーとか? 紺色は明らかに別の色です。コート紙の方が明るくて、上質紙の方がグレーに近い紺色です」
「うん、まるでお手本のような回答だな」
「もちろんです! 勉強してきましたから!」
腕を組んで顎を突き出す。
革ジャン先輩はそんな私を見て、フフッと小さく笑った。
もう、鼻高々です。ピノキオを凌駕するくらい。や、嘘をついている訳じゃないですからね? 褒めてくれてもいいんですよ? さぁ、遠慮はいりません。
「残念、全部不正解です」
「えーッ!! そんな筈ないですよ。革ジャン先輩のその老眼鏡はポンコツですか? ちゃんと見えてます? だからこんなに可愛い私の事を、美の少ない女なんて言えちゃうんですよ」
「ヒナちゃんが可愛いかどうかは置いといて、言っている事は正しいよ」
「そっ、そうですよね? あー、よかった。革ジャン先輩が目に重い病を患っているんじゃないかと心配になりましたよ」
「オレにもそう見えるよ。けど、不正解です」
「は?」
まるで意味がわかりません。
オぺスタに並べられた二枚の印刷物。黒は百歩譲って同じ色だとしても、紺色は絶対に違う色だ。
私は一枚づつ両手に取り、オぺスタの明かりの下から印刷物を移動させる。印刷機から少し離れた場所で、緑色に塗装された床の上に印刷物を並べ、スカートの裾を押さえながらその場で膝を折った。揃えた膝の上で頬杖をつき、工場を照らす蛍光灯の下でもう一度じっくりと印刷物を眺める。
同じ柄で違う色の印刷物。黒と紺色――言葉にすれば同じだけど。
あれ? 革ジャン先輩は『オレにもそう見えるよ』って言いましたよね?
私は床の印刷物を拾い上げ、再びオぺスタの上に並べて置いた。
「私だけじゃなくて革ジャン先輩にもそう見えるんですよね? 誰の目にも?」
「そう、誰の目にも」
「なのに不正解って事は、そう見えるだけで実は同じ色って事じゃないですか?」
革ジャン先輩はニィッと口の端を上げる。
「その通り! インキは紙によって見え方が違うんだ。特に顕著なのがコート紙と上質紙。コート紙の方が鮮やかにパリッと見えて、上質紙の方がくすんだ感じになる」
「どんなインキも?」
「どんなインキも」
「何でですか?」
「まず一つ目。ヒナちゃん、紙の表面を触ってごらん?」
私はコート紙と上質紙の表面を順番に指先で撫でる。
ツルツルとしたコート紙に比べて、上質紙は少しザラザラしている。
「コート紙の表面って、水とか弾きそうですよね?」
「それッ! インキを弾く訳じゃないんだけど、上質紙に比べて紙への吸い込みが少ないから濃度が出る。インキの発色がいいんだ。同じ理由で上質紙は、インキを吸い込んじゃうから濃く印刷してもなかなか濃く見えない」
「へぇ~、じゃぁやっぱり黒も同じ黒なんですね。一瞬、グレーかな? とか思っちゃいました。あと、紺色の違いって何でですか?」
「そうだな……海を思い浮かべてみようか?」
海!? インキに紙が濃くて薄くて色が変わって……海!?
私の頭の中で思考回路が完全にショートした。その内、焦げ臭い煙が毛穴から出てくるかもしれない。
海と言われて思い浮かべるのは、テレビで見たどこかの国の 一面エメラルドグリーンの海だった。
「思い浮かべました。いつか恋人と二人で行ってみたいです」
「うん、羽目を外さないようにね。じゃなくて、凪だと海は同一の青に近くなる。けど、そこに風が吹いて波が立つと?」
「それもまた綺麗ですね」
「そうだな、風情があって――違うッ! 色だよ色!」
「太陽を反射して光ったり、影になった所は暗かったり?」
「そう、紙も同じ。コート紙の紺色は綺麗に光を反射した紺色。逆に上質紙は細かい凸凹加減であらぬ方向に光を反射する。そのせいで、目に届く光の量が減るから暗く見える」
私は革ジャン先輩を片手で制し、もう一方の指先を顎に押し当て上を向く。
オぺスタの明かりが色見台全体を均等に照らす。それでもなお、上質紙の細かいミクロの凸凹加減で色を変化させてしまう。
革ジャン先輩の理論通りなら、確かに彼の言った通り、どんなインキでもコート紙と上質紙の色合いが変わって見えるに違いない。
でもそれって、仕事として受けるのはとても難しい事のような気がする。
「印刷の注文がどうなっているのかわからないんですけど、それってお客さんから文句言われたりしないんですか?」
「だから、あれ」
革ジャン先輩は印刷機横の棚に詰め込まれたインキの缶を指差した。
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